動かない銀時計

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動かない銀時計

 曇天の初夏、まもなく定刻だ。  国境に急造された公邸は静けさに満ちていた。  白い石張りの細長いホールの中央には、斑入りの大理石を連ねて引いた明瞭な線がある。  リーファとイェリスの国境だった。  線をまたいで用意された二脚の布張りの椅子の一方にひとりの若い女性がうつむき加減にかけ、深く物思いにふけっているようだった。  彼女は、目の前に軽くかざされた手に気づき顔を上げた。 「閣下、相手方は、すこし、遅れて、いるようです」  緊張の面持ちで、先に着任していた白頭の老官が言葉を区切りながらゆっくりと状況を伝える。  白髪をリーファの作法にのっとりきっちり結い上げている痩せた男は、いささか苛立っているようにも見えた。  彼が今日の一連の調印式を取り仕切る手はずになっている。  予定の遅れはが彼の生真面目な気性を不快に刺激しているようだった。  真向かいで伝えられた報告に軽くうなずき、彼女はすきとおった灰色の瞳を細める。 「そうですか。ホゥアン儀礼官、通訳がいないから不安? 大丈夫よ、あなた一人なら問題なく読めるわ。私の耳を気にして、そんなに緊張しないでね。友人に語るように、普通にしゃべってくれるかしら? ええ、顔はあげて。その方がいいの」  流れるような白金の髪(プラチナブロンド)は古式に結われ、玉の簪が揺れている。リーファの絹織の礼装をまとう女は、美しかった。  彼女は手の中にもてあそんでいた銀色の懐中時計をキュッと握り、じっとホゥアンの伝える言葉に見入った。 「はっ、承知しました。しかし、このような重要な日に遅れるとは、イェリス側の誠実は確かでしょうか」  男は、貴人の前で頭を下げずにしゃべることにまだ慣れないようで、どこか所作はぎこちない。  そして、ずいぶん気を揉んでいるようだった。  二度の政変と続く動乱を経て、代替わりを果たしたばかりのイェリスだ。  ホゥアンの不安は、女にも理解できることだった。 「待ちましょう。リーファもイェリスも長きにわたって、このときを待ち続けたのです。少しくらい遅れてもどうということはありません。イェリスの宰相閣下は必ず、いらっしゃいます」  だが、それでもリーファきっての才媛と名高き彼女の凜とした声色には、一片のくもりなき信頼がみちていた。  かすかな不安など吹き払う確信に満ちた言葉は、猜疑にとらわれる男の胸にさえ穏やかに染み通った。 「宰相、エリストラートフですな。かっての停戦条約に従いリーファに人質として暮らしておられた折に遠目に見たことがございます。酷薄そうな男でした。先の政変で前王が弑されたことで人質を解かれ、行方知らずになったと聞いていましたが。前王の残党の幕下に加わり、二度目の政変を主導したと聞き驚きました」  女は肯定するようにうなずいた。  薄く紅をさしたくちびるから、それ以上の感情はうかがえない。  王命を携え、リーファの特命全権大使として彼女はこの国境の館を訪れていた。  かつて戦火を交え、停戦の名を借りた緊張状態を乗り越え――。  リーファと隣国のイェリスはようやくここまでたどり着いた。  ここで交わされるのは、今度こそ恒久的な講和条約、のはずだ。  落ち着き払った女の。  星を宿す灰色の瞳は、見つめている。  イェリスの新しい宰相がくぐるはずの扉を、じっと。 「……大使閣下、控室に戻られてはいかがですか?」 「いいえ、ここで待ちます。いらしたら、すぐにお会いできるように」 「御意。……閣下には、ご不安はないのですね」  ホゥアンが尋ねると、女はまた静かにうなずいた。  だが、リーファ国内には停戦後の短い間に二度の政変が起きたイェリスの安定性を疑問視する声も根強い。  曰く、この講和条約の締結さえ徒労、あるいはイェリスの罠ではないかと――。  どの立場の者がこの場に赴くかもまとまらず、議論は連夜宮廷で紛糾したという。  その中でひとり、この役を買って出たのがリーファの名家の当主であり、次期宰相の呼び声高い彼女というわけらしかった。 「しかし、大使はずいぶん……」 「どうかしましたか?」 「楽しげでいらっしゃる」 「そうかしら。けれど、あなたは私と同じでしょう?」    ほほえみとともによこされた視線の自信が、すでに老境に至る男の二の句をふさいだ。 「奥底に希望を抱いているはず。あなた自身もご家族も、これまでとても苦労なさった。今日必ず、肩の荷を下ろして差し上げる。もう少しよ」  男の生家は国境を守る命を帯びて領地を治めていた。これまでイェリスとの交戦で命を落とした縁者の数は片手では足りない。  しかしさして名高い家でもなく、彼女のように常に宮廷にあり、書面でしか戦況を眺めない立場の人間に知られるような存在ではないはずだった。  才媛の名の影で世にはびこる「家名を笠に着た無能」という陰口は、あるいは単なるやっかみかと、ふと男は期待を抱いた。  「かたわの青二才のお守り」と笑われた貧乏くじは、思いのほか面白いものかもしれない。  彼は、自らも侮っていた年若の大使としばらく話してみる気になった。  風がガラスを叩き、窓の向こうを雲が流れていく。  気象官のかねてからの予報通り、午後は日差しが戻るようだった。  大きな窓から陽光がそそぐと、リーファの大使の白金色の髪(プラチナブロンド)が輝き、彼女の手元の銀の時計の上で光が弾ける。  女は、なにかを確かめるように時計のフタを開いた。   「大使、見事な時計をおもちですね。イェリスのものでしょう。彼の国の古いものにはこうしたよい細工の品があるようです。いや、しかし時間が……」 「この時計は、もう長いこと止まったままなの」 「そうでしたか。では、なぜこの場に……」 「そうね……。ええ、時間があるのだもの、むかし話をしましょう。聞く? ある国に、こんな少女がいたの」   ◇  とある名家の別邸には、今日もヒステリックな女の声が響いていた。   「セピアお嬢さま! 一体どちらへ! もうっ、こんなこと言ったってどうせ聞こえやしないんだけど! ああ、腹立たしい」  フィン=ファム家、古参の女中頭のシーナはいらだたしさを隠しもしない。  つややかな絹織の広い袖をいまいましげに翻し、足首まで隠れるひだを寄せた紺色の下衣をくしゃくしゃに握って地団駄を踏むと、呼び鈴を鳴らした。 「リシュ、レィア! 部屋が水びたしよ、急いで――」  セピアが開け放していった広いアーチ窓からは、冷たい雨がいやというほど降り込んでいた。ばたつくカーテンを押さえ、びゅうびゅうと風の吹き込む窓をシーナが閉じる。  高価な絨毯の惨状にため息をついていると、新米女中のリシュがあわただしく部屋に飛び込んでくる。彼女の黒い靴の先が、セピアの散らかしていった本を蹴飛ばした。 「リシュ、急いでとは言ったけれど、もう少しエレガントに」 「シーナさま、お客さまが」 「まぁ放ってきたの? 信じられない。対応出来るでしょう、そのくらい」 「あの、でも……みなさま戸惑っておいでで。その、お客さまも、責任者を呼ぶようにと……」 「戸惑って? いったいどういう……」  口ごもるレィアを不審に思い、シーナが足早にフィン=ファム家のエントランスに向かうと、そこには見慣れない風体の男がいた。  年の頃は三十後半にかかるだろう。グレーがかかった銀色の髪の背高の男だ。  駆けつけたシーナに向けられた知性の宿るアイスブルーの瞳は、オオカミのように鋭い。  これが出迎えの女中たちを震え上がらせた原因に違いなかった。  黒い毛織りの外套をまとった男は荒天を歩いてきたのだろう。髪は濡れ、肩の辺りに湿った落ち葉が張りついている。  皮の黒手袋に包まれた右手には、使い古されたトランクをひとつ提げていて、その角からはポタリと雫がしたたっていた。  手持ち無沙汰なのか、男は左手で銀の懐中時計を確認すると、眉を寄せてそれを上着の隠しにしまった。  女中たちはチラチラと男の衣服に目をやる。  エリ付きの白シャツに黒いジャケット、そろいの仕立ての良いトラザースはこのあたりではめずらしいものだ。客人はこの国の者ではないようだった。  男が何者かを測りかね、数えきれない客人を応対してきたシーナさえ、思わず息を呑んだ。 「貴女がこの家の?」  ひとときの沈黙を破ったのは男の方が先だった。  若くも見えたが、眉間のしわは彼を気難しく、またすこし年かさにも見せた。 「あ……ま、まぁ、これはようこそ。はい、わたくしが当家の家令と女中頭をつとめております。お召し物がずいぶん……。急なお天気でございました。あなた様は」   先手を取られたシーナがあわてて言うと、男は一通の手紙をとりだした。 「失礼、予定より早く着いたので混乱させたようです。先に知らせがあったかと。私はヴィタリー・オゼロフ。ご令嬢の家庭教師として参りました。紹介状はここに」  無駄のない事務的な口調だ。  シーナはさらりと目の前の男を値踏みする。  彼がもう少し若ければ匂いたつような美男と評されたに違いなかった。  整った容色に影を差す、哀感をたたえた瞳の憂いは、彼の過去(これまで)がにじんだものだろうか。  家庭教師と男は名乗ったが、所在なくたたずむ姿にさえ一部の隙もない。  ともすれば軍人のようでもある。  さて、この男は――。 「なにか、不審がおありか?」  そうしてじろじろと飽きず観察してしまうほどに、ヴィタリー・オゼロフという男は人目を引く容姿をしていた。  低く気圧すような響きをもつのに、どこか快い物言いは家庭教師という身分を離れて気高くさえ聞こえる。  遠巻きに控えていた女中たちは、しきりに脇を小突き合っていた。  シーナは男の持参した紹介状を確かめると、深く頭を垂れた。 「いえ、失礼を。セピアさまの――。お聞き及びかと思いますが、当家の令嬢は……その」 「承知しております。私には同様の母がおりました。ご心配には及びません」 「左様でございましたか…。心強く思います。ええ、お待ちしておりました。リシュ、この方が新しい先生です。荷物をお持ちして、お部屋へすぐご案内を」  シーナの声に、あわてて女中たちが動き出す。  不審に思われた訪問者が客人であれば、することは山ほどあった。  ヴィタリーと名乗った男は、ふとエントランスから続く階段を見あげる。  ちいさな足音はすでに屋敷の奥へ逃げ去っていたが、彼の薄青の双眸には透けるような美しい金の髪の少女のうしろ姿が確かに残された。  新しい家庭教師だという男を見送ると、シーナとレィアは声を潜めた。  「新しい方……、この国の者ではなかったのですね。西国の身なりでしたね。先頃のイェリスの政変で亡命者が増えているとか。こちらにも流れてくるようになったのですね。ご紹介とはいえ、大丈夫でしょうか。安易に屋敷に引き入れて」  レィアは不安げだ。受けたシーナはゆるやかに首を横に振った。 「さてね。でも、もう人のあてもありませんし、あの方はわたくしどもの手には負えませんもの。わけありの家庭教師を引き受けてくれるだけでありがたいこと。ああ、今日だけで何度かんしゃくを起こされたか。日に日にひどくなる一方。昨日なんてわたくしの仕立てたばかりの衣(きぬ)に泥を押しつけて。わたくしではセピアさまの相手は荷が重いわ」  憤懣やるかたなく、くたびれた面持ちのシーナに同情する一方、レィアは今日来たばかりの男も心配でならなかった。  なんせ、この屋敷に家庭教師が長く居着いた試しはない。 「あの紳士にもお気の毒ですわ。何日もつでしょう」 「紳士ね……。たしかに、物腰はまるで貴族方のようで驚きましたが。紹介状によれば中流の出で、さほど高い身分の者ではないようですよ。ヴィタリー・オゼロフ、いかにも平民めいた響きです。まぁね、使う言葉こそ同じですが、異国の人間の気心なんてしれませんからね。一日二日でも結構! あの方のおもりから私たちを解放してくれるのならね!」  シーナは肩をいからせて、調理場に今日の献立の変更を指示すべくきびすを返した。
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