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「悔しかった。俺の力で、あんな風に笑ってほしかった、から」
横を向いたままの楠の言葉に、すぐには反応できなかった。驚きと、困惑、少しだけ後ろめたい嘉悦……彼が元気のなかった原因が、そんなことだったとは。
「……私の大笑い、オッサンみたいだよ。佳良によく注意されるもの」
「いいえ。そんなことないです。いま、目の前で見ましたから。じつに可憐でした!」
「笑い方だけじゃなくて、すべてがガサツだよ。試合中の大声でわかったでしょ? 清楚なのは名前だけのエセ乙女なんだから」
「名前を呼ばれて嬉しかったです。……残り数分、試合に集中できなくて焦りました。それは俺の鍛錬不足ですけど」
すぅ、と、息を吸いこんだ楠に、ためらいは見られなかった。
「これからもずっと、俺の隣で笑っていてほしい」
唐突な敬語解除に、胸が大きく高鳴った。無自覚らしい楠は、百合香が目を丸くしていることに気づくことなく立ち上がる。
「ともかく、百合香さんが無事でなによりです!」
照れ臭さを跳ねつけるように勢いを取り戻した彼は、いつもの「ですます調」に戻っていた。
「どこも怪我はないですか?」
「……ダメかも。足が動かないし、ぜんぜん立ち上がれない」
ええっ、と、頓狂な声を上げた楠に内心で詫びつつも、顔は笑ってしまった。汗をかいて肌もテカテカだし、メイクもしていないすっぴんの、締まりのない笑顔で、まっすぐに彼を見上げた。
そろそろと持ち上げた手が虚空をさまよったのは数秒だった。
「失礼します」
几帳面な、そして明らかに不要な台詞は、百合香の手をがっしりとつかんだ後に述べられた。
西洋の王子さまが挨拶するような気取った仕草ではなく、両手で挟んだところが彼らしい。想像よりも大きな、想像よりも温かな二つの手が、ぎこちなく百合香の手を包んでいる。
「……ありがとう」
ようやくの礼を述べ、支えられるようにして立ち上がったが、恥ずかしさから二人揃って前を向いたままだった。溶け落ちそうな夏の夕陽が、辺り一面を焼きつくさんばかりの茜色に染め上げている。
(夕方でよかった)
染まった頬がバレないことをホッとしつつ、長く伸び始めた影を引き連れて歩き始めた。ずいぶんな時間をかけてグラウンドまで戻った二人の手は、離れることなく繋いだままだった。
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