1.ある女生徒の日常

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1.ある女生徒の日常

 そこは人でごった返していた。  南側に面した開放的なカフェテラス。暖かな日差しが窓から降り注ぎ、涼しい風が今は開放されたガラス張りのアコーディオンドアから吹き込んでくる。昼時という時間帯とこの陽気に誘われて、弁当を持参していない者や、まだ午後の授業がある者は皆、空腹を満たすためにここへ集まって来ていた。  食堂的な役割を担っているせいか、混雑時には相席が可能なように大きなテーブルが配置されている。  格安の値段と盛りの良いメニュー、ソコソコの味と好条件が揃っており、当然テーブルは満席状態である。食事の合間に、参考書とにらめっこする者、単語帳を繰る者。友人と談笑する者と様々だが、来訪者は若者がメインだ。  だが、一角だけ人の寄りつかぬ場所があった。窓際で明るく庭に面した景色のいい席にも拘わらず、その四人がけのテーブルに腰掛けるのは一人だけだ。 いや、そのテーブルのみならず、何故かそこの一角は着席する人もまばらだ。  そこに一人だけ腰掛ける人物は、長い亜麻色の髪が美しい西洋人形のような女性だ。女性と呼ぶにはまだ早いような、シミ一つ見付からないみずみずしい肌には化粧っけもなく薄くリップを塗っただけだ。  春の光を受けて弧を描くリング。腰まで伸びるそれは癖のないストレート。同じく明るい色の瞳、しかし。  彼女はただ黙々とランチを食べている。暗く翳かげったその瞳は、ただ煌きらめくばかりで何も映しておらず表情すらもない。これがまだ年若い娘のする表情であろうか。  外から入ってくる光に包まれながら、まるで現実感がなく一枚の絵のように見えた。  訪れる人も多く、喧噪けんそうでごった返しているにも拘わらず、そこはある種の静寂に包まれていた。  近隣に腰掛ける物は、彼女をちらちら横目にしながらひそひそと話を話をする者か、完全に彼女に背を向けるなり、参考書に没頭するなりして彼女の存在そのものを意識の外にしている者かのどちらかだった。まるでガラス一枚隔てて別の世界にいるような。  不意に、無意識の結界というべきれらをものともせず、むしろ静寂をうち破るようにその空間に侵入する者がいた。  天をつくような長身、広い肩幅。よれよれの白いワイシャツ姿の男が、大量の食べ物をトレイに乗せてこちらへやって来た。  洗いざらしのシャツはパンツに押し込まれてもおらず、髪は伸び放題で肩に掛かり、手入れされている様子はない。シャツのボタンも二個目まで外され、中に来たカーキ色のティーシャツが見える。だが不思議と不潔そうな印象は受けなかった。 「ここ、いいか?」  屈託のない笑みを頬に浮かべ、少女の正面に立ち止まって彼は聞いた。  人形のように規則的な動きを繰り返すのみだった彼女は、やっとその反復作業を止めて顔を上げた。  青年の顔を確認するとほんの少しだけ女性の頬が緩んだ。それだけで、ぱっと少女の雰囲気が一変する。小さな白い花のような凛としたけれど柔らかい雰囲気に。 「(とおる)……」  こぼれる声は可憐。鈴を転がすような清々しい音。  答えを待たずに徹と呼ばれた青年は少女の前に腰掛けると、手にしていたトレイを彼女の前に置いた。 「何それおやつ?」  おやつ?と小さく繰り返し彼女は青年の顔を見上げた。徹は彼女のトレイを見下ろしていた。きょとんとした表情で、青年と自分のトレイを見比べた。 「一般女性の適量だと思うけど?……って言うか徹が食べ過ぎなんだと思うわ」  今度は彼女が徹の持って来た食料を指して言い返す。確かに彼女の言い分の方が正しいように思われる。徹が持って来た食事の量は一般男性の二、三人前はあるからだ。  彼女が食べていたのは、本日のお勧めランチの一つで、オムライス・サラダ・ドリンクのセットだ。対して徹はランチの他にラーメンと調理パン二つがトレイに乗っている。  そうか?と言いながら彼は目の前の食事を平らげ始める。 「せいらは偏食多いだろ。肉喰え、肉」 「卵食べてるわよ」  呆れた顔になって徹が生らと呼んだ彼女を見下ろす。せいらとは徹たちが呼ぶ愛称のようなもので、青藍せいらんというのが正しい彼女の名前だ。  しかし本当に青藍が肉類を苦手にしているのを知っているせいか徹はそれ以上言及しなかった。その分表情にありありと出ていたが。  それを眺める少女は楽しげだ。先程までの張りつめたような気配はなりを潜め、人形から人間の表情に戻っていた。 「いつも席取ってもらってて悪いな」 「構わないわ。別に苦労がある訳じゃないから」  肩をすくめさらりと答え、彼女は食事を再開する。青年は目の前で大量の食事を制覇すべく格闘を始めた。今はオムライスと付け合せのクリームコロッケに夢中だ。  ケチャップで味付けされただけで、チキンライスとは名ばかりの代物を薄い卵と共にほお張り過ぎて徹が咽むせる。慌てて彼に水を渡しながら、彼女は別の事を考えていた。  こうして毎日のように、この青年達と昼食を共にしている事を、羨ましがっている女子は少なくないのではないかと。  彼が昼食時に毎度のように出遅れるのは、友人に声を掛けられたり、教授達から手伝いを頼まれたりするからだ。人見知りせず、屈託なく人と話し、分け隔てなく人と接する。まるで能天気に振舞うこの青年は、特に力弱い者、虐げられている者には優しかった。  だから、判ってしまう。今、自分にこうして優しくしてくれるのも、そう言った気持ちからなのだと。それともう一つ、自分たちが幼馴染だと言う事も影響しているだろう。  それでもこの青年のそうした態度はありがたかった。人が多く出入りするこの構内で、必要なとき以外に誰とも言葉を交わさないこの生活は辛いものだったから。  おかしな話だ、と自嘲する。自分はこんな生活をもう何年となくしてきた筈だ。なのに大学進学と同時に再開出来た友人達おさななじみとのほんの数ヶ月で、彼女はもう変化してしまっていた。 「今日は(りく)は来てないの?」  自分のオムライスの半分を胃にしまってから、ふと思い付いたように彼女は聞いた。そういえば徹の相棒とも言うべき青年の姿が見えない。 「ああ、また誰かから呼び出し食らってたみたいだぜ」  醤油味のラーメンを平らげ、焼きそばパンのラップを剥がしながら徹が答える。 「また?今月は多いわね~」  話題に上っている青手は徹の従兄弟で、進学と同時に彼とふたり大学の近いこの街に引っ越して来た青年だった。従兄弟同士と言う割にはこの二人は外見的には全く似ておらずこちらはすらっとした優男やさおとこだ。陸は育ちの良さに裏打ちされた落ち着いた雰囲気があり、入学当時から女生徒らに騒がれていた。  食事を止め、ひぃふぅみぃと呼び出して来た相手の人数を、知る限り指折り数えてみる。  陸という青年は、どちらかというと生真面目な優等生。服装もこざっぱりしたシンプルな者を好み、髪も短く切り揃えている。三兄弟の長男であると言うからしっかりしているのも頷ける。  対して徹は、何と言うか全体的に大雑把というかずぼらというか、自分の見た目を気にしている様子がない。服は着られればいい、髪も邪魔でなければ問題ないという性格なのだ。今も髪に櫛くしを入れているかすら疑問だ。 「まったくだぜ。半分こっちに回して欲しいくらいだ」  冗談めかしに言う徹の台詞に、清藍はそんな必要はないわよと心の中で呟いた。  勿論それを教えるつもりはない。ライバルは少ないに越したことはないのだ。もともと潜在的なライバルは数知れないのだ。教えてライバル達に塩を送ることはないだろう。  ぱっと見近寄りがたい雰囲気のある陸と違い、徹は誰にでも優しく人懐っこい性格だった。その分仲良くなっても友達で止まってしまう場合が多い。  また、徹自身、本気で彼女が欲しいと思っているとは思えない雰囲気だ。それよりも、みんなでわいわい騒いでいる方を好んでいるように見える。 「差し入れ貰ってたら分けてもらおうぜ」 「差し入れが目的なの?」  二つ目の調理パン――今度は焼きそばパンだ――に手を掛けながら言う徹に呆れたように少女が問う。 「う~ん、半分は」  食べる?と半分かじった焼きそばパンを彼女に差し出しながら、しれっと答える徹に、自分の想像が合っていると感じ少女は半分安堵し、半分呆れる。  残りの半分は好奇心だろうか。 「それだけ食べてるのに、まだ入る余地があるの?本当に熊並の胃袋ね」  呆れたとため息をつく青藍に、夜までもたないんだよと愛想笑いしながら言い訳する徹。 「でも、あれだよな。陸の奴もさっさと彼女作っちまえばこんなめんどくさいこと何度もしなくて済むのになぁ」  徹は既に陸が交際の申し込みを断ると勝手に思い込んでるようだ。とはいえ、青藍にしてもほぼそうだろうと思ってはいる。  どういう訳か陸はにこうした交際の申し込みが良くあるにも拘わらず、そのどれも受け入れる事無く、また誰か意中の人があるという雰囲気でもなかった。 「それは同感だけど、陸にも好みがあるわけだし、つき合いたい女の子がまだいないのかも知れないじゃない?」 「好み、ねえ。全世界のモテない男どもが聞いたら反感かいまくりな台詞だな」  まるで自分がもてない男の代表でもあるような口ぶりで嘆息している。そんな子供染こどもじみたみた表情に少女もつられて笑みをこぼす。 「それに、戸上とがみのおばあちゃん怖いってよく言ってるし……」  地元では名士で通っている陸の生家は、元は神主の筋だったらしい。そこの長男に生まれてしまった陸は厳しく躾けられて育っている。 「あー、婆ちゃんの怖さはハンパないぜー、廊下走ってるだけで呼び付けられて一時間は正座させられる。小言つきで」  当然、彼の家は古風な日本家屋で、走って移動出来るだけの長さがある。  戸上家の話まで言及したところで、おのおの色々思う所があったのか、ふと会話が途切れる。陸は戸上家の長子であるから戸上姓であったが、徹は母親が戸上の出ということなのだろう、苗字は日上ひかみだ。そして、青藍の姓は水上みかみ。  かつて、この辺りでは苗字に”上”の字を抱くのは、戸上家の関係筋であり、傍系として直系に次ぐ権力を持っていた。徹と陸は『従兄弟』であるならばほぼ直系といっていい類型に属するのだろう。けれど、青藍に関しては自分の一家が、この血筋に関係があると言われてもあまり実感がなかった。  けれど、その苗字が間違いなく彼らに血のつながりを示しており、家族を失い行き場を失いかけていた彼女と徹は宗家そうけからの援助を得ることが出来た。  二人が黙ると、清藍は彼女らの周囲を包む雰囲気の違和感が急に気になりだした。  全ての食物を胃に収め、コーラで口直す徹を彼女が茶化した。 「徹の食べっぷりを見ているとあたしの方が胸焼け起こすわ……。食べっぷり自体は見てて気持ちがいいんだけど、こってりした物ばかりよくそんなに入るわねぇ」 「そうか?胸焼けなんて俺はしたことないけどな」  そっと話題を変えた青藍に何か突っ込むでもなく、止めどない会話が織りなされていく。相変わらず、二人は遠巻きにされたままだが、気にしても気が滅入るだけだ。 「だから太るのよ」 「なに?!俺のこれは筋肉だ!!」  えー?と、判りやすく眉根を寄せて疑いの眼差しを向けてやれば、向こうはいーっと子供のような表情を作り返してくる。  青藍も食事を終え、彼女はウーロン茶を飲んでいた。左手で頬杖を付いて小悪魔的に微笑む彼女は、既に大人の女の気配を忍ばせつつあった。これが、並の男ならその微笑み一つで悩殺されているかも知れないが、相手が悪い。鈍感なことで定評のありすぎるこの男では。  和やかな雰囲気のまま昼休みが終わろうとしていが、それは二人の願望にすぎなかったようだ。  不意に少女が二人に駆け寄り、ピンクの小さなメモを青藍の前に叩き付け逃げていく。  薄氷(うすごおり)が砕けるような破裂音に、一瞬にして現実に戻る二人は無粋ぶすいな来訪者に目を向けた。  身軽なその動きに翻弄ほんろうされるように目線は少女を捕らえきれない。少女はあっという間に友人の背に身を隠していく。けれど、遠くまで走り去るのではなく、人込みに姿を隠し震えながらこっちを、いや青藍を睨んでいる。  痛みを伴うかと思うほどの視線を感じた。けれどそれは炎のようで氷のように冷たく痛い。  徹の視線が少女を追う。彼女よりも数段鋭い彼の視線はその人物を捕らえたようだ。  徹が舌打ちし、紙を処分しようと手を伸ばしたが、刹那の差で青藍が攫さらう。 「青藍……、見るんじゃねぇ、そんなもの。どうせろくでもねぇことしか書いてねぇんだ」  苦しさをにじませる声は、低く枯れて小さい。どこから出しているのかと思うほど、今までの陽気な声とは違っている。 「見る」  彼女は強い心を持っていた。いや、強くならざるを得なかっただけか。その強さ故に彼女は更に傷つく。悲しい強さだ。  目を閉ざし、耳を塞いで生きて行けば、ぼろぼろになるまで傷くこともない。それでも彼女は立ち上がろうとあがくことを忘れなかった。心のどこかで小さい光を信じていた。  自分を勇気付けるように、儀式じみた深い呼吸を繰り返し、彼女はメモを開く。 『先輩に近づかないでください。先輩まで殺す気ですか?』  小さな可愛らしい丸っこい文字で書かれている内容は、凄惨なものだ。明確な悪意は彼女の残りわずかな正気を削る程に。  痛みを知らない子供のような傲慢さがそこにあった。何も知らないからこそ平気で傷つけ、その罪を知りもしない幼子。  けれど彼女は知っていた。与えられる痛み、そして与えてしまう痛みを。自分が被る痛みより、自分が他人に与えてしまった痛みの方が何倍も痛い。それを望んでいないなら尚更に。  彼女は表情を凍らせたまま紙を取り落とし、青年がそれを拾い、文字に目を走らせる。  くしゃり、と小さな紙はあっけなく手の中で押し潰され、大きな手に握りつぶされる。  ほんの数秒。その場にいた人間には永遠とも思える刹那が過ぎた後、轟音ごうおんと共に二人の近くの窓ガラスの半分が砕け散った。  ざわめき故に音は小さく、注目を集めたが故に映画のワンシーンのようにゆっくりとガラス片が飛び散る。 「ふざけんな!!!!」  ガラスの砕ける音も凌駕する轟音で、徹が叫んだ。いつの間にか消えたどこかにいる筈の少女に向き直って。 「お前にっ!!!誰にっ!!!こいつが普通に生きる権利を奪えるんだ!!!!」  まるで最も憎むべき敵に相見えてそれを睨むかの様に、相手が少女であることも忘れて睨み付けた。無知である事。それを差し引いても許される行為ではなかった。この瞬間、彼にとっては。 「こいつが望んでしてると思ってるのか!!!!」  ばあんと彼の左手を叩き付けた机は真ん中からひびが入った。  清藍は意識が遠のくのを感じていた。  体はそのままに意識だけが遠く、俯瞰ふかんで見下ろすようにして粉々になったガラスと壊れた机を中心として立つ青藍と徹。  何を憎めばいいのだろう……?それは誰の呟きだったのか。
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