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28日後
先月末日までのはずだった緊急事態宣言は、結局終わりを迎えることなく放置されていた。宣言なんてなくても未だに緊急事態であることは明らかだったから、そんなことはもう誰も気にしていないかもしれないけれど。
緊急事態宣言のきっかけは良くある感染症の拡大だった。それだけならば、暫くの間マスクを付けた生活を強いられるという程度のはずだと、ユミは高を括っていた。もちろんユミだけではなくて、皆がそう思っていたはずだ。それだけ人々は感染症というものに慣れすぎていた。
しかし、今回は過去の感染症とは違ったのだ。もう既に拡大に歯止めが効かなくなった頃になって、ようやくユミたちは知ることになる。
その感染症は、人が人に噛まれて広がるのだ。
そんなことが実際に起こるとすれば、いや実際起こってしまったのだが、感染拡大の速度は並の感染症とは比べ物にならない。YouTubeで人が噛まれる瞬間の衝撃的な映像が流れたその翌日には、もう街は感染者の集団に占拠されてしまった。彼らはまさに映画で見るゾンビそのものだった。
それからユミはマンションに立て篭もって何とか生きている。食料はもう尽きた。ダニーボイルの映画よろしく、アウトブレークからちょうど28日後のことだった。ベランダから階下を恐る恐る覗くと、ゾンビの集団が街をゆっくりと練り歩く。しかしこのまま部屋に閉じこもっていても、飢えて死ぬだけである。ならばいっそのこと、外に出てゾンビの一行に加わる方がよっぽどマシな気がしてくる。死ねば餓えも渇きもなくなるというものだろう。ゾンビたちが生きた人間を襲う姿はどこか憂鬱で、生物が狩りのために別の生物を襲うそれとはまるで違うようだった。それもそのはずである。ゾンビは生き物ではない。生き物ではないものになるのってどんな気持ちかしら。きっとそれほど悪いものでもないだろう。
ユミはそう結論付けて部屋を出る覚悟を決めた。そうとくれば一張羅を着込んで華々しくゾンビ化してやろうではないか。一旦ゾンビになったが最後、二度と着替えることはないのだから。もったいなくてまだ一度も袖を通していなかったワンピースを着て、ユミは鏡の前に立った。そこにはうら若きキラキラ系女子高生の姿があった。これならゾンビ男子たちにもさぞや人気が出るはずだと確信を持ったユミは、鼻息荒く玄関に向かう。
その時だった。外の廊下を何かがバタバタと駆けてくる音が聞こえた。音の大きさからして、図体の大きいゾンビに違いない。しかもそれなりに俊敏な動きをしているようだ。
ユミは玄関にあったビニール傘を握りしめて、身構える。騎馬兵を前に竹槍一本で応戦する足軽とは、かくも心細いものだったろうか。柄を握る手に力を込めるほど、足はぷるぷると震えだす。足音はユミの部屋の前で、はたと止まり、ゆっくりとドアノブが回る。そして、黒い影がドアの隙間からぬっと入り込んできた。
刹那。ユミはビニール傘を振り上げて、渾身の力で斬りかかった。ゾンビは頭を潰すべしというのが映画でのお約束だったように思う。果たして現実のゾンビがそんな約束事を律儀に守ってくれるかどうかは甚だ怪しいものだが、ユミに出来ることは今や人類の叡智たるゾンビ映画を信じるのみである。
切先は見事な弧を描いて影を打ったが、傘は弾き返されて、バサリと乾いた音を残してタイルの上に落ちた。よくよく考えれば傘なんかで頭蓋骨を割ることができるものでもなかろう。よもやこれまでとユミは潔く良く覚悟を決めて、噛むならせめて見えないところにしてとばかりに純な背中を向けた。
「何をやってる。助けに来たんだが。」
ゾンビが喋った。喋るゾンビもいるものなのかと、ユミが振り返ると、そこにはひょろりと痩せ型のゾンビ男が立っていた。
「ゾンビに助けられる覚えはありません!」
ユミはキッパリとしつこいナンパを断るが如き勢いで啖呵を切った。
「いや、私はまだゾンビではない。」
ゾンビ男は言った。はて、良く見ると人間みたいなゾンビであった。はたまた、ゾンビのように血色の悪いだけの人間にも見えた。
「ゾンビじゃ、ない。」
「そう。ゾンビじゃない。」
男はそう言って玄関のドアを閉めると、視線で部屋の奥に入れてくれないかと訴えた。
「ど、どうぞ。何もないところですが。」
ユミは久しぶりに言葉を発したからか、何が何だか分からないままに男を部屋に入れてしまう。ユミはこんな時でありながら、恥じらいさえ感じていた。
しかし男はうら若き乙女の可愛らしい部屋の様子には目もくれず、ベランダに真っ直ぐ向かう。
「やっぱり。ここがベストポジションだ。」
男は意を得たりとばかりに、ベランダの手すりにもたれかかった。
「あの...、何がです?」
「ほら、ここからキャンパスの中が良く見えるでしょう。」
「はあ。」
「あれは私が通っている大学なんだけれど、あの中に探している人がいるんです。」
男が指差す先には確かに大学があって、そして恐らくゾンビと思われる群れがキャンパスの中を蠢いていた。
「ああ。大学生の方なんですね。」
ユミは呆気にとられて、そうと分かりながら的外れな受け答えをするが、男の方はユミの動揺に気付きもしないようで会話を続けた。
「失礼。私は総合文化大学院の雨野と申します。専門はゾンビ学で、ゾンビメディアについて研究しています。因みにゾンビメディアというのは、映画や小説、それからゲームなどのゾンビが登場する創作物全般を指しています。こう見えて私はゾンビ学の世界では最先端を行く研究者なんです。」
雨野が早口で解説すると、何だか学者然としてユミは恐れ入ってしまう。
「はあ。偉い方なんですね。」
「偉い!そんな訳ありませんよ!ゾンビなんてものは常にB級ファンタジーなんですから。グルメで言ったら焼きそば、学問で言っても泡沫分野なんです。現実にありもしないものを研究したって何の役にも立ちません。」
雨野はとても悔しそうに言った。ならば役に立つものを勉強すれば良かったのに、という言葉を飲み込んでユミはベランダの下のゾンビたちを指差した。
「でも、今は現実になりましたよね。」
「うむ。そのようだね。」
雨野はそこで黙り込んでしまう。急に黙られると何だか気まずい。何しろユミの知る限りこの世界でゾンビ以外の人間はユミと雨野だけなのだ。階下のゾンビはウーウー唸るだけで、会話にはなりそうもない。
「でも、安心しました。雨野さんがゾンビ学者なら、何か生き残る方法を知ってるんじゃないですか。これってとってもラッキーです。」
ゾンビたらけの世界でゾンビ学者とは、なんとも水を得た魚のようではないか。ユミは雨野がゾンビの群れの中でパシャパシャ跳ねて回る姿を想像してニヤけてしまう。
「さあねぇ。現実のゾンビは私も初見だから。例えばほら、下の通りを歩くゾンビたちはゆっくり歩いているでしょ。」
「そうですね。でもゾンビってそういうものじゃないですか。」
「違うんですよ。ゾンビには遅いゾンビと早いゾンビがあるし、喋るものもあれば、知性のあるものもある。ゾンビは多種多様なのです。ゾンビランドとか観たことない?」
「いや...、ないですけど。」
「つまり、ゾンビには型があってないようなものなんです。だって元々存在しないものなんだからね。想像は自由だ。どんなゾンビだって存在し得る。」
ゾンビ学者としての雨野が熱を込めて喋る。
「でも、さっき雨野さんは助けに来たと言ってましたよね。」
「そうだ。助けに来た。助けに、というところはもののついでだけれど。とにかく私はここに来ました。ほら見て、キャンパスの建物の、あの部分。明かりが点いているでしょ。」
陽の光でわかりにくいが、雨野が示す先には確かに他と比べて明るい部屋があるようだった。
「あれはゾンビ研の部屋です。私の大学の有志で作ったサークルでね。様々な学問領域でゾンビを学ぶ者が集まってる。」
「はあ。」
ユミはゾンビ研なるものを上手く想像出来ずに溜息を吐く。
「つまり。私より実際にゾンビに対抗するアイデアを持った人間が集まっていると思ってもらって良い。これは凄いことです。このゾンビの世界にあっては、ペンタゴンやら市ヶ谷やらそんな現実的な事柄にしか対処しようのない施設よりも、遥かに人類防衛の拠り所になる場所だと思いませんか。もはや私も君とは知らぬ仲ではない。君をそこに連れていきましょう。」
なるほど確かに日頃真剣にゾンビについて考えている人が集まる場所であれば、自ずとゾンビに対する抵抗力も強かろう。ユミはワンピース姿でゾンビと仲良くワルツを踊る未来を一旦脇に置いて、人間として生きることに希望を見出し始めた。
「じゃあ、雨野さんが探してるっていうのは、そのゾンビ研の皆さんなんですね!」
ユミの期待は風船のように膨らんだ。ならば生きてやろうではないか。例え人類最後の女になろうとも、生き残ってみせる。
「いや、それは断じて違う。」
しかし、雨野からの返答は全く違ったものであった。
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