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「ねぇ、覚えてる?」
彼女は僕を責めるわけでもなく、ただふとした雑談の中にその問いを滑り込ませる。
初めて親の付き添いなしで一緒に電車に乗ったときのこと。
――どきどきしたよね。つないだ手に汗をかいたのはどっちなのかおしつけあったよね。
調理実習でつくった味噌汁のこと。
――班が違ったから、お互いの味噌汁を交換したよね。お義母さんの味噌汁と違うってあなた言ったんだよ。
学校帰りにみた虹のこと。
――水たまりをよけることに真剣だった私の肩をひっぱって教えてくれたよね。おかげで右の靴をぐちゅぐちゅ言わせて帰ることになったんだから。
でも、綺麗だったよね。
何でもないことだ。小学校低学年から腐れ縁で積み上がった膨大な日常の中のどうでもいいようなことだ。覚えてなくたってしょうがない。責められるようなことじゃ、そもそもない。
そうだ。彼女だって責めてる口調なんかじゃない。
ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけ、視線が揺らぐだけ。
でもそれが、僕の中に小さくて黒い塵を積もらせていく。
「おはよう」
カーテンレールの音を殊更に響かせ、朝日を背に振り向く彼女の顔は逆光で表情がわからない。けれど声は明るいからきっと笑っているのだろう。
ベッドから降ろした右足で、眠る前の記憶を手繰り寄せてルームシューズを探せば、彼女は何も言わずにそっと足先にそれを添えてくれる。
四歩で朝食が並べられた小さな丸テーブルにたどりつくのに、そのたった四歩を、まるでどこぞのお姫様をエスコートするかのように彼女は僕の手をひいた。
「なあ」
「うん」
「僕、どうしてこんなふらつくんだ」
「どこか痛いところある?」
「いや」
「よかった」
なにがだよ。
「ほら、アスパラベーコン、好きだったでしょう?」
長方形の白いトレイに載せられているのは、トースト一枚、ジャムとバターを一緒に塗れる小さなパック、オレンジジュースにアスパラベーコン。
「なあ、これ、なんていうんだろうな」
「ん?」
「このさ、ジャムとバターのこの容器?」
「さあ? なんていうんだろうね?」
「よく見るよな」
「よく見るね」
二つしかない椅子で向かい合わせに丸テーブルを挟んで、彼女は両手で頬杖をついたまま軽く首を傾げる。彼女は食べない。僕が食べているのを眺めている。
「アスパラベーコン、好きだったでしょう?」
「あー、うん、美味いよ」
「朝もぎなんだって。アスパラ」
「いつの朝かわかんないじゃん」
そもそも畑でとれるような『天然モノ』なんてそうそう食べられるものじゃない。いくら彼女の実家が裕福でも、節目の祝い事みたいなときに仰々しく饗されるような代物だ。朝もぎなんて、工場から朝出荷したとか、そんな程度の意味でしかない。今の時代はもう、野菜は畑からとれるものじゃない。クローン工場で作るものだ。畑なんて一般人が入れるようなところになんてない。でも僕らが小さな頃はまだあった。裕福な彼女の親戚が持っていた畑に一緒に連れて行ってもらったことがある。はず。
「ねえ、覚えてる? アスパラ畑、可愛かったよね」
「ああ、なんだっけ、かすみ草みたいだって」
細長い葉のような枝をふわふわと風になびかせ波打つアスパラは、かすみ草のような白い花のかわりに、小さな赤い実をつけていて――
「覚えてる、の?」
「ちょっと甘いけど種ばっかりだったってお前吐き出してただろ」
彼女は一瞬だけくしゃりと鼻に皺を寄せた。なんだよ。覚えてたじゃないか。なんだって覚えてなかった時よりそんな顔をするんだ。
「違うよ! もう! 食べられるのかどうかもおじさんに聞かないで速攻口にいれたのはあんたでしょ!」
目の裏が痛くなるような真っ白のカーテン、壁紙は柔らかなクリーム色で、飾り気のないシングルベッドは少し硬目のマットレス。腰までもないチェストに、丸テーブルと二つの椅子と、二人掛けのソファくらいしかない部屋。
彼女が出入りするドアの他にはシャワールームとトイレのドアが二つ。
こんな部屋だっただろうか。
こめかみに貼られた医療テープのふちが少しくすぐったくてなぞるように掻く。それは親指の腹くらいのサイズで丸く、中心部に小さなでっぱりがあった。
なんでこんなものが、そういえばいつから、これは貼られてたのだろう。
「おやすみなさい」
彼女はまだ明るい窓をカーテンで隠し、照明を薄闇ほどまで落とし、やわらかな優しい手つきで僕の頬を撫で、そして部屋から出ていく。
ドアが閉まる音を聞く前に、すとんと眠りに落ちた。
その刹那、彼女はどこに帰るのだろうと、そういえば昨日も同じように思ったような気がするのを思い出した。
「おはよう」
カーテンレールの音を殊更に響かせ、朝日を背に振り向く彼女の顔は逆光で表情がわからない。けれど声は明るいからきっと笑っているのだろう。
丸テーブルに置かれた長方形の白いトレイには、焼き魚やみそ汁が並ぶ。温かな匂いにつられ、裸足のまま席についた。ぺたぺたとした足裏の感触に違和感を覚えるのは何故だろう。
「なあ、絨毯って」
「ねえ、このお味噌汁、お義母さんからいつも使ってたお味噌きいて取り寄せたの」
「ふうん?」
「美味しい?」
「美味いよ」
「よかった」
変わらぬ明るい声なのに、彼女の笑顔がどこか強張ってるように思えた。
「……わざわざ取り寄せたりしなくても、いつもので美味かったよ」
何か文句でもつけたことがあっただろうかと思う。何故そんな顔を彼女はしているのか、僕がさせているのかと、記憶を探ってもやはりこれといった出来事は浮かばない。
「……いつもの?」
「え、うん。……僕、君の料理はいつも美味いと」
思ってた、はずだ。だからそう言おうとしたのに、彼女のぼろぼろとこぼれはじめた涙がそれを止めた。
「あなたが朝食はパンでいいって言ったから」
僕は特にこだわりなんてなかったはずだ。パンがいいと言った覚えなんてない、はずだ。
「わ、私、あなたが、朝はごはん派だなんて、しら、知らなかっ……なかったから」
八歳の頃から一緒に過ごした。
腐れ縁だと憎まれ口をたたきながら日常を重ねた。
そばにいるのが当たり前だったから、僕の記憶にはいつも彼女がいた。
いたはずだ。
「ねえ、いつも朝ごはんはパンだったじゃない」
彼女の涙はいつも僕をそわそわとさせて、その涙を止めてあげなくてはと思うのと同時に湧き上がったのはいつも抱きしめたくなる衝動だった。それは覚えている。今思い出した。今胸に居座っているものとは別物だったと、別物があるから、前は違ったと思い出した。
「ねえ、覚えてるの?」
ぞわぞわとうずまくこれはなんだろうか。
降り積もった小さな黒い塵が、かき回され、吹き荒れ、背筋を駆け上がってくる。
「ねえ、そのいつもって、誰と?」
こめかみに針が刺さるような痛みと熱。
丸テーブルを回り込んでくる彼女から距離をとろうと後ずさる足から力が抜けていく。
「ど、どうして、思い出しちゃう、の」
しゃくりあげる彼女は、確かに八歳の頃の面影があるのに。
僕の頬を包む両手は柔らかく優しいのに。
こめかみから頬へと軽い痒みが流れていく。
はたり、はたりと床に落ちる水音が何色なのか見下ろすこともできない。
「わ、私だけって」
座り込んだ床が冷たい。
「ねえ、まだ覚えてるの?」
腕が持ち上がらない。
「私とじゃないいつもなんて、いらないじゃない」
おはようと笑う君を覚えてる。
二人で選んだカーテンの色を覚えてる。
君が気に入ったという絨毯の手触りを覚えてる。
君を抱きしめる感触を覚えてる。
「……次……あなた……こそ、きっ……、私、だけ……の」
君のいう、君がいないいつもなんて、僕は覚えてないと、僕は、声に出せただろう、か。
「おはよう」
カーテンレールの音を殊更に響かせ、朝日を背に振り向く彼女の顔は逆光で表情がわからない。けれど声は明るいからきっと笑っているのだろう。
ベッドから降ろした右足で、眠る前の記憶を手繰り寄せてルームシューズを探せば、彼女は何も言わずにそっと足先にそれを添えてくれる。
白い長方形のトレイに載せられた焼き魚や味噌汁に食欲を刺激される。
「美味しい?」
「うん。たまに和食もいいね」
「よかったぁ、ねえ、覚えてる? ほらあの時の」
丸テーブルの向かい合って座る彼女は、嬉しそうに笑う。
ずっと一緒の毎日を僕と積み重ねてきた君を、覚えてる。
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