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「くぉらあぁぁ!!!!」
座りこんだ百合香の耳を咆哮がつんざく。
振り返った二人組が硬直したのも無理はない。グラウンドからなだらかに続く勾配を猛ダッシュで駆け上がってくる人物は、遠目にも危険間違いなしの雰囲気だ。屈強な体つきに似合わぬスピードで百合香たちと同じ位置まで到着した彼は、おでこ全開の上、金剛力士像顔負けの怒りをたぎらせている。
「ひぃっ!」
男のどちらかが恐怖に短い叫びを漏らした。188cm・80kg、試合さながらの威嚇とスピードで近づく筋骨隆々のキーパーは、ゴール前で見れば、さぞ迫力満点に違いない。
ドタバタと逃げ去っていく男たちが巻き起こした風が、ほつれた黒髪を舞い上げた。道脇の草むらに座りこんだまま、駆け寄ってきた彼をただ眺めていた。
「百合香さん!! 大丈夫ですかっ」
目の前に屈んだ楠が、大きく腕を広げた。傾き始めた太陽を覆い隠す彼の大きな体がすぐ先にある。シャワー後なのだろう、微かな石鹸の香りが鼻をかすめた。瞬きも忘れた瞳に、彼が着ているTシャツのロゴ――跳躍するピューマだ――が、くっきりと焼きつく。
「だっ! その、すみません!! ちょっと混乱しただけで!」
体温が伝わりそうな位置で急停止した楠は、不安定な態勢で後方に倒れかかっている。手足をばたつかせてなんとか堪えた彼の顔は真っ赤で、状況も忘れて頬が緩んだ。
「…………ふっ」
零れ落ちた笑いのおかげで、全身の強張りが徐々に解けていく。蟹のようなポーズで固まった楠を前に、笑いが止まらない。ひとしきり笑い終えた体は弛緩し、百合香は安堵の溜息を深々とついた。
「ちがうの、ごめんね。安心したら、なんだか気が抜けたの。尻もちをついただけだから、大丈夫」
笑いすぎたな、と、ささやかな反省とともに見上げた先にある真剣な顔に身が竦んだ。……本気で怒らせたかもしれない!!――パチパチと盛んに瞬きを繰り返す間に、楠は態勢を整えて地面に膝をついた。
「自分は」
言いかけてすぐに言葉を切った彼は、しばしの逡巡の後に、意を決したかのように唇を開いた。
「自分は、百合香さんの笑った顔が大好きです。先日、松田の話をしていた時に、百合香さんが大笑いをされて……」
決まり悪そうに外された視線の先でうつむく横顔には初めて目にする感情が見え隠れしていた。
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