ホリホック見上げて

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 不意に鳴り響いた電子音に立ち止まる。ペットボトルを片手に抱えて、ポシェットから携帯を取り出した。 『姉ちゃん!!』  応答するより先に、切羽詰まった弟の叫びが耳を塞いだ。 「どうしたの?」  不安を露に問いかけたが、泣きじゃくる声だけが続いて埒があかない。 「内堀ね? いま行くから!」  宣言するや否や、平穏な園内を走り出した。マラソン大会の練習場でもあるだだっ広い公園を恨めしく思いながら腕を振り上げる。両手に一本ずつ握るペットボトルはまるでバトンだ。 「佳良!!」  小プールほどの面積に水を湛える内堀の一角に、しゃがみこむ弟の姿を捉えた。息を切らせつつも加速する百合香の瞳に、もう一人の人物が映る。 (うわ、でっか……ダメ、怯んじゃダメ! 先手必勝、よ!!)  徐々に大きくなる「敵」は、佳良を見下ろすように仁王立ちしている。上下ジャージ姿の男は遠目にも体格がよく、眼光鋭い顔立ちも近寄りがたい。 (……負けない! 佳良を傷つけるヤツは許さないんだから!!)  幼少期から十六歳の現在に至るまで、容姿に優れた弟には、恩恵以上に多くの受難がつきまとう。ナンパや待ち伏せは日常茶飯事、痴漢や車に連れこまれそうになったのも一度や二度ではない。  温和で皆から愛される弟が、理不尽に傷つけられるのは許さない――。  両親や友人にも言えない「恥」だ、と、姉の部屋で嗚咽する佳良を抱きしめ、なにもできない自分の無力さを嘆いてきた。 「変態野郎!! 私の弟から離れなさい!」  のどかな白昼に、百合香の咆哮が響き渡る。互いの距離が残り数メートルとなり、男の瞳が軽く見開かれたのがわかった。  自身も爛々と目を開き、とんでもない形相になっているはず……一瞬の恥じらいをかなぐり捨て、ついでにペットボトルも放ると、ジャージ大男に突進する。 「姉ちゃん、違うよ! この人は――」  弟の声と、百合香が男の胸を思いきり突いたのは同時であった。  血の気が引く、とは、このことだ。  ほぼ半身を泥まみれで地上に戻った男は無言・無表情で、姉弟に直った。  デカい。  改めて対峙する相手の、着衣でも伝わる頑強な体つきに、先ほどまで自分を奮い立たせた勇気が萎えていくのを感じる。 「ごめんなさい!!!!」  額を膝に付けんばかりの勢いで頭を下げる。一歩遅れて、隣に並ぶ弟も同じ仕草を返した。遠巻きに三人を眺める通行人も、弛んだ暑い空気も、呑気に惨状を包みこんでいる。 「顔を上げて」  地底から呻くような低い、ドスの効いた声に、青ざめた顔をもたげていく。視界には彼の泥まみれのスニーカーとジャージの裾が映り、ますます全身が萎縮する。
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