今日という日

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今日という日

「ねぇ、覚えてる?」 「……え?」  俺の言葉に、目の前の青年は首を傾げた。その両手の中には、ほかほかと湯気を放つホットココアが入ったマグカップ。俺が彼のために買ったものだ。センスは無いが、そこは勘弁してほしい。 「あの、何のことですか……?」 「ふふ」  俺はカップの中のコーヒーを飲み干して、それをテーブルの上に置いた。インスタントの安物のコーヒー。けれど、とても美味しく感じるのは、この青年が隣に居るからなのだろう。最近になって気が付いて、それからそう意識するようになった。  お互いの肩が触れるか触れないか、そんな距離で俺たちは午後のお茶の時間を楽しんでいる。こうやって会うのは、今日で七回目だ。 「君と一緒にコーヒーを飲むとね、初めてちゃんと話した時のことを思い出すんだ」 「っ……!」  俺は懐かしい記憶を辿る。  俺が通っていた喫茶店で、彼は店員をしている。俺はいつもコーヒーを注文していたのに、彼はいつだって「わざと」注文を間違えて俺に紅茶を持って来ていた。俺に「間違ってますよ」と言わせるために。話しをするきっかけを作るために。  彼は、俺に一目惚れしてしまったのだという。  俺はその好意に対して、とりあえず「お友達から始めよう」と言った。この俺のマンションでのお茶会は、親睦を深めるために行っている大切な時間だ。 「そろそろ、また喫茶店に行っても良い? カレーが食べたいんだ」 「だ、駄目です」 「どうして?」  彼は、俺に喫茶店に来るのを止めて欲しいと言ってきた。理由は聞かなかったが、そろそろ教えてくれても良いだろう。俺はじっと彼を見つめる。途端に、彼は真っ赤になって視線を逸らした。こうすれば、彼が口を割ると知っていてやっている。俺は大人気無い悪い奴だ。 「……だって、格好良いから」 「え?」 「スーツ、格好良いから……他のバイトの子も、あなたのことを素敵だって言ってて……だから、取られたら……嫌だから……」  可愛い。  彼から「好きです」と言われたのは一度きり。  控えめな性格だから、ぐいぐいとは言って来ないなぁと思っていたが、まだちゃんと俺のことを思っていてくれているのだと思うと嬉しい。  もう「友達」から関係を変える時が来たのだろうか。男性と付き合うのは初めてで正直、不安なところもある。けれど、目の前で震える細い肩を抱き寄せて安心させたい。その思いが俺を強く動かした。 「俺は、君しか見えていないよ。だから、誰にも取られない」 「え……?」 「格好良いって言ってくれて嬉しいよ。でも、それってスーツだけかな? この普段着はダサい? おじさん臭い?」 「そんなこと無いです! とても似合ってます!」 「ふふ。ありがとう」  彼の手からマグカップを奪い、それをテーブルの上に置いて俺は言う。 「もう、友達として会うのは止めようか」 「え……」 「次は、外でデートしよう。恋人として」 「っ!」 「駄目かな?」 「え、あ……」  彼は真っ赤になって数秒俯いた。かと思ったら、凄い勢いで俺に抱きついて顔を俺の胸に埋めてくる。 「駄目じゃ、無いです……」  耳まで真っ赤な彼の頭を撫でながら俺は微笑む。 「好きだよ。ずっと、大切にする」 「ぼ、僕も、好き……」 「ふふ。知っているよ。ありがとう」  ゆっくりと顔を上げた彼と目が合う。  綺麗な瞳。  赤いくちびる。  すべてが、愛おしい。  お互いが引き寄せられるようにキスをした。  触れ合ったのは一瞬なのに、何十分もくちびるを合わせたような錯覚に陥る。彼は、甘い味がした。 「……やっぱり、しばらくはお店に来たら駄目です」 「え?」  もじもじとそう言う彼に、今度は俺が首を傾げた。彼は、小さな声で言う。 「だって……仕事中にあなたを見たら、今日のことを思い出しちゃって……身体、熱くなっちゃうから……」 「っ!」 「だから、もうちょっと……落ち着くまでは、駄目……」  可愛い。  このまま大人の時間を過ごしたいが、さすがにそれは大人気無さすぎる。  俺は邪な思いを悟られまいと、笑顔を作って「分かった」と頷いた。  彼は俺に凭れて、幸せそうに眼を閉じている。  俺たちの交際スタートの記念日。彼は、ずっと覚えていてくれるだろうか。  来年も、その次も、ずっとずっと訊いてみよう。  照れながら「覚えています」と言う彼の姿が浮かんで、思わずにやけてしまった。  大切な毎日をこれからもたくさん積み重ねていきたい。  柔らかな彼の髪にくちづけながら、俺は強くそう思ったのだった。
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