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「本当に……申し訳ありませんでした。私の勘違いで、大変な失礼を……あの、せめて、クリーニング代を……」
「必要ない。こんな着古したジャージ、泥を落として洗えばいい」
ぴしゃりと返された声に、ますます居心地が悪くなる。単調に鳴き続ける蝉の声をBGMに、三人の周囲にだけ暗雲が立ちこめていく。頭が眩むのは、暑さと、走り出してすぐに帽子を落としたせい、だけではない。
(人生最大の失敗……)
しゃくり上げながらの佳良の説明に、百合香は言葉を失った。
怪しい男にしつこくつきまとわれて往生していた弟を救った「正義のヒーロー」こそ、百合香が堀に突き落とした人物である。
「……俺の高校の先輩なんだ」
「ええっ!?」
弟からの追加情報に、思わず頓狂な叫びが上がった。姉弟のやり取りに、すぐ先に突っ立つ男の眉がピクリと動く。しまった――口を押さえたが、もちろん遅い。
(嘘でしょ? どう見ても、入社三年目・主任です……って、くらいの風貌よ。ていうか、若頭並の迫力があるじゃないの!!)
狼狽する百合香を見据えたまま、男はジャージの内側に手を入れ、なにかを取り出そうとしている。
銃!!!!――……刑事ドラマ大好きJKの脳裏には、それしか浮かばなかった。
「え?」
ずいっと突きつけられたものは、泥にまみれずに済んだ学生手帳である。受け取りもせずに、丸くなったままの瞳で追った氏名に息を呑む。
〈楠 葵一郎〉
カメラを睨みつけるような形相の証明写真付きの学生手帳には、たしかに弟が通う橘学園高校の印字がされていた。百合香と同じ十八歳、高校三年生である。
「読みは、きいちろう、だ。苗字の最後と名前の最初の字が同じで、じつに読み上げにくい……」
ずぅん、と、威厳のある声での補足説明に、唖然とするほかない。
(若頭というよりはサムライね……。てか、この人、ジャージで公園に来る時も学生手帳を持ち歩いてるんだ……)
どうでもいい情報が錯綜する百合香の脇で、弟は鼻をすすりながら必死で涙を堪えようとしている。
「ほら、もう泣かないの」
若頭風サムライの相手はひとまず横に置き、佳良に直った。
昔から、泣き虫の弟を世話するのは姉の役目である。だが、彼を守る力は備わってはいない。佳良がひとりで乗り越えなければならない道だとわかってはいる。わかってはいるが、容姿のせいで人一倍、傷つけられるのはなんとも理不尽だ。弟の涙が悔しさから成るのは、誰よりも理解していた。
「わかってるよ……。こんなんだから、俺は、ダメなんだ。女みたいな外見もそうだし……こういう……弱っちい人間だから、すぐ、ナメられて、つけ入られるんだ……」
慰める言葉もなく、百合香の胸にも痛みだけが広がっていく。ポシェットからハンカチを取り出し、弟に差し出そうとした時だった。
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