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僕は病院の屋上で車椅子を押している。
彼女が夜風に当たりたいと言ったからだ。
「寒くない?」
「ちょっとだけ寒いかも」
そう言うと彼女は正面から僕の上着のポケットに手を入れてきた。そのまま抱きつくような格好になる。夜風が彼女の髪を巻き上げる。
僕は動揺する――。
彼女と最初に会ったのは病院のロビーだった。不登校になってからの日々を数えるのを辞めた頃。当てもなく街をふらつく僕の足は、その病院の前でいつも止まった。彼女は日の当たる窓際にいて、太陽光と同じくらい白かった。そして一人で将棋をしていた。まな板のような将棋盤をテーブルに置き、駒を動かしていた。その光景はどこか非現実的で僕は目を奪われた。
あの日、意図せず目があった。一瞬の戸惑いも、彼女の笑顔にかき消されていた。それから僕は彼女に会いに、病気でもないのに毎日のように病院に通った。
「女子なのに将棋が好きって変でしょ」
そんなことはないよ。そう言った僕の声は掠れていたと思う。
彼女は自分の病気の事はほとんど話さなかった。僕も聞かなかったし、彼女も僕の事を聞いてはこなかった。
僕らはただ将棋をした。
彼女は強かった。僕が弱すぎたのかもしれない。何しろ、僕はそれぞれの駒の動き方くらいしか知らなかった。それでも色々な戦法を教えてもらって上手くなっていった。なによりその時間が楽しかった、初めて友達が出来た気がした。
「ねえ将棋にはパスはないの?」
ある時、僕は彼女にそう聞いた。
「君、そんな事言ってるようじゃ一生勝てないね。将棋にはパスはないの、絶対に駒を動かさないといけないの。私は将棋のそこが好き」
「でもさ、何も動かしていない最初の形が、一番隙がないと思うんだ」
「消極的だなあ、攻めないと勝てないよ? 攻撃は最大の防御なりって言葉もあるじゃない」
「そうかな、生きていたって良い事よりも悪い事の方が多いんだ。だから人生だってディフェンスがうまい方が有利なんだよ」
僕は卑屈になってそう吐き捨てた。多少は負け続けていた悔しさもあったが、本音だった。僕はいつだって嫌な事、面倒な事から逃げてきた。学校に行かなくなったのだって逃げだと思う。それを自己弁護したかっこ悪い言い訳だった。
「そんなのディフェンスでもなんでもなくて、ただ逃げてるだけじゃない」
一瞬、彼女が悲しそうな顔をした。僕はそれを見て瞬時に後悔した。彼女はいま人生と戦っているのに、酷いことを言ってしまった。
しどろもどろになっている僕を気にもせず、彼女は僕側の“歩”の駒をつまみあげて、わざと大きな音を立てて一つ前のマスに置いた。
パチン!
凛とした音が響く。
「これがはじめの一歩だよ! なんてね」
影一つない笑顔だった。
だけど、その音は、僕には強がりに聞こえた。
それからしばらくして、彼女はロビーに現れなくなった。日に日にやつれていく様子が僕の目にもわかっていた。心配になって病室を探し出した頃には、彼女は車椅子に座っていた。
「歩けなくなっちゃった。でも手は動くから将棋は出来るぜ。君は弱いから手も必要ないかもね」
彼女はいつも前向きだった。限られた時間の中で、僕らは相変わらず将棋をした。僕はいつまで経っても勝てなかった。
――――
夜風が止まる。
彼女の髪がゆっくり元の位置に戻る。まるで時も一緒に止まってしまったのかと思うくらい、その時間は長く感じた。
「明日は勝つよ」
動揺を隠し切れず発した言葉は、場違いなものになった。
「君は勝てないよ」
やけに真剣な声だった。
「風邪引くよ、そろそろ戻ろう」
それを聞くと、彼女は抱きついたまま顔を上げて、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……もう、病気なのに?」
けして泣かなかった彼女の、泣き顔のような、笑顔だった。
彼女の笑顔を見たのはそれが最後になった。終わらない皆既日食のように、彼女の光は消えてしまった。僕は悲しくなかった。昔からそうだ、心の中の大事な部分が抜け落ちているんだ。もともとぽっかりと口を空けていた心の穴、それがほんの少しだけ広がっただけだ。 少しでも穴が塞がると思っていた自分を、もう一人の自分が笑顔でなじる。そいつが僕に同化して、いつの間にか僕から表情を奪った。そして、僕に呟きかける。また同じ日々が始まるだけだ、彼女と知り合う前に戻るだけだ。時が経つに連れ、少しずつ全てを忘れてしまうんだ、と。
楽しかった日々を忘れてしまうんだ、と。
……そんなの嫌だ。
勝手に足が通いなれた病院に向かった。まっすぐに屋上に上がる。あの夜、彼女と一緒にいた場所だ。
――ただ逃げてるだけじゃない
彼女の言葉を思い出していた。その言葉が頭の中をぐるぐる回って、胸の辺りに染み込んでくる。それは今まで感じたことのない、懐かしいような痛みを伴った。僕は悲しみを感じることからも逃げているような気がした。
「頑張って戦ったって、ダメじゃないか」
人生はディフェンスなんだ。
逃げ続けてきた僕にはもう防ぎ切れそうもない。唯一できた友達、それを失っても何も感じない心、そんなものはない方がいい。彼女を失った世界を生きていく力は僕にはもうない。
フェンスに手をかける。
その時、冷たいコンクリートに向かって、上着のポケットから何かがすべり落ちた。
パチン……
凛とした音が響く。
――あの日、彼女が鳴らしたのと同じ音
それは“歩”の駒だった。
抱きついた時に彼女が入れたんだ。
臆病で踏み出せないでいる僕。
いつも前向きで戦い続けた彼女。
“君にはまだ、この音が強がりに聞こえる?”
彼女がそう言ったように思えた。
僕はそのままその場に泣き崩れた。傷ついても戦っていくことを受け入れたからかもしれない。いや、彼女が教えてくれたんだ。
屋上の片隅に、硬いコンクリートを突き破って、名も知らない雑草が花をつけていた。
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