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5 コチペルト半島
コチペルト半島。
シホホネス本島から、北に延びる半島である。ミヤコの住む都市のちょうど北東に位置する。
半島は砂から顔を出すチンアナゴのような形で少し左に曲がっており、半島の真ん中あたりが途中少し凹むがまた広がり、その凹みからやや広がりながらまたさらに左に曲がる。この凹んだ部分にはちょっとした有名な神社がある。半島の先端は2股に分れそれぞれ鋭利な形になってゆく。その形はまるで蛇が口を開けているかのようで、半島の先端は通称「蛇の頭」と呼ばれている。その蛇の口から西少し北 4kmの位置にねずみ島はある。ねずみ島は「蛇の頭」と島の位置関係がちょうど蛇が獲物を狙っているかのように見える事と、島の形がねずみに似ていることからそう呼ばれ始めた。
蛇の頭の口、喉元に位置する場所は断崖絶壁となっており、通称「蛇の喉元」と呼ばれている。そしてここは自殺の名所として知られている。ある心理学者が訪れてその絶壁を見た時、その形が「女神が手を広げて待っているかのような幻想を見る」と言っており人生に悩みここを訪れた者がその地形に誘導され意を決することが多いのではないか、と分析している。
蛇の喉元までは、半島最北端の駅から徒歩40分以上かかる。その間、「一人で悩まないで、相談はこちら」と書かれた看板を何度も目にする。半島に住むボランティアが定期的に見回りし心身のケアに取り組んでいるが、そのボランティア達も年々高齢化しており日中の数時間活動するのが限度、また自殺する人は人目につきにくい早朝や、夕方から夜に訪れることが多くその効果は薄い。
ミヤコから借りた家は、蛇の目の位置から南にある。周りにはほかに家は見当たらない。なぜミヤコはこんなところにポツンと一軒家を持っているのか不思議である。
ティナはそんなことも知らず、この家で生活する基盤をコツコツと作っていた。最初は一人で少し心細かったが家自体は結構きれいだし、防犯対策もしっかりとしていて変な心配をする必要がなかった。川から家に来る途中に小さなスーパーマーケットやホームセンターが数軒あり意外と品揃えが良く、生活必需品は十分にそろえることができた。むしろコツコツと一人暮らしの基盤を作るその作業自体がとても新鮮で楽しく胸が躍った。
料理にも挑戦した。城の料理人の仕事をたまに見ることがあり、とても憧れていた。電車で少し行った比較的大きな駅に本屋があり、簡単そうな料理本を購入し勉強した。料理本以外にもいろいろな本を購入しては読んで勉強した。いつしかそれが日課になっていた。本が棚に並ぶと城の自分の部屋の本棚のような感じになってきて嬉しくなってきた。そんな日々を数日過ごした。
ミヤコからの仕事の内容は意味が分からなかった。
「このビルの8階オフィスに行って、昼のお弁当のチラシ置かせてもらうようお願いすること。その際、ペンの形をした隠しカメラを起動し耳にかけて、そのオフィスの中を少し撮影してくるように。」
そのチラシのお弁当の写真も見た目からして不味そうで、コンビニで売っているそれの約3倍くらいの値段がつけられていた。まるで売る気の感じられないチラシだ。意味を聞きたかったが家には電話はないし、ミヤコの電話番号も知らず聞くことはできなかった。
ここに来て数日後、ふとその仕事の事を思い出し、その翌日行くことにした。
■
その日の夜は、月明かりがとてもきれいだった。月の光が強く周りの星たちがくすんで見えた。
特に家ですることもないので、近くを散歩してみることにした。地図を懐中電灯で照らし見ながら「蛇の喉元」のほうへと歩く。整備された公園でところどころ雑草が生えてたりほころびはあったが歩くのに不自由はなかった。
蛇の喉元に近づいた時、とても恰幅の良い女の影が見えた。女はじっと月を眺めていた。近づくと女はその物音に気が付きゆっくりとこちらを見た。40ぐらいの女性。全身黒づくめの服装をしており、髪はボサボサでお世辞にもきれいには見えない。暗くて良くわからなかったが手首から血を流しているように見えた。
「小さい子がこんなところで何してるんだい?」
女のほうから話しかけてきた。喉がやられているのかと思うほどの濁声だった。
「少しお散歩をしてました。あの失礼ですが、お姉さんは・・」
「あたしかい?もう死のうと思ってねえ。」
耳を疑った。自殺するというのか?エルティアでは、自殺は宗教上許されない。「神から授かった命を自ら断つことは神に対する冒涜である」と教えられている。
「ど、どうしてですか?」
「ずっと彼の家に居候してたんだけどさ、数日前から帰って来ないし連絡も取れなくなってねえ。たぶん捨てられたんだろうね。あたし。こんなデブだし、何の役にも立たないし。そんなこと考えてたらいつの間にかここにいたってわけ。」
何も返すことができない。どう声を掛けて良いかが思いつかない。
「あそこに島があるだろ。仕事であそこに行くって言ったっきりさ。」
遠くに異様な色をした島が小さく見えた。その島が何だかわかり罪悪感が蒸し返す。
「死ぬなんて考えるべきではないと思います。もし、もし悩んでおられるのであれば私の住んでいるところが近くにありますので少し落ち着いて考えてみては・・」
恐縮しだんだんと小さな声になる。女は小さな子に自殺を止められたことにいとわしさと気まずさを感じた様子で、少し悩んだのち「仕方ないねえ」などとブツブツ言いながらついてきた。
■
夢見乃あくび。
もちろん本名ではない。本名は忘れた。いや、思い出さないようにしている。思い出したくもない。
こんなところにこんな立派な家があることに驚いた。それでもって少女が一人で暮らしている。事情を聴くと「今日は一人だけど、普段はおばさんと過ごしている。用事があって数日帰って来ない。ここ最近は訳あって学校には行っていない。」と少女は答えた。それにしては不自然な点が多いと感じた。
家に入ると、部屋にお菓子が数個置かれていた。腹が減っていたので「もらうよ」と言い遠慮なくむしゃむしゃと食べた。少女が遠目で呆れたように見ている。どうせ「ホントに自殺する気だったの?」とでも思ったのだろう。
本当に死のうと思っていた。もう頼るものが一切なかった。
小さなころ、父は不倫し家を出て行った。養育費もすぐに払わなくなり連絡もつかなくなった。母は安い給料のパートの仕事をいくつか掛け持ちし生活費としたが、いくら働いても貧しく、それがストレスの原因となり良く私にあたってきた。母の口から出る話は金や世の中の恨み話ばかり。ある日「あんたが居なきゃ、もっと別の道も選択できたんだ。このお邪魔虫が。」と言われ悔しくて泣いた。小学校でも貧乏でいじめられた。何でいつも同じ服を着ているの?そんなボロボロの服着て恥ずかしくないの?なんか嫌なにおいがする。毎日のようにそんな言葉を掛けられた。そんなおかげで友達もいなかった。
ずっと、父も母も恨んだ。どうせ私なんて生きている価値がない。だったらいっそう最後に好きなことをして死のう。そう思い小学校5年生の時に家出した。
全然栄養が足りてないはずなのに背は不思議と伸びた。余計なぜい肉もつくはずがなくガラスに映った自分はきれいなほうだと思った。繁華街のスカウトらしき人に、こう見えてももう高校生だ、と嘘をつき風俗の世界に入った。小学校6年生の時に見知らぬおじさんを相手に処女を捨てた。
自分の体でお金がもらえることにとても誇りを感じた。若いってだけで男が寄ってくる。遊びに来てくれるだけでなくお土産までくれる男もいる。お金も母が死ぬほど働いて稼いだ額なんて屁のように思える額だ。そのお金で何でも好きなことができる。幸せを手に入れたと思った。事実、幸せな日々だった。
しかし自堕落な性格がたたり次第に太り、醜くなり、客も次第に減って行った。お世話になっていたお店もクビになり、デリバリー型の風俗に就くも客がつかず次第にただただ何をすることもなく連絡が来るのを待っている日々が続いた。ストレスで酒やたばこ、薬にも手を出した。自分が悪いことが分かっていても自堕落な性格は改善されず外見もどんどん醜くなっていった。そしてデリバリーからも追い出された。
しばらく、昼から繁華街に立ち待ちゆく男に声を掛けてはホテルで遊ぶことで生活した。こんな私でも何人か声を掛けると相手してくれる人がいた。たいていは60近くの汚いおっさん。それでもホテル代は相手が出してくれるし食事もできるしお小遣いもくれて、それで何日かは生活できる。とてもありがたかった。
ある時、その繁華街で、昔風俗で働いていた時に私の事を気に入ってくれた男にばったり出会い、そのまま居候させてもらうことにした。その男も風俗店の仕事をしていた。
男も一緒に住んで間もなく私を邪魔に感じたようで、それから何度も追い出そうとした。追い出されそうになるたびに「追い出したらここで死んでやる。」と騒ぎ手首をナイフで切り暴れた。そんなことを繰り返しながら2年以上。毎日朝から酒を飲み菓子を食べ、テレビと会話する生活を続けていた。
彼と連絡が取れなかったのは実質3日間程度。丸一日でさえ連絡が取れないことが今までにはなかった。だからその3日間は延々と長くその間どんどんと心を蝕んだ。
人生を振り返り、悔いばかりが残るが幸せな時だってあった。これで終わっても良いと思った。
菓子を作業の如く食べ、そのまま横になって寝た。いつだって寝れる。また何の希望もない明日が来る。そんな明日など来ないで欲しい。
翌朝起きると毛布が体にかかっていた。
起きてゾウガメの如く地を這いテレビを探す。音がないと落ち着かない。
テレビをつけると、先に行われる知事選の候補が笑顔で訴えていた。まだ30代であろう若い青少年だ。
「きれいで、住みやすい、安全なまちづくりを目指します。悪質な性風俗の撲滅に努めます。」
朝から気分が悪い。ヘドが出る。酒はないのか?
昨日の少女が恐る恐る近づいてきた。
「あ、あの。私、少し用事があり外出してまいります。あの、このおうち、自由に使っていただいて構いませんので。お気持ちをお休めください。」
不機嫌そうなそぶりをしてしまう。本当は少し和んでいるくせに素直になれない。
「では、行ってまいります。」
「ちょっと、あんた。」
「は、はい」
「帰りに酒買って来てよ。一番安いやつでいいからさあ。」
「お酒ですか?でも私は未成年なのでたぶん売ってくれないかと。」
「なんだっていいから、買ってきとくれよ。酒がないとやってけないんだよ。」
少女は困った顔をして、少しですがこれでご自分で、とお金を差し出してきた。
「すみません。では行ってまいります。」
「ありがとよ。」
少女はそそくさと出て行った。仕方なくそのまま寝そべりながらしばらくテレビを見て、2時間後、顔をさっと洗い酒を買いに出かけた。
■
電車に乗り、目的のビルへと向かった。そこは昔この地域の経済の中心と呼ばれた場所、今もその面影を残すがなんとなく寂れた空気を感じる。ビジネスマン、サラリーマンで溢れているが年配が多く目が死んでおり覇気がない。少し通りから逸れるとホームレスが勝手に作ったであろう居場所が所々に見られる。高速道路下の橋の近くには道端で堂々と寝ている人もいる。皆、見て見ぬふりをし避けて通って行く。
昼少し前に目的のビル到着した。小型の8階建ての何の変哲もないビル。8Fは一般財団法人生活セキュリティセンターとあった。早速入り指示通り仕事をした。
仕事を終え、ふらふらと町を歩く。お昼は思い切ってファーストフード店に入りハンバーガーを食べてみた。美味しいような不味いような良くわからない味だった。食べ方がわからず手も机も汚れる。周りの人からジロジロ見られている気がした。
ミヤコさんの家へ行こうと駅に向かう途中、片隅の公園に自分と同じくらいの少女が一人座っているのが見えた。少し様子を見ているとうつむき、頭を抱え、顔を両手で隠し、地面の石を蹴るという行動を繰り返していた。恐る恐る近づいてみた。
「あの、すみません。どうかされましたか?」
その少女は、見開いた眼で私の顔を見るとその場から逃げようとした。しかし、ベンチの橋に足を引っかけ転んでしまった。荷物もベンチに置きっぱなしだ。
「ごめんなさい。驚かすつもりはなかったのです。大丈夫ですか?」
「え、う、うん。」
少女はまたベンチに腰掛けスカートについた砂埃を払った。
「こ、これ。良かったら一緒に食べませんか?」
チョコレートを差し出すと、それをしばらく凝視し、また私の顔を見てそれから一口食べ始めた。しばらく無言の時間が過ぎたのち、少女のほうから話し始めた。
「家出したの。で、行く場所がなくて・・・。」
その声には力がなく、少しの風でかき消されそうだった。
「ご両親は?」
「いる。でも私の事なんて愛してない。帰ったら殺されちゃう。」
その少女から涙がこぼれると同時に、体に悪寒が走った。両親が子を殺す?一体どういうこと?しばらく何も言ってあげることができなかった。
「警察の人に相談してみれば・・。」
「だめ。そんなことしたら家に戻されちゃう。」
「でも、行き場がないのでしょう?住ませてもらえる施設とかあるはず・・・」
話しながら数日前の変態を思い出す。あいつらはこんな子を捕まえて助けるふりをし自分の趣味で遊んでいる。吐き気を催す。
少女はまた両手で顔を覆い、うつむいてしまった。
ふと、気が付くと2人の警察官が後ろに立っていた。
「どうしたんだい。ここで何をしているんだい。」
彼らは機械的に質問してきた。しばらく黙っていたがたまらず私から事情を説明した。少女は嫌なそぶりを見せながら黙って聞いていた。
数分質問を繰り返した後、警察官の2人はその少女を一時保護するとのことで連れて行った。
私も質問されたが「お家のお買い物をママに頼まれて。」「住所は覚えてない。忘れちゃった。あの通りを右に行った先を左に行って、また右に行った先。」などと適当な事を言って逃れた。
■
午後3時過ぎ、ミヤコさんの家についた。
またおいしい紅茶と手作りのフルーツゼリーをごちそうしてくれた。
ペン型の撮影機を渡すと早速見始めた。見て間もなく、ニヤニヤし始めると「あっはっはっは」と高笑いした。
ティナがビルの8階に降りる。
正面のドアをノックするが、誰も出てこないので今度は強くこぶしでたたき始める。すると男がオフィスから出てくる。
「なんだい?そこの内線電話で呼び出してくれればいいのに?」
「あ。失礼いたしました。これが何だか分からなかったもので。」
「で、なに?子供がこんなところに来ちゃだめだよ。」
「あ、あの。急にお邪魔して申し訳ございません。実は母がお弁当屋をはじめまして、それでもしよろしければと思いチラシを置かせていただけたらと。」
「うちあまり弁当取らないんだけど。でもいただいておくよ。感心だね。」
オフィスの扉は半開きで、男が体で遮っていて中が良く見えない。
「あ、あの。もしよろしければ直接チラシをオフィスの中に置かせていただけたらと。」
「え、え?」
ティナは男があっけにとられている隙にオフィスの中に体半分入ろうとする。
「だ、だめ。だめだよ。ちょっと。」
「あ、すみません。」
「もう。」
「是非、直接置かせていただきたくて。あと、大人の方が普段どんな環境でお仕事されているのか興味がありまして。すみません。とてもきれいなオフィスですね。」
「ま、まあね。その、生活に携わる仕事だからねえ。」
「少しだけでも拝見させていただけませんか?」
「困ったなあ。ほんの少しだよ。」
ティナがオフィス全体を見渡した。数秒後また、男が映る。男はチラシを見て、眉間に皺を寄せている。
「それでは失礼します。お弁当ぜひよろしくお願いします。」
「あ、ああ。」
最後音声に小さく「誰がこんな弁当買うんだよ・・」と録音されていた。
「あなた最高ね。良いお仕事。さすがはお姫様。」
ミヤコさんはご満悦の様子だ。
「あ、ありがとうございます。」
「またよろしくね。」
映像を見ながら、笑っていたミヤコさんだったが次の瞬間真顔になり目を細め映像を凝視したように見えた。でもすぐに普通に戻った。
少しくつろいだ後、ミヤコさんは車で最寄りの駅まで送ってくれた。魔法は極力使わず人と同じ生活をすべきだと教えてくれた。
夜、家に帰りつくとあくびがテレビに向かってケチをつけていた。
「つまんねえ番組ばっか。アイドルをバカにしていじり倒してたり、アイドルもそれ聞いて喜んでやがる。バカな男が女をバカにしてるだけじゃんか。吐き気がする。
しっかたねえからニュース見りゃ、変態が女のスカートの中盗撮して捕まっただの、女性アスリートの写真を加工して侮辱しているだの・・・この世の男どもはクソかあ。
あー気分わりい。」
部屋には空き缶が無数に転がっている。あげたお金全部使って酒を買ってきた様子だ。
「あくびさん。お酒の飲みすぎではないですか?」
「あたしにとっちゃこれが水分なんだよお。」
にぎやかな夜だった。何はともあれ、生きてて良かった。そう思った。
この日は、別の部屋で一人でお弁当を食べた。
■
翌朝、朝食を済まし、あくびが床に大股を開いて寝ている邪魔にならぬよう、なるべく静かに家の掃除、洗濯をした。
昨日は気が付かなかったが、あくびは洋服を交換していていたようで洗濯物入れに彼女のものも入っていた。今着ている服はウエストのチャックが閉まらないようでチャックが開いたままビニールテープで括り付けられている。上着も全然サイズがあっておらずぴちぴちで胸のほとんどが隠れていない。家にあったミヤコさんのものと思われる服を勝手に着たのであろう。ミヤコさん怒るだろうなと思った。
自分も洋服店で適当に買った洋服に着替えた。これもいつもの楽しみだった。お城では準備されたものを着るだけ。交換を要望することもあるが、だいたい同じような洋服でつまらなかった。
またミヤコさんにお弁当の仕事をお願いされているが、数日後で良いとのことだったので今日はしないことにした。
午前の終わるころ、家を出て「蛇の喉元」のほうへ散歩に出かけた。するとまた一人の女性が立っているのが見えた。すかさず走って近づき声を掛けた。
20後半と思われる女性。一目、身に着けているものや化粧など全体的に地味な印象だった。その女性は驚いた様子で話した。
「ごめんなさい。大丈夫よ。私は自殺しに来たわけじゃないから。ちょっと自殺の名所って呼ばれている場所が気になって来てみただけ。」
「そうですか。失礼いたしました。」
「そちらこそ、こんなところで小さな子が一人で何をしているの?」
訳あってこの近くに住んでいると答えると、その女性は不思議そうに私を見つめていた。少しすると、女性は蛇の喉元のほうへ近づき下を覗き込み「ひゃー」などと一人で声をあげていた。私も一緒に下を覗き込み同じような声を上げてしまった。
「さっき、自殺するつもりなんてない、って言ったけど、さっき覗き込んだ時ここで自殺する人の気持ちがわかった気がする。ここって何もかも終わりにしてくれそう。
コチペルト半島のちょっと狭くなるところに縁切り神社ってあるの知ってる?さっきそこに行ってきたの。私もちょっと縁切りたいのがいて。」
「縁を切る神社ですか?」
「そう。一緒に仕事している上司とか旦那とか。そういう私も縁切りたいの旦那なんだけど。」
「何かあったのですか?」
「暴力振るわれたの。ちょっとした言い合いになって。あったまきて家出ちゃった。今は別居してるんだけどまだ離婚はしてなくてね。」
女性は川田琴美と名乗った。琴美は私の家が見たいと言い出し、断ることもできず家に招くことにした。
あくびはまだ別の部屋で寝ているようだった。エルティアのおばあさんやミヤコさんを真似して、お茶とお菓子を出した。それから琴美はずっと私に旦那の愚痴を話した。
「結婚して4年くらいになる。子供はもうすぐ3歳で今は実家のお母さんに預けてきちゃった。用事があるからって。
仕事は辞めて、今は主婦。毎日が言うこと聞かない子供の面倒でずっと耐えてる感じ。子供はパパが大好きみたいで私の事は嫌いみたい。だから言うこと聞かないの。
旦那はここ最近ずっと忙しくって平日はいつも帰りが終電。朝もさっさと出ていくわ。この間はたまたま連絡取れなくって夕飯いらないと思って作らないで先に寝たら怒り始めて『駄目な女だ』って文句言われたわ。でも夕飯用意しておいても『もう食べてきた』とか言って食べないこともあるの。最悪よ。
最近は仕事だって言っておきながら、なんか香水の匂いプンプンつけて酔っぱらって帰ってくることが多いの。聞くと『付き合いで仕方ないんだ。』ってキレ始める始末。
旦那は土曜日も仕事で、日曜日は休みなんだけど、日曜日になるとゴミが散らかってて汚いだの、洗濯物が終わってないだのずっと文句言ってくる。自分は日曜日子供と遊んでいるだけなのに。家の仕事はお前の仕事だとか、だらしない人間だとか言って。」
「なんかひどいですね。」
「でしょ。で、この間また同じようなことで別に何言ったってわけじゃないのに急に怒り出して殴ってきたの。私、あまりにショックで泣いちゃった。もうやってけないと思って。」
マシンガンのような口調からして、確かに自殺するような人ではなさそうだなと思い少し安心した。話はまだ続いた。
「彼とは職場で出会ったの。
職場もひどい職場で、女の子は給料安いうえに簡単な仕事ばかりだったわ。後から入社した仕事のできない男が自分達より上の立場になって働いたりしてた。仕事で頑張ってた女上司がショック受けてた。
私はそんなに仕事できるわけじゃなくって、良く女上司に遅いとか違うとかって怒られて毎日職場に行くのが嫌だったわ。私語とかも基本あまりできなかったし、なんか重苦しい職場だった。
その上、上司がひどくて、飲み会に強制的に参加させられて、取引先の人達のお酒を注ぐ係をやらされたりとか、女はパンツは厳禁だ、スカートにしろなどと強要されたりとか。少し仕事で不手際があって遅れると、決まって『だから女は・・』みたいなことを言ったり、かわいい子にだけは優しかったり。それで辞めてった子も多かったわ。私も嫌だったけど、そんなにプライド高くないし、そんなにかわいくもなくて相手されなかったし、何年か我慢して仕事してたら少しはできるようになったし、辞めなかった。
でも、やっぱこんな会社にずっと居て幸せなのかって考えたりしててずっと悩んでて。そんなときに彼と一緒の仕事を少ししてそれから結婚したの。その時は本当に救われた気分だった。」
「そうだったんですね。」
「でも、結婚して仕事辞めて、今また地獄みたい。
私、この間たまたま前の会社で仕事してた人から連絡があって、いろいろと話しちゃった。その子が言うには絶対に不倫してるって。」
「え、そうなのですか?」
「うん。私もそう思う。仕事だって言って帰って来ないけど、仕事じゃないんじゃないかって。そんな毎日終電になるような仕事、考えづらいって。」
「あの、一度、ちゃんと話し合ってみたら・・・」
「自分の不都合な話になるとすぐにキレて、暴力まで振るってくるんだよ。話し合いなんてありえないよ。」
隣部屋からあくびが出てきた。「うるさいわねえ」とかぼやきながらトイレに向かいものすごい音を立てて用を済ませていた。
「だ、誰?お母さん?」
「あ、いや。ええ、でもそんな感じです。」
琴美は少し恐縮した様子で、「お邪魔してごめんなさい。また遊びに来ても良い?」などと言い残し帰って行った。
数分後あくびは「酒を買ってくる」といい、あの無様な恰好のまま家を出て行った。
■
翌日、ミヤコさんにお願いされた仕事を済ませ、ミヤコさんの家を訪れてみたが留守だったのでそのまま帰った。
薄暮の時間、家に近づいた時、ふと「蛇の喉元」に人気を感じた。嫌な予感を頼りに行くと、そこには数日前に公園で出会った少女がいた。声を掛けるとものすごく驚いたが、次の瞬間号泣し始めた。
「あの後、警察の人が両親に連絡してくれて、案の定引き渡されたの。
警察の人がいろいろと言ってくれて、パパもママも『すみませんでした。反省します。ちゃんとこの子の面倒を見ます。』とか言ってたんだけど、警察の人がいなくなったとたん、私に2万円だけ渡して、もう帰ってくるなって・・。警察にも連絡するなって・・。」
なんてこと?実の子を捨てたってこと?こんなにもいとも簡単に自分の子を捨てる親が存在するのか。
「え、嘘でしょ。」
「もう、もう、私、生きていけない。私の居場所なんてない。誰も助けてくれない。」
全身が震えている。震える声に涙が混じり言葉にならない。ここに来ることだって相当辛かったはずだ。
「そ、そんなことないわ。大丈夫。生きていける場所なんていくらであるわ。」
「警察に言ったってただ親に連絡するだけ。私なんて邪魔なだけ。私なんて居ないほうが・・。」
「私のうちにおいで。お願いだから落ち着いて・・・。」
「嫌。もう終わりにするの。もう終わりなの。」
「お願い。ほんの少しでいいから。」
自分と同じくらいの大きさの体を強く優しく抱きしめた。少女の全身の震えを感じる。そして冷たい。ここまで来るのにどれほどの絶望と悲しみを我慢していたのか。それが今噴き出たのだ。
「お願い。私で良ければ何でもする。力になる。約束するから。だから落ち着いて。」
湧き上がる悲しみの深さが触れた肌から伝わる。あまりの絶望感にもらい泣きする。
この子が何をしたというの?両親が愛し合ったからこの子が産まれてきたはず?なぜ?助けてあげたい。
20分くらいか、やっと少女は落ち着き「行く」と言ってくれた。
泣いて猫背になっている少女の背中を優しく抱えゆっくりと家のほうへと歩く。少しでも強くすれば、そのまま倒れそうだ。
暗い夜道。静寂の中鳥や虫たちが不気味に叫ぶ。砂利や芝を踏む音が静かに地面に響く。遠くのほうでは何かのサイレンが響いている。
少しほっとし力を抜いたその瞬間だった。少女は手を振りほどき、全力で私の体を突き飛ばした。道のくぼみに足をとられ転んでしまう。
「え、ま、待って。」
見つめたその先には、全力で走る少女の後ろ姿。
一瞬だった。すぐに立ち上がり追いかけるが何もなす術がなかった。何の躊躇もなく少女は蛇の喉元の柵を超えそのまま崖下へと吸い込まれていった。
崖の下から聞くに堪えない鈍い音が響いた。下を見ると薄い暗闇と荒波が打ち付けるだけの崖底。すでにそこにはあの少女の姿はなかった。
膝から崩れ落ちしばらく動くことができなかった。
助けてあげられなかった。自分の無力さをただただ責めた。
波の音と同期するかのように、答えのないいくつもの疑問がずっと頭を周り巡った。
辺りは真っ暗になった。
何分、何時間経っただろう。
ふとポケットにある薬を3粒取り出し飲み込み、なんとか力を振り絞りゆっくりと家へと戻った。しばらくの間、体中が痙攣し、うまく動けなかった。
■
あくびはいつものようにつまみを食べながら酒を飲んでいた。
いつものようにテレビに向かって難癖を付けていた。そのバラエティ番組にはコメンテーターの芸人が先日不倫で問題になった男を擁護している姿が映っていた。
「なにさ、男は不倫してもいいっつーのかい。この間アイドルで不倫していた女なんて総攻撃くらってもう一切テレビになんて出てこないのにさ。
あと、こいつだよ。こいつも以前不倫してたくせにひょっこりテレビに復帰しやがってさあ。男は不倫するのが当たり前で許されるっつーのかよ。気分わりい。
だいたいよう、こいつなんて小さな子供作ったばっかじゃんか。子供の身にもなってみろよ。」
静かな物音がした。それは無言のまま奥の部屋へと入って行ったようだった。彼女だろう。いつもならお上品にただいまの一言ぐらいあるのに珍しい。そう思った。
つまらないテレビ。でも私の貴重な会話の相手。ずっとこんな生活をしてきた。
結局、彼とはもう連絡が取れない。もう終わったんだ。
謎の少女にお金恵んでもらってここで生きている。強制的に退去させられるまでここに居てやる。あっちが声を掛けたんだ。私は悪くない。
なんだかあの子が心配になってきた。
直接部屋に入り、そのまま出てこない。いつもなら一人で食事したりシャワー浴びたり感心するほど規則正しく行動する。こっちが酔っぱらって寝ているふりをしてても静かにおやすみなさいって言ってくる。
いつの間にか彼女の部屋の前に立っていた。酔ったせいかどうやってここまで移動してきたかもわからない。扉をノックする。
「おかえり。どうしたんだい。何かあったんかい。」
部屋の中で少し物音がするが返事がない。
「ふー。何かあったら聞いてやるよ。じゃあね。」
そう言ってまたテレビの部屋へ戻った。
2時間ほどしたとき、彼女が部屋から出て、こっちに来た。彼女は元気のない声で、小さな子が「蛇の喉元」から自殺したことを教えてくれた。
「あくびさん。その子は両親に捨てられたようなんです。こんなことってあっていいのですか?」
力のない声だった。ショックだったんだろう。
「自分の子供に暴力振るったり、育児放棄したり、そんなの日常茶飯事だよ。駄目な大人はさ、育てられる自信も覚悟も責任もなーんもないのに子供作っちまう。子供がかわいそうったらありゃしない。」
「日常茶飯事なのですか?」
「なんだろうねえ。もちろんさ、大抵の親は自分の子を愛し自分よりも大事に育てるさ。でもさ、男が浮気して離婚したり、仕事失ったりしてさ、自分の生活すらできなくなってきたりするとそうなったりするもんさ。」
「それで簡単に自分の子を捨てるなんて・・・。」
「自分の事しか考えてねえんだよ。そういうやつはさ。自分の子に責任も負えねえんだよ。私の父親だってそうだったさ。不倫して私と母親捨ててさ。で、母親はいつも金、金って。私の事なんて一切どうでも良かったさ。」
「養育費とかはなかったのですか?」
「そんなもん、払わないさ。」
「ですが、男性の勝手な都合で離婚した場合、養育費を払わなければ法律で処罰されるのでは?」
「はあ?そんなの初めて聞くねえ。そんなもんないよ。良心のかけらもない男はすぐ逃げちまうよ。」
また少女はしょんぼりしてうつむいた。
「まあ元気だしな。あんたが悪いわけじゃないさ。その子は不幸だったかもしれないけどさ。」
少女は静かにお礼を言い、また部屋へと入って行った。
少しざわついた夜だった。鳥の声が森に響いていた。
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