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予想に反して気分よく迎えた週明けは、下校で暗転した。
昨日の事件現場となった内堀に、一際目立つ人物を認めて硬直する。
(ホントに高校生なんだ……)
梅雨らしい曇天の夕方、ジャージではなく、制服姿で佇む楠の眼光が鋭く百合香を捉えた。同じ服装なのに、弟とはまるで「圧」が違う。白の半袖シャツ越しにも鍛えられた胸筋が、さらに、剥き出しの腕は前腕・上腕と筋肉ががっちりと形を成している。
(あ、どうもー……なんて、軽すぎよね。お許しください!!……土下座でもした方がいいのかしら? 笑うべき? いやいや、自分を内堀に突き落とした極悪人がヘラヘラしてたら腹立つわよ。でも、仏頂面だと喧嘩売ってるみたいだし……)
ロボットよりもぎこちない歩みで前進しながら、ぐるぐると思考を巡らせる。笑いも威嚇もできずに、引きつった顔で威圧感抜群の「恩人」の前に立つ。
「昨日はどうも……」
「皆見百合香さん!!」
蚊の鳴くような挨拶は、楠に一蹴された。
正面で背筋を正した彼は、より大きく映る。思わず一歩退き、恐る恐る口を開いた。
「な、なんで、私の名前……」
「佳良くんに聞きました。昼休み、俺の教室に現れて、ずいぶん丁重に礼を述べてくれました!」
あのガキ!――愛しの弟も、時と場合によっては小悪魔である。百合香の通学路を教えたのも佳良だろう。親しい友人たちとはお堀の手前で分かれるため、ひとりで立ち向かうしかない。
「百合香さん!」
「はいっ」
至近距離で聞くには威勢のよすぎる声量だ。おっきいなあ……中学から女子校に通う百合香は、男子という生き物にあまり免疫がない。ふわふわと可愛い弟のせいで、現実との乖離も激しかった。
「俺は! 感動しました!!」
多くの通行人たちが視線を寄こす中、楠は大きく息を吸いこんだ。
「弟を助けるために、俺に立ち向かってきた貴女は、輝いていました! その正義感、ひたむきな姿……まさに、俺が追い求める人間像そのものですっ」
予想の遥か斜め上を行く楠の「熱弁」に、返す言葉を失う。「ええと、その、なんか、ありがとう」……たじたじと絞り出した声に、困惑と羞恥とがふんだんに滲む。
(嫌味? ……じゃないよねえ……)
真剣そのものの楠を正視できない。昨日、力いっぱい彼を内堀へと突き落とした行為を猛省する。水位が予想以上に低く、楠に怪我がなかったことが唯一の救いだ。
なんとか首をもたげて、キッと瞳を見返す。初めて直視する相手は、形のよい切れ長の瞳をしていた。
(あ、奥二重だ)
森の奥で希少な獣に出くわしたような感覚に、状況も忘れて口元がほころぶ。すると、楠は頬を真っ赤に染めて、両手をぎゅうっと握り締めた。彼の素性を知らぬ人なら、恐怖で卒倒するであろう。
「俺は! 百合香さんをっ、好きになりました!!!!」
「…………はい?」
かろうじて一言を発した百合香の背後で黄色い叫びが上がった。ちらっと振り返ると、同じセーラー服の一団が興味津々の笑顔で走り去っていく。
再び正面に直ると、不意に楠の姿が消えた。百合香の瞳には、内堀沿いに植えられたタチアオイが映り、淡いピンクの花が微笑むように揺れている。
「俺と、お友達になってくださいっ! お願いします!!」
見事な直角のお辞儀を繰り出し、楠は力強く言い切った。
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