恋の法則

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「恋人ですって言ったら管理人さんが開けてくれた」 「…防犯意識ゼロアパート…」 28歳の立川チガヤは近所の急性期病院にて夜勤専従で働いている看護師だ。 只今 午前9時45分。 怒涛の夜勤を終えて(珍しく定時にあがれたのだが…) くたくたになったからだを引きずり自分の巣である職場近くのアパートに帰宅すると、自分愛用のこたつで女が寛いでいた。 「お疲れ様。今日の朝ごはんはツバスの塩焼きとほうれん草のお味噌汁、じゃこの入った卵焼きに白菜の塩麹もみっ」 つい先日から付き合い始めた“彼女”が朝食を用意して待っていてくれた訳である。 嬉しそうにお品書きを述べてこぽこぽと湯呑みにほうじ茶を注いでくれる。 彼女に鍵は渡してない。 お袋や妹弟とバッティングするのもこっ恥ずかしいし、鍵を渡したが最後、ずるずると同棲するようになるのはだらしがない。 しかし、彼女は知能犯で早々にこの老朽化したボロアパートの管理人と仲良くなった。 「流石、古アパート。セキュリティがあったもんじゃねェ」 「大丈夫ですよ。私、ミナミの皮を被った怪盗じゃないですから」 「こんな頼りない怪盗いるわけねぇよ。大体盗むもんねーし」 「まあまあ固いことを言わず、冷めないうちにお召し上がりください」 彼女はかいがいしくご飯をよそってくれるがそれ以上の世話を焼かず、実弥が食事をしている横で看護師の国家試験用テキストを開いている。 彼女がこのアパートへ来る言い訳の一つは国家試験の勉強である。 “彼女”赤井ミナミは21歳。 看護専門学校生で次の国家試験の勉強をしている。 彼女の家は商売をやっていてこ忙しいから、チガヤのアパートを無料の自習室にしているのだ。 「お仕事お疲れ様」 「まぁな。夕べは案外平和だった…悪いけど、食ったら風呂入って仮眠する」 「どーぞ。勝手に自習しておくから」 元々、チガヤの弟“モトヤ”の友達“ゴロウ”の妹と言うややこしいポジションにいたミナミだ。年が離れた二人は疑似兄妹を終えて、そのポジションを脱却し友達関係を始め最近やっと恋人に昇格した。 勿論、先日までの数年間は“一番そういう時期”だったからお互いに意識はしていても、他の誰かと付き合ったり別れたりの一悶着二悶着はざらだった。 ミナミはチガヤへの届かない想いを誰かにぶつけるようにに誰かと付き合い。 チガヤはミナミが気になるクセに不器用で恋愛偏差値2だから、他の誰かと付き合う。 二人の片想いはすれ違いを繰り返し、えらく遠回りして想いを重ね合わせる事が出来た訳である。 チガヤの名誉の為に言っておけば彼はロリコンでもなければ、妹のような年齢の淑女へ悪戯に手を出した極悪人なわけでない。 風呂から上がるとミナミが布団を敷いてくれていた。 「こたつで寝ようと思ったのに…」 「こたつで寝たら風邪をひくでしょう?」 「ん、ありがとう」 チガヤは布団に潜り込み、直ぐにスウスウと寝息をたてた。 かちかちかち… 「うさぎどん、うさぎどん、先程からかちかちとおとがするが、何だろうか?」 「それは、かちかち鳥の鳴く音だよ」 ぼうぼうぼう 「うさぎどん、うさぎどん、先程からホウボウと音がするが、何だろうか?」 「それはぼうぼう鳥の鳴く音だよ」 狸の背負った薪からは、ホウボウと火と煙が上がる。 「うさぎどん!たばかったな!!」 「なによ?あなたは私に騙されているのを本当は知っていたんでしょう?」 「惚れたが悪いか!!」 かちかちかち… 数時間後、チガヤは目を覚ます。 左の耳の側で音が聞こえる。 「くそみたいな夢…」 かちかちと言うのは時計の音で、こたつで寝てしまったミナミの腕時計がチガヤの耳に推し当てられるような体勢がとられている。 チガヤは時計の巻かれた腕を退かす。 この時計はミナミの誕生日にチガヤが贈った物なので怒るに怒れない。 「俺にはこたつで寝るなって言って自分は寝てるし」 こたつで温められたせいかミナミの額は軽く汗ばみ、シャツのボタンは3つもはずされている。 少し覗く胸元からはブラジャーの繊細なレースが露見していた。 「危機意識ゼロ」 チガヤはこたつ布団をミナミの首元までかけて、そのスイッチを切った。 最初に告白したのはミナミの方だった。 当時まだ14歳。中学三年生。 呼び出された公園にて、真っ直ぐな瞳で 「チガヤさん、好きです…」 泣きそうに言われても 「妹にしか思えない」 当時22歳のチガヤ。これ以上に無い無難な断り文句である。 悪戯に答えても大変なことになるし、残酷にふったらトラウマになる。 「私が中学生だからダメなの?」 「…いや…」 「モトヤ君と同じ16歳だったらいいの?」 「…ダメ」 「じゃあ17歳だったらいいの?」 「…」 「18だったら?19だったら!」 「ダメだ!ダメだ!ダメだァ!」 二人ともはぁはぁと息を切らす。 「年齢じゃねぇ」 「…私の事、嫌いですか?」 「嫌いなヤツに呼び出されてホイホイ出向くほど暇じゃねぇから」 チガヤの煮え切らない言い方と、曖昧な表情の隙をミナミは突く。 「私、またチガヤさんに告白していいですか?もちろん、ちゃんと大人になってから」 「勝手にしろ」 「あはっ、勝手に好きでいますね」 正直に言えばチガヤの方もミナミを全く嫌いではなかった。古風に言えば“憎からず想ふ”と言うヤツだ。 しかし、大学生と中学生ってどうよ? 自分の直ぐ下の弟モトヤよりも年下だ。 お付き合いするにしてもピンとこない。 ミナミの言う通り年齢が仇になっているのかも知れない。 例えば32歳と24歳なら寧ろ何も問題ないだろう。 しかし、その後、チガヤは国家試験を経て看護師になり目まぐるしく働く事となり、ミナミは受験を終えて高校生となって学校生活が忙しい。 そんなある日、銀行のATMで二人はバッタリ会った。 久々の再会であるし、モトヤとゴロウの話題で盛り上がったので、二人は銀行の近くの公園へ遠征する。奇しくも一年前、ミナミがチガヤに告白した歴史的公園であった。 年上の貫禄を見せてチガヤは缶紅茶くらい奢ってやる。 「高校、楽しいか?」 「はい、私、陸上部に入ったんです」 「へえ」 「それで…三年の一番足の早い先輩がいるんですけどね」 「ふぅん」 モトヤの同級生に凄く目立つ足の早いヤツが居る事は聞いていた。優しくて賑やかで、可愛らしい童顔の男子らしいが。自分には関係ない。 「昨日、告白されました」 ミナミは自分の靴の先を見ながら呟く。 「…で?」 チガヤはわざと事も無げに答える。 本当は少しだけ動揺したが、気がつかれないように目を泳がせる。 「でって?」 「よかった、じゃないか?」 「…そう思いますか?」 「そいつと付き合うのに俺の許可は必要ないだろ?」 「そうですね…」 チガヤは立ち上がる。 「チガヤさん。忘れちゃいました?」 ミナミもベンチから立ち上がる。 「…思い出さない方が良いこともあるんだ」 夕日に向かってチガヤの姿が小さくなって公園を出ようとする。 ミナミは息を吸い込む。 「チガヤー!」 「はぁ?」 「こっち向いてよ!」 チガヤが振り向くと、自分を呼び捨てにした娘が突進してくる。 「バカぁー!」 ミナミは全力タックルでチガヤの脇腹に追突する。 チガヤの方も不意をつかれてふらつく。 弟達にタックルされるのとは全く違う。 ミナミはそのままチガヤの胸をぽかすか叩きながら 「ばか!ばか!ばかぁ!」 と、繰り返す。 「え?」 「ばかぁ!真剣に相手に出来ないならさっさと逃げればいいでしょう?いけず!意地悪!無視しなさいよ!素っ気なく振る舞いなさいよ!笑いかけないでよ!缶紅茶なんか要らないから!」 ギャグマンガみたいに涙を漏らし、ぐちゃぐちゃの顔でチガヤの胸を叩き続ける。 「私の事をちゃんと振ってくださいよ!私だって女なんだから!妹でも子供でもなくて、女なんだからっ」 「…わかった」 「わかってない!」 「でも…」 「でもじゃない!」 「ちょっと待てよ」 「もう!待てないよ!」 チガヤはミナミの髪をわしわしと撫でた。 「悪かった」 ミナミはチガヤの胸で涙を拭き、鼻を啜る。 「…ありがとう。好きになってくれて、あの、まだ好きでいてくれて…だけど」 チガヤはミナミの肩を掴み真剣に見つめる。 この返し方。ミナミには落ちが想像出来た。 ~ありがとう好きになってくれて。でも、気持ちには答えられない~ きっとそう続く。 ~だってお前は妹みたいなもんだから~ ミナミは急に血が下がり、冷静になる。 「ごめんなさい…勝手に好きになって。ずっとしつこく好きで」 ここが長年拗らせた初恋と言うか、一目惚れの厄介なところである。 普通の恋愛ならば、じわじわと付き合って 『この人、価値観が合う』とか、 『お顔が好みで仕方ない。性格が可愛すぎる』などの明確な理由が存在する。 一目惚れと言うヤツはほぼインスピレーションというか、突然ビビビと好きになってしまうので理由など殆どない。 メタな所をつけば前世からの因縁とか、野生の勘に頼るところになる。 年齢も相手の見てくれも性格も(あるいは性別も)関係ない。恋愛はするものだが、一目惚れやら初恋は恋にただズバンと落ちていくのみだ。(ダブルだと尚更厄介) しかもミナミは16になった。 チガヤへの想いを一年寝かしてこじらせたのだから、いまからチガヤがどう足掻いてもお互いに無傷じゃすまされない。 10代の一年はそれはそれは永いものなのだ。 「すみません。勝手に暴れて」 「いや、暴れさせたのは俺だから」 「ごめんなさい…チガヤさんの気持ちも考えないで」 「…俺は」 「私…先輩とお付き合いすることにします」 「へ?」 ミナミは自分から爆発した。自爆と言うヤツだ。 相手に迷惑にならない一番良い方法と思ったから。 好きな人の迷惑になるのが一番辛い。 私が、他の誰かと幸せになるのが一番“片想い相手”の負担にならないだろう。と、考えた。 若さの暴走で全力タックルかましたくせに。 「たぶん、付き合っているうちに好きになると思う…凄くいい人みたい。お兄ちゃんともモトヤ君とも友達なんだよ」 多分、一般的な狡い男ならここで胸を撫で下ろし「良かった良かった」というだろう。しかし、 「お前がそうしたいなら、そうしてみたら」 それがチガヤの回答。 ミナミは頷いて、もう泣かなかった。  全力タックルで「私を振れ」と命令されたのに。結局、チガヤにはミナミを振る権利が与えられなかった。 全ての事の次第は彼女の自己始動で始まり自己完結で終わった。 いつの時代も世の中を進めていくのは女性。男尊女卑なようで時代を拓いていくのは女性だ。なぜなら男は女からしか生まれないから。残念ながら。 ~~~ 25歳になるチガヤは激務の中で忙殺されながらも、同僚のナースとお付き合いすることになった。 仕事の先輩だから尊敬するところも沢山あるし、彼女は美しく世話焼きで気が利く女性で、少なくとも夕方の公園で全力タックルをかましてくるタイプではなかった。 彼女の部屋に泊まれば朝はハーブティを淹れてくれるし、夜は間接照明をほんのり点けた中でお香を焚いてくれた。 よくお互いの妹弟の話で盛り上がり、終わらない奨学金の返済やら、仕事の相談を優しく聞いてくれた。 でも、いくら彼女が素敵でも、自分としっくり合っているかは別問題である。 そういえば高校の時に初めて出来た彼女とも、大学の時にちょっとだけ付き合ってた彼女とも長く付き合えなかった。 チガヤは思う。もしかしたら自分には恋愛の才能がないのかも知れない。 しかし、もしあったとしたら、あの夕方の公園で破裂したミナミの気持ちを掬うことが出来たのか?上手く表現できない自分の気持ちを彼女に伝える事が出来たのか? それはわからない。 ~~~ 「立川君はいつも誰を探しているのかしら?」 ある日、彼女から問いかけられた。 二人きりになれる場所ではなく、カフェ…と言うよりファストフードに近い所で。 いつも清楚な服を着て綺麗に化粧をしている彼女に、こんな賑やかな場所は似合わない。 きっと猥雑な雰囲気の中、さっさと自分の話を霧散させたいのだろう。とても言いにくい話を。 チガヤの方も今日は多分別れ話になるんだろうな、と覚悟して会いに来ていた。 もう、数週間も二人きりで会うことを避けられていたからだ。 「さぁ?そちらは?」 「うん。ごめんなさい立川君では無かったみたい」 彼女はすまなそうに頷く。 チガヤは知っていた。 彼女は多分あの新しく来た身体の大きな眼科のドクターが気になっているんだ。 ドクターと話すときの彼女のキラキラした瞳はどこかで見たことがあった。 誰かを好きになった女の子の目だ。 「俺の事、嫌いになった?」 「ううん、大好きよ。でも、それはずっと一緒にいたい、お互いの気持ちが一緒の好きじゃなくなったの。ごめんなさい」 「一緒の好きか…」 チガヤは天井を仰ぐ。 「立川君と一緒にいて凄く楽しかったし、素晴らしい事も沢山あったわ…」 彼女は水の入ったコップを見つめて瞳をゆらす。 「ごめんね…」 「ありがとう。あのさ、俺が惨めになるからもう謝るなよ」 「わかった…」 彼女は真珠の涙を映画女優のように上品にポロリと二粒ながした。 (この人は別れ際も綺麗でスマートだ) こんな良くできた人は自分とはつりあわない。 チガヤは追いかけることもすがることもしなかった。 自分の浮かれた気持ちと比例した情熱は砂漠に落ちた果実のように干からび、暫くは何も考えたく無かった。確かに彼女の事は好きだった。 「あー、彼女の作ってくれたメシ、旨かったなァ」 チガヤは舌の上で味を反芻しようとするが、上手に記憶が甦らない。 それは全てが終わった証拠だった。 ~~~ ある日の夕方。チガヤが夜勤明けの眠たい頭を振りながら、階下に降りるとリビングの平机でモトヤとゴロウがダブレットを開いて一緒にレポートを書いていた。 二人は同じ大学の他学部で同じ科目の一般教養を取ったので意見交換…というか、要するにレポートの写しあいをしている。 「あ、兄貴」 「チガヤさん、久しぶりです」 ゴロウはチガヤとミナミが数年前一悶着あった事を知ってか知らずか爽やかに挨拶する。 「おう、レポートか?ゴロウ、モトヤによく教えてやってや」 チガヤはモトヤとゴロウの真ん中に腰を下ろす。 ゴロウはニコニコしてチガヤを見る。腹が立つ程素直で良い子だ。こいつの妹と同じで。 その時、ガラッと襖が開いてお茶とお菓子を持ってミナミが入ってくる。 チガヤは息を飲む。 「お久しぶりです」 「あ、ああ」 ミナミは座っているチガヤに目を落とす。彼女はここ一年で5センチ身長が伸びた。 体つきも昔のミナミではない。春のインターハイで陸上部を引退してから浅黒かった肌は徐々に白くなり、伸びた髪を腰までたゆたわせている。 「チガヤさん、ミナミ、看護専門学校を受験するんです。良かったらアドバイスしてあげてください」 ゴロウが朗かに言う。 「手に職をつけたいんです。私」 「ミナミ、しっかりしてるね。彼氏もしっかり系だからさ」モトヤがお茶を飲みながら呟く。 「ちょっと女子にモテすぎだけどな」ゴロウが毒づき、学生どもはわちゃわちゃとお喋りし出す。 あの時から付き合っている“陸上部のエース”とまだ続いているのか? きっとミナミには自分と違って恋愛の才能があるんだ。チガヤはひとりごちた。 「アドバイスも何もねぇよ。目から血が出るほど勉強すりゃあ良いんじゃねぇ?」 「あはっ、そうですね。このチュロス、私が作ったんです!」 ミナミは屈託なく笑うが、見たことない笑顔だった。 「チガヤさんも」 ゴロウがすすめる。 「いただきます」 チガヤもおずおずと手を伸ばす。 「…旨い」 「えへ、カリカリでしょ?」 「シナモン?」 「と、皆大好きシュガーバターよ」 赤井兄妹は微笑み合う。 暫くして家に帰ると言うミナミにモトヤが「俺たちこれからバイトだから、兄貴、送ってやってよ」と、提案した。モトヤとチガヤはバイト先まで一緒なのだ。 「いい。一人で帰れるから」 ミナミはわざと口元で笑って答えるが、目だけ笑ってない。 「いや、送るわ。もう暗いし」 「いいです」 「お前が良くても俺がよくない」 チガヤは車のキーを取る。 「お前んちどこだっけ?」 「私が口で説明しますよ」 ミナミはチガヤの助手席に気まずそうに座わり、チガヤは使い込んだ家の車ににエンジンをかける。 「タバコ、吸わないんですね」 「ああ、何で?」 「タバコの匂いも吸殻の形跡もないから」 (こいつの彼氏はタバコを吸うのか) 「お酒は?」 「あんま飲めねェ」 「あー、甘いもの好きですか…って、私、チガヤさんの事、全然知らなかったんだなあ」 ちょっとだけ遠い目をするミナミをチガヤは横目で見る。 「…勉強大変?」 「まあ、大変ですよ」 「頑張れるよな。彼いるから、陸上部のエースだったヤツだろ?」 チガヤは極めてさりげなく聞いたつもりが、ミナミの表情が固まってしまう。 「ああ…あの人とは…別れちゃった」 「へえ…あ、ごめん…」 「ううん。良いんです。あの時チガヤさんに言った通り凄く良い人でした。優しくて、健気で…彼からは毎日“可愛いね”って沢山言って貰ってたから、付き合っていて幸せでした」 「そうなんだ…」 「ええ、今の彼は可愛いなんて言ってくれませんから」 「はぁ」 チガヤはなぜだか胸がもやっとする。 「彼ねえ、同じ受験生で芸大目指してるんです」 「へえ」 そりゃあ陸上のエースから芸術系なんて、幅広いね。ミナミ、若いのにやるな。 もちろん、そんなセクハラはかまさない。 チガヤは立派な大人だから。 「頭良くって、しっかりしてて、私よりも可愛いから困っちゃうんですよね」 「そりゃあ良かったじゃん」 こういう時タバコが吸える男ならきっと吸うのだろう。 学生時代はまるでフォークダンスの様に相手を変えて違う出会いに順応する。 それは若者のモラトリアム特権であり、生涯で再び味わうことの出来ない通過儀礼である。 ここでしっかり出会って、好きになって…裏切られたり、嫌いになったり、好きすぎて困ったりを繰り返さないと、大人になった時に経験不足で大変困る。 「ねぇ、チガヤさん。私ね…」 赤信号で停車するとミナミがチガヤの顔をまじまじ見て話しかけてきた。 ~~~ 「これでいい?バニラの粒が入ったやつとチョコミント」 「わぁ!ありがとうございます!チガヤさんは?」 「チョコとストロベリー」 「可愛いー」 「るせェ」 突然、ミナミが 「アイスクリーム食べたい!ミントが入ったやつ!少し遠いけど、アイスクリームスタンドの路面店に行きません?」 と、誘ってきた。 「チガヤさんが嫌ではなかったらですけど」 と、付け加えて。 イートインで顔を付き合わせてアイスをたべる。 「美味しいでしょ?あ、お金払います」 「いいよ。これくらい」 チガヤは小さいスプーンでアイスの山を崩す。 「甘くて旨いな」 「でしょ?一口づつ交換しません?」 ミナミがアイスのカップを差し出すので、チガヤは遠慮がちにバニラアイスにスプーンを入れる。 「もっと、取っちゃっていいのに私は遠慮しませんよ」 「どーぞ」 ミナミは喜んでチガヤのカップのアイスをスプーン大盛りにかすめとり、ぱくりと食べてしまう。 「えへへへへへ」 「あー、取りすぎ!」 「返します?」 チガヤは舌をペロリと出す。 「…赤井ミナミってこんなキャラだったけ?」 「チガヤさん、私の事を全然知りませんねえ」 ミナミはアイスの最後の一口を口に運ぶ。 「今から知る由もありませんねぇ」 と言い捨てると眉を下げた。 「…食ったら帰るぞ」 「はーい」 二人は車に乗り込む。 「ご馳走様でした。おいしかった」 「ああ、旨かったな。ここ、よく来るの?」 「ええ、まあ…」ミナミは語尾を詰まらせる。 (彼氏と来るのね) チガヤはエンジンをかける。 「本当にありがとうございました」 「いいえ、気晴らしになれば何より」 「…私ね、中学生の頃、チガヤさんとアイスクリームを食べに行くのが夢だったんです」 なにその可愛い夢。こんなことで良かったらいくらでも…なんて無責任に言ってしまう権利はチガヤにない。 「えへ。叶っちゃった」 「満足したか?」 「してないって言ったら?」 「え?」 「あー、ここの赤信号で下ろしてください」 車は赤信号で停車する。 「ありがとうございました」 禰豆子はさっと車を降りてチガヤにペコリとお辞儀する。 チガヤは「ありがとう。俺も楽しかった」と言いたかったが我慢した。この言葉も言う権利がない。 その代わりパワーウィンドを開けて 「受験、頑張れよ」 とだけ声をかけた。 ミナミは振り返って手をふった。 ~~~ 時は過ぎてミナミは看護学校に入学し、26歳になるチガヤは眼科から整形外科へ異動した。 彼の名誉の為に言っておけば、すっかり眼科のベテランナースになって、眼科ドクターとも眩しい関係の元カノと距離を取るためではない。 単に整形外科の人手不足が原因だ。 整形外科に異動して直ぐにレントゲン室に悪友が出来た。 “レントゲン技師、卯ノ花リョウ” 卯ノ花なんて珍しい苗字だから、勘の良い関係者なら先代の医院長の所縁だと気がつく。 なので遊び人である彼の蛮行は殆ど見て見ぬふりをされていた。何でも新人時代は看護婦長のヒモだったと言う真しやかな武勇伝まで存在する。 屋上で煙草をふかすリョウに付き合って、二人で日頃の話を面白おかしくするのが、最近のチガヤのストレス解消方法だった。 リョウは長身で秀麗眉目な外見の上に話をするのがとても上手で、チガヤと話して居ると順番待ちの若いスタッフが(中には余り若くない、お掃除のパートさんや売店の御姉さん等も)時々現れた。 「お前、モテるなぁ」 「当たり前だろ?男前だからな。お前も男前なのに、なんで彼女いねぇの?」 リョウがあまりに屈託無く聞くので、チガヤはつい素直に答える。 「別れた」 「そう、で、今、その女は?」 「俺よりずっと上等な男と付き合ってる」 「へぇえ、切ないねぇ」 リョウはくぐもった笑いをしたが、 急に真顔になってけろりと宣った。 「今度、女の子、紹介してやるわ」 「いいよ…今は別に」 チガヤの脳裏になんとなく“弟の友達の妹”の顔が浮かんだが、慌てて書き消した。 「遠慮するなよ」 リョウはチガヤの背中をとんと叩いた。 結局、翌週末にリョウは知り合いの可愛い女の子を紹介してくれた。 スラッとした美人さんな上出るところは大きく、括れているところは括れた魅力的な肉体の持ち主だった。流行色に染め上げた髪の毛にロリータ系のファッション。しかし、奇抜な外見の割に古風で意外に奥ゆかしいタイプの女の子だった。 どんな好感触な人物でも、恋愛偏差値2のチガヤは尻込みする。 「とりあえず友達から」とのリョウの勧めでなんとなくグループ交際が始まる事になった。 しかし、仕事はめっぽう忙しく、オマケに夜勤専属となった。 「夜勤は1日おきに1日休めるからいい」 と言う者もいるが、油断すると昼夜逆転してしまうし、体を適度に休めておかないと疲労の蓄積は二倍だ。 知りあった女の子とのデートはお預けのまま一週間が過ぎて、夏も本番になってきた。 ~~~ 今日も夜勤明け、残業もしてくたくたの状態。ほうほうのていで帰宅し、リビングでひっくり返る。 「兄貴!」 モトヤの声で目が覚める。 「ぁが?」 「もう、寝たいなら布団で寝なよ!」 仰向けのチガヤの顔をモトヤとゴロウが覗いている。 「…今、何時?」 「もう夕方!もしかしてご飯も食べないで寝てた?」 「ん…」 「チガヤさん、顔色悪くない?」 「夜勤で忙しかった後は大抵顔色白いよ。元々色黒じゃないけど」 モトヤは冷蔵庫を覗く。 「空っぽじゃん!俺、買い物行って、ご飯作るわ」 「いい、俺、食わなくても死なない」 「ダメ!ぶっ倒れるわ。悪いけどお米研いでおいてくれる?」 「オーケー、お米、どこ?」 モトヤの後ろから女の子の声がする。 ミナミだ。 (また、兄妹二人して来てる…仲の良い兄妹…) 結局ミナミが米を研ぎ、男二人はオートバイ2人乗りで台風の様に買い出しにいった。 「んー、夕陽が黄色い」 「お疲れ様です。お水かお茶を飲みます?」 「…水」 ミナミは水道の目盛りを“浄水”にしてコップに水を汲み、台所の食卓テーブルに座るチガヤに差し出す。 「ありがと…久しぶりだな」 「ええ、お久しぶりです」 「看護学校、受かったんだろ?おめでとう」 「ありがとうございます…もう、ずいぶん前ですよ。今日で前期が終わりですから」 「そうか、道理で太陽が眩しいわけだ」 チガヤはカーテンを全開して空を見る。 「ごめんな、言いそびれていて」 と言った後、何がごめんなんだろう?と自問自答する。ミナミは妹でもなければ恋人でもない。 ミナミは手早く一升炊きの炊飯器に研いた米をセットする。 「さて、ふふふ、チガヤさん、凄い寝癖ですよ」 「いいよ、今日はもう外出ないし」 「床で寝てたから体痛く無いですか?」 「別に…」 ミナミは実弥の向かいに座る。 チガヤはミナミをまじまじと見てしまう。 そして目が合う。 「あのさ、なんか欲しいもんある?」 「へ?」 「合格祝い…」 時期はとうに過ぎているし、あげる筋合いも無い。 チガヤはなんでこんな言葉が自分の口からこぼれ出たのか自分でも不明だ。 「あ、ありがとうございます」 ミナミは急に赤くなってもじもじとする。 「悪ィ突然言っても思い浮かばないよな…」 「こ、今度のお休みに一緒に選ぶってのはどうでしょうか?」 「へぇ?」 「あの、例えばですよ。例えば」 真っ赤になって手をブンブンと振っている。 この娘は何を考えているのか? 「お前がそれでいいなら」 「お休み、いつです?」 「直近は明日」 「じゃあ、明日…2人の秘密ですよお」 ミナミは小指を差し出すから、チガヤは反射的にそれに絡める。 「ふふふふ」 笑顔が眩しいのは夕方の西陽のせいだけではないだろう。 ~~~ なんで自分は妹でもなければ恋人でもない、友達と言うには微妙なポジションの女の子と一緒に海に向かう電車に乗っているのだろう? しかも数年前子供時代とはいえ、一悶着あった子と。 今はなぜだか一つのiPod、一つのイヤフォンをシェアしてる。 今日のミナミはクリーム色のセットアップに踵の低いサンダルを履いている。 大きなトートバッグには何が入っているのだろうか? 「なんですかね?これ?聞いたことありますけど…どんな曲が入っているんです?」 「そうだなァ、お前さんの世代には懐メロになるだろうけどなァ」 「うふふ、チガヤさん、オジサンみたい」 ミナミは上機嫌でニコニコしている。 「車の中だったらこの曲、一緒に歌えますねぇ」 「知っている曲?」 「夏の定番でしょう?知ってますよ」 「そう」 「好きと言って~」 「え?」 「こういう歌でしょう?」 「…まぁな」 ミナミは手を合わせて「きゃー」と小さく言って喜んでる。 いつも電車の中では見るともなしにスマホをいじくっているけど、画面の中より生身のミナミの方が余程面白い。 まもなく駅につき、駅から暫し歩いて砂浜に着いた。 今日はチガヤも七分丈の麻のパンツにサンダルを履いていたので、二人で砂浜に降りる。 「わぁー海が青いですよ。空も青い」 こんなこ汚い海で喜んじゃうなんて、全く女の子は可愛い。 ミナミはサンダルを脱いでさくさくと波打ち際へ走り、チガヤは追いかける。 「うわっ、ワカメが浮いてる!ビニール袋?」 「これはクラゲだろ?」 「キクラゲだったら高級食材なのに」 「キクラゲは海で採れねぇよ」 「…バカだって思ったでしょ?」 「別に」 チガヤは既に笑っている。 「私がバカだって前から知ってるでしょ?」 「バカでもいいよ別に。バカ嫌いじゃないから」 チガヤは砂浜の小石を拾い上げ波の上を滑らす。 隣を見るとミナミの顔が赤い。 「へ?」 「何でもないです。チガヤさんこっち」 ミナミはトートバックから出したビニールシートを広げてチガヤに座るように促す。 「私、サンドイッチ作ってきたんです」 「へえ」 ミナミが両手に持ったサンドイッチをチガヤに渡そうとしたその時だった。 トンビが右の上空からふわりと舞って降り、チガヤの右手からサンドイッチをさらっていった。 「きゃあ!やだ、とられたっ」 左手のサンドイッチも左から降りるトンビが狙っている。 「勿体ないけど投げろ」 「えー?!」 チガヤはミナミの背中を押して上肢を低くさせ、左手からサンドイッチを奪ってトンビに投げた。 低く迂回したトンビはサンドイッチが投げられた方向へ飛んでいく。 「トンビが弁当盗んでいくって本当だったんだな」 「…折角作ったのに…」 おまけに晴れていた空もじわりと曇ってきた。 「雨、降りそうじゃね?」 「え?」 二人は立ち上がりビニールシートを片付け、トートバックに納めた途端に雨が落ち始めた。 取り敢えず走って土産物屋の軒先で雨宿りする。 「…直ぐに受け取らないからとられちゃうんだ…自分から渡しちゃうし…」 ミナミはぶつぶつと呟く。 「なに?サンドイッチのこと?」 真夏の雨は温い空気を醸し出し、二人で空を見る。 「すげェ雨…」 「…もう、帰りますか?」 ミナミは自分のサンダルの爪先を見る。今日の為にペディキュアが塗ってある。 「あっちのカフェまで走るぞ!」 「へ?」 チガヤはミナミの方を見て手を握る。二人は土産物屋の向かいにあるカフェへ走った。 「チガヤさん!」 「はははっ、濡れる、濡れる!泳いでるみたい」 二人して笑ってしまう。 濡れたままカフェに入ると、問答無用で屋外バルコニースペースへ通される。 風に煽られた雨が少々体に当たるが、ひさしに落ちる雨の音が心地よい。 「風が温いのが救いだな、寒かったら風邪を引く」 「うん…」 チガヤはメニューを広げる。 「好きなもん頼めよ…マカデミアアイス載せパンケーキ…おやつか?」 「こっちのメニューに海鮮丼とかしらす丼が有りますよ」 ミナミは別のメニューを広げる。 二人で海鮮丼としらす丼を食べて食後のお茶を飲んでいると、雨が上がってきた。 「スコールだったんだァ」 「虹が出るかも」 二人で空を見上げる。 「チガヤさん、ありがとうございます」 「え?」 「私、高校生の時、チガヤさんと海に行くのが夢だったんです」 「そう…海なら彼氏と行けば良かったんじゃないか?」 「あはは、彼とは別れちゃった。だから、気晴らしも兼ねて連れてきてくれて良かった」 ミナミは自傷気味に笑う。 「また夢が叶ってしまった」 「そりゃあ良かった…満足した?」 「うーん、この、パンケーキが食べられれば、まあ、満足かな?」 実弥は笑いながらパンケーキを注文してくれる。 厚く焼かれたパンケーキにマカデミアナッツ入りのアイスが載せられている、ナイフでザクザク切って二人でシェアする。 「おいしーですぅ」 蕩けそうな笑顔でパンケーキを頬張っている“妹の友達”を見ていると不思議な気持ちになってくる。 落ち着かないのに落ち着くみたいな…。 「あ、虹!」 「本当だ」 雲間に虹が架かる。 二人でバルコニーの手すりに前のめりになって眺める。 「満足しました…」 「そう、良かった」 チガヤはふともう一度ミナミの手を握りたくなった。 俺で良ければいつでも海に連れていくから。 その言葉を実弥は言い出すタイミングを狙う。 「ねえ、チガヤさん…」 ミナミが指を伸ばしチガヤの小指に自分の人差し指をつける。 チチチチチチ チチチチチチ 急にチガヤの持っている業務用ガラケーが鳴る。 「あ、病院からだ。悪ィ」 チガヤはピッチを持ってテーブルを離れる。 一人残されたミナミは見るともなしにテーブルに置き去りにされたチガヤのスマホを見る。 SNSのポップアップがピロンと浮かぶ。 「?」 凄い可愛い女の子のアイコン画像が浮かび、 ~いつ会える?楽しみにしてます♪~ と、メッセージが浮かんだ。 もちろん、先日、リョウがチガヤに紹介した女の子からである。 「彼女…いるんじゃん」 ミナミはふぅッとため息をついて、薄くなっていく虹をみる。 「そりゃ、彼女いるでしょう。チガヤさん素敵だし。今日はフェイク妹との遠足だもんね」 チガヤは暫くして戻ってきた。 「ごめん、ごめん。悪ィけど、今日も夜勤に来いって。同僚が食中毒になった」 「そうですか。じゃあ帰りましょうか?」 「いや、まだ…」 「昨日、夜勤明けだったんでしょ?連直なら体休めておかないと…今日の遠足、楽しかったです」 「遠足?」 「はい!遠足、みたいなものでしょう?」 「雨、降っちゃったけどな」 「いいですよ。虹が見えたから」 「そうだな」 二人はカフェを出て帰りの電車に乗る。 「俺、お前に何もやんなかったけど良かったのか?」 「…大丈夫。満足しました。今日、楽しかったです。トンビにお弁当とられちゃったし、雨降ったけど、それも特典として」 ミナミは眉を下げて笑う。 「良かった」 「チガヤさん。最近、どうですか?」 「夜勤まみれだし、研修も有るからいっぱいいっぱいだな」 「そうなんだ…ごめんなさい。貴重な休日を私のために」 「俺が好き好んで出掛けたんだから、気にする必要ねぇよ」 「…ありがとうございます…」 「…また、どっか行くか?」 チガヤは、ミナミの顔を見ないで小さく呟いてみる。 そして、そっと頭を撫でようと至極さりげなく手を伸ばす。 ミナミは体をずらし、チガヤの手を避ける。 「あ、駅に着きました!今日はありがとうございました!」 「あっ…」 「今日はもう解散しませんか?これからお仕事なのに疲れちゃうし。ありがとうございました」 「え?」 駅の改札でミナミはチガヤに頭を下げる。 チガヤは狐に摘ままれたような感覚を覚えたが、ミナミに次の言葉を掛ける間もなく彼女の乗るバスがやって来た。 ミナミは手を振ってバスに乗る。 バスは帰路を走り、ミナミはポロポロと我慢していた涙を流す。 高校を卒業したんだもの、向かい合って欲しかった。でも、彼女がいるなんて考えていなかった。 でも、そりゃあいるでしょう。自分だってこの間まで彼氏がいたのだから。 ~~~ チガヤは病院に着いて白衣に着替えると猛烈に腹が立ってきた。 自分に。 なんで次に繋がる気の利いた言葉一つ言えなかったのだろうか? 「ああ、訳わかんね」 自分の不甲斐なさと恋愛偏差値の低さを呪う。 でも今日、ミナミに甘い言葉を掛けてしまうのは彼氏と別れたばかりの隙を突くようで、卑怯な気がした。 しかし、今日のあの海辺で彼女の心を揺さぶらなかったので、もう次はまわって来ないのではないか? 「俺の方がバカだ…」 実弥のスマホがなる。 「あ、結構、メッセージ来てるじゃん」 直ぐに、リョウから紹介された女の子のメッセージに気がつく。 ~いつ会えるか楽しみにしています♪~ ~皆でスィーツビュッフェにいきませんか?凄く食べるけど引かないで下さいね~ と続いて、リョウからは ~スィーツビュッフェ、強制参加!~ とメッセージが入っていた。どうも彼女は皆に同じメッセージを送ったらしい。 チガヤはとりあえず、悩むことを中断した。 ~~~ 新しい彼女(仮)はとても可愛かった。 チガヤが実は憧れていた和菓子のバイキングやB級グルメの食べ歩きなども彼女は喜んで付き合ってくれた。(元カノは上品すぎて"カツ丼山盛り"など話題にも出せなかった)そしてチガヤよりも沢山食べた。 祭り好きのリョウに誘われ二人もリョウの彼女や友達連中と彼の車で海に繰り出したり、食べ放題飲み放題の宴会をして盛り上がったりした。 彼女(仮)はアパレル系のデザインをしていて、「服と食べ物で給料が吹っ飛ぶ」と朗らかに言った。 嫌味な所が全く無くておしゃれで大食いで素敵な女の子だった。 しかし、交際の決定打の無いまま、その日は突然やってくる。 「嫌いになったわけじゃないの。でも、もっと好きな人が出来たの」 (あ、またか) でも、チガヤはそんな事は分かっていた。 彼女の事は可愛いと思っていたし、尊敬出来る所が沢山ある素晴らしいひとだった。 もちろん確かに好きだった。 しかし、元カノの言葉を借りれば、多分"同じ好き"ではなかったのだ。 ~~~ ある牧歌的な春の日にチガヤはモトヤと二人とラーメンを食べている。 「遠慮せずに食えよ」 「わーい、いただきます」 「あ、そうだ、この前ゴロウとミナミに会ってさ、ミナミ、学校の実習で病院に行くんだって」 「俺んとこじゃねェだろ?」 「兄貴の勤め先だよ」 「へえ、世間狭っ」 ミナミと言う名前を聞いただけでドキっとする自分が情けない。 「ミナミさあ、新しい彼が出来てからまた奇麗になったんだ」 モトヤは、心なしか少しだけ蕩けるように言う。 「へえ、あいつ、モテるな」 チガヤは出来るだけさりげなく答える。 「俺、ミナミは兄貴の事が好きなんだと思っていたんだけどさ」 モトヤの一言にチガヤはムセる。 「もう!塩ラーメンに胡椒とお酢入れすぎ!」 モトヤは笑うが、弟の鋭さにチガヤは笑えない。 「で、今度はどんな男?」 チガヤは平静を装って聞く。 「あー、バイト先の社員だって。何だかぼーっとした感じの人」 「ぼーっとって太ってんのか?」 チガヤは無理して笑う。 「全然。むしろ細くて筋肉質。背が高い。そんで、目がキリッとしててかっこ良い…あ、兄貴と同じ年だ」 (聞かなきゃ良かった) 多分その男とはどんな知り合い方をしても仲良くできない。 「あ、チャーシュー残してる。貰っていい?」 モトヤがチガヤのラーメン丼に手を伸ばした。 ~~~ 「あー、俺、バカじゃないか?」 「なぁに?今、気が付いたの?」 病院の屋上でチガヤはリョウに打ち明ける。 「脳ミソ入っているかレントゲン撮ってみっか?CTにする?」 「るせっ」 「また女の子、紹介しようか?」 「しばらく女の子と付き合う資格がない」 「じゃあ、男に走るか?」 「そんな度胸はない」 「今日は随分と素直だねえ、チガヤちゃん」 リョウは喫っていたタバコを缶コーヒーの空き缶に捨てる。 「安心しろよ。男の八割はバカだから、お前だけじゃない」 「じゃあ、残りの二割は?」 「大バカだ」 「けッ」 チガヤは自分の爪先を見てから首を上げて空を見る。 「今までダメだったなら、同じ轍踏まないようにすればいいんじゃね?大体お前、女の子に対してギアがローなんだよ」 「ロー?」 「ここぞと言うときは直ぐにハイに切り替えないと、置いていかれるぞ?」 「ちっ、もう、遅れっぱなしだァ」 チガヤは吐き捨てる。 「これからエンジンフル回転で追い付きやがれ…それよりさ、研修の学生来てるじゃん?」 「…ああ」 「内科に可愛い子が来ているんだよね」 チガヤは嫌な予感がする。 「ロングヘアーで睫が長くてたれ目。背が低い」 リョウはミナミに似た特徴をジェスチャーする。 ますます嫌な予感がする。 「ふぅん」 チガヤは思い切り興味の無い振りをする。リョウは意地悪く笑い彼の表情を伺う。 「そんで彼女、私、立川さんの知り合いなんですって言ってた」 「ミナミがそんな事を言ったか?」 「言うわけないじゃん。へえ、あの子、ミナミって言うんだ」 「あ…」 「お知り合い?それとも?」 「弟の友達の妹だァ」 「そいつは複雑。そんだけの間柄?」 リョウはチガヤを自分の深い瞳で追い詰める。 「まぁいいや、可愛い子だから、一緒に焼肉、行きたいなって思ってたんだ」 「…もう声かけたのかよ?」 チガヤの声は低い。 「なんだその言い方。ひとの事をチャラ男みたいに」 「卯の花さん」 屋上の扉が開いて、研修に来ている学生の女の子がリョウに声をかける。 実習用の白衣を着たミナミだ。 「スマホ、ディスクに置きっぱなしでしたよ」 「あーい」 リョウは小走りでミナミに駆け寄る。 そして、親しげに小さい声でお話して笑い、ミナミの肩をぽんぽんと叩いた。 リョウがスマホを持って出て行ってしまうと、ミナミはチガヤに近付く。 「チガヤさんお久しぶりです」 「実習来てンだ?、頑張ってるな」 初めて見るミナミの白衣は眩しい。 しかし、なんで白衣下のストッキングは変な色が指定なんだろ? 「ここの病院に就職希望なのか?」 「まだ考えてます」 「よしておけよ、馬車馬みたいにこき使われるぜ。俺は奨学金奴隷だけどよ」 「ふふふふ」 ミナミは距離を取りながら顎を引いて笑う。 「お前、うちの白衣似合うな」 「えへ、ありがとうございます」 「…さっき、卯の花とどんな話したんだ?」 「気になりますか?」 「…まあな」 「私が妹みたいだから?」 「ちっ、実習生に手ェ出して首になったヤツがいるんだよ」 「卯の花さんの御心配?」 ミナミは口元に手を当てて再びくすりと笑う。 「あのね、今度、ご飯食べに行こうって誘われました」 「やっぱり」 「で、私は行った方がいいですか?ねえ、お兄ちゃん?」 ミナミは悪戯っぽく聞く。 「お前が行きたいなら行けよ」 チガヤは心配している態度と裏腹な台詞を言い放つが、 「でも、お前が卯の花と出かけるなら俺も絶対に付いて行くから」 「へ?」 「焼肉だろうが焼鳥だろうが」 チガヤはミナミにずんずんと近付く。 そして、彼女の頭をスッと撫でた。 「実習、頑張れよ」 ミナミはきょとんとする。 ギアはローからハイに切り替わる。 ~~~ チガヤは病院の近くに部屋を借りた。 夜勤明けのどろどろの体で電車に乗って帰るのが苦痛になったのと、家族と生活時間帯の違う自分を家族に心配させないためである。 取り壊し寸前の木造なのを抜かせばなかなか気の利いた物件で、日当たり良く、バストイレ別で六畳畳のワンルーム。小さい台所と猫の額のようなベランダが付いていた。おまけに角部屋で隣は空き部屋だった。 なので、 「寝に帰るだけだから」 と、即決した。 早く奨学金を還して、一番下の弟が高校に入学したらちゃんとしたマンションに移ろう。 チガヤはそう決めていた。 夏が終わろうとしているが連日暑い日が続く。 残暑の西日は容赦なく実弥に照りつける。 「抜かった…」 内覧したのが午前中だったので、午後の日差しは想定外だった。 今日も今日とて夜勤明けでシャワーを浴び、タンクトップとパンイチのまま布団も敷かず畳の上でひっくり返っていた。 「今、何時・・・」 干からびた独り言がまろびでる。 「もう五時近いですよ」 「そう…え?」 チガヤはガバリと起き上がる。 頭の近くにミナミが座っている。 「へ?なんでいるんだ」 「顔に畳の跡がついていますよ」 「あっ…」 実弥は急いで周囲を確認すると、タンクトップとパンイチの自分になぜかタオルケットが掛けられていた。 「モトヤさんが掛けたんです」 「モトヤと来たのか?」 「ええ、今、部屋があまりに暑いから、アイスと、今日の夕飯買いに行かれました」 ミナミは自分の横に置かれたハーフカットのスイカを指す。 「ああ、ありがとう」 「おすそ分けなんですけど、モトヤさんが、兄貴にも食わせたいからって一緒にバイクで来たの」 「そう…悪いけど俺、服着るから、向こう向いてくんない?」 「すいません」 ミナミは正座したまま、くるりと後ろを向いた。 ノースリーブと短パンのセットアップに髪の毛をポニーテールに上げている。 チガヤの目にすらりとした彼女の襟足が見える。 チガヤは腰にタオルケットを巻き付けたまま、ミナミの背中に抱きついた。 「な、何するんですか?」 ミナミは意外にも低い声で言う。 「告白」 「…なんで?彼女さんに悪いと思わないんですか?」 「彼女なんかいないし」 「…」 「お前はいつも自己始動、自己完結だ。たまには俺の話をじっくり聞けよ」 チガヤは腕に力を込める。 チラリと見えるミナミの耳は徐々に赤くなる。 「覚えているか?お前と前に公園で話し、した時」 「ええ…あの時、私、チガヤさんにタックルしちゃって」 「好きになってくれて、まだ好きでいてくれて…だけど…って言ったその続きを今、言わせろ」 「うん」 「今はまだ働き始めたばっかりで自分に自信がないけど、待ってろ。落ち着いたらちゃんと付き合おう」 「…遅いよ」 「分かってる。でも、言いたかったんだ」 「…彼女いたくせに」 「自分だって色んなヤツと付き合ってたじゃねぇか」 夏の終わりを惜しむ蝉の鳴き声がする。 開け放しの窓からぬるい風が入ってくる。 ミナミの耳の裏から汗が流れ、チガヤの鼻腔を擽る。 「こっち向けよ」 「いや」 「お前の顔が見たい」 「だめ」 「なんで」 「振り向いたら、だめになっちゃう…」 ミナミは小刻みに震える。 「だめになったモンは俺が何とかしてやるから…」 「私、彼がいる」 「無理に裏切れとか言わねぇよ」 チガヤは真実を言えば落胆したが年上の余裕でそれを隠し、ゆっくりとミナミの肩に巻き付けた腕を引き剥がした。 しかし、言うべき事は今言わないと全ての意味が無くなってしまう。 「俺の方がずっとずっとお前の事、好きで好きでしかたなかったんだよ、くそが!」 「遅いよ!バカ!」 ミナミは体を捻り、実弥の胸元に飛び込む。 実弥はバランスを崩し畳に倒れる。 「女に押し倒されたの初めて」 「よかったじゃないですか?初めてが私で」 ミナミの前髪がチガヤの顎を擽る。 チガヤはミナミに押し潰されながら、彼女のポニーテールの尻尾に触れた。 ~~~ 残暑がいつまでも続いた後、秋は駆け足で過ぎ去り、季節はいつの間にか突然冬になる。 そして気がつくと師走になっている。 いつもの屋上で夜勤前のリョウとチガヤはどうでもいい話をして業務前の緊張をほぐす。 「俺さ、お前の暗い所が結構好きなんだけどな、最近はブルー通り越して群青色じゃね?」 「…否定しない」 「元気出せよ。また、女の子集めて合コンやってあげますわ」 「だから、暫く女の子はいいって」 リョウはタバコをふかし、チガヤはコーヒーを飲む。 「も一回連絡してみたらぁ?」 「未練がましい真似はしたくねぇし」 「ふーん、あ、立川、こっち向いて」 「?」 リョウはチガヤに頬を寄せるとスマホでチガヤも入れて自撮りした。 「立川はブルーですっと、送信」 「おい、誰に送ったんだよ!」 「赤井ミナミしか居ないじゃん?」 「なんで、いとも簡単にメッセージ送れるんだよ?!」 「さてねぇ?」 リョウは海外俳優が拳銃をしまうスピードでスマホをポケットに納めた。 結局、あの残暑の日、ミナミはチガヤを押し倒したまましばらくじっとしていた。 残暑の熱気がこもり、ヤシの木の下でぐるぐると回り溶けてバターになってしまう虎のように汗がたらたらと流れお互いの体温が混じり合う。 ようよう躰を話すとミナミは赤い顔で額を拭い、 「帰るね」 とだけ言ってふうふうと呼吸を整えた。 「ああ」 実弥はタオルケットを落とし、窓辺に脱ぎ捨てていたジーパンをカチャカチャと身に着けた。 「送っていく」 「大丈夫です。モトヤ君帰ってきちゃうよ。それに私、一人になりたい」 そしてミナミを玄関口まで送ってから会っていない。 ~~~ 明け方の有閑は眠たくなる。 時刻は午前4時。 実弥は夜勤仲間と眠気醒ましのコーヒーを飲みながら、病棟で新聞配達のカブの音を聞く。 「今日は平和だったねぇ」 「救急車一台も来なかった」 「さびいから早く家帰って風呂入りたい」 カルテに記録を書き眠気と戦っているが、緊張感は拭えない。 こういう“凪”の時間に限って急患がやってくるのだ。 案の定患者搬入のコールが鳴る。 「どこ?」 「整形じゃないって。内科?外科?腹痛?食中毒?」 患者が運び込まれる。 暫くして、チガヤのガラケーが鳴る。リョウからだ。 「何?」 「今、盲腸の患者のCT撮ったんだけどな」 「あ?」 「取り敢えず、ソコんちの兄貴がドクターと話し合ってるから、落ち着いてたら聞きに来たら?」 「こっちはこっちで忙しいんだよ」 「そう、緊急手術 になるんじゃない?癒着もしてるし」 「癒着かァ」 「大変だね。ミナミちゃん」 「え!?」 チガヤは同僚に「時間の掛かるトイレに行って来る!」と言い残して内科の診察室へ急いだ。 診察室のドアが突然開いてゴロウが出てくる。 顔は涙でどろどろ。 「実弥さん!妹は助かりますか?」 「盲腸だろ?まず大丈夫だ。ちょっと縫合の痕が残るかも知んないけど」 「…ミナミ、お嫁に行けなくなります…」 「大した痕にならねぇよ。手術の痕がどうこうなんて言う男は俺がぶっ飛ばしてやるわ」 ゴロウはへとへとと診察室前のソファーに崩れ落ちる。 「ミナミ、勉強し過ぎなんです。お腹痛いのも我慢して…」 「なっちまったモンはしかたねぇな。うちはドクターもナースも俺を抜かして優秀だから安心しろ」 「チガヤさんは手術室に入らないんですか?」 「俺は科が違うから…っていうか知ってるやつに妹の躰見られるの嫌だろ?」 「はい!もしチガヤさんがミナミの身体を見たら瞬きの回数だけぶん殴ります!」 チガヤは笑ってゴロウの頭を撫で、自分の持ち場へ戻った。 ~~~ 結局ミナミは一週間近く入院することになった。 もう食事も始まって翌日大部屋に移るとのことだから、チガヤは夜勤の合間にこっそりとミナミの見舞いに来た。 明るい時間帯より少しばかり暗いほうがお互いの表情が見えなくって良いだろう。 しかし、ミナミは病室に居なかった。 持ち主の留守番をするスマホがベッドサイドに鎮座していた。チガヤは仕方なしに病室を出た。 残されたミナミのスマホにゴロウからのメッセージがポップアップされる。 その、ロック画面に映っていたのはこの前リョウがミナミに送信したチガヤと一緒の自撮りだった。 「卯ノ花ならミナミのいる場所を知ってるのだろうか?」 チガヤは考えあぐねるが、直接聞くのは嫌すぎる。 奴が屋上でタバコを喫っていると賭けをして、リョウへ偶然を装いさりげなく聞く作戦を立てた。 しかし、屋上にはリョウではない人物が待っていた。 「ミナミ?」 髪の毛を三つ編みにして点滴に繋がれ、病院のダサいパジャマの上にダウンジャケットをひっかけたミナミがそこにいて夜景と星を見ていた。 「見つかっちゃった」 ミナミはチガヤの方を向く。 「患者さんは屋上に来ちゃいけないんだぞ」 「いいじゃないですか。せっかく卯ノ花さんが屋上の鍵を貸してくれたんだし、それと私、チガヤさんと星を眺めるのが夢だったんですから」 …また卯ノ花…チガヤは苦笑する。 「こんな明るい所で見える星なんかたかがしれてらァ」 「じゃあ、きれいな星が見えるところにいきたいなあ」 「行きてェなら彼氏と行って来いよ」 「別れた」 「へ?」 「あはは」 ミナミはから笑いをして、もう一度外の方を向く。 「…もしかして、俺のせい?」 随分とうぬぼれた台詞が出たものだが、一回飛び出した言葉は引っ込められない。 「そうだよ。全部全部チガヤさんのせい。責任取ってくださいね。ダメになっちゃった」 ミナミもケロリと答える。 「…」 「噓です。ご心配なく…別れたのは本当だけど、自分で決めたことだから」 「そう…」 実弥はどんな言葉を掛けていいかわからない。ただ、禰豆子の気持ちが解れて自分に向いてくるまで待つことだけは瞬時に決意した。 今までたくさん待ったのだからあと少しばかり待ってもバチは当たらない。 「チガヤさん、覚えてますか?私、中学生の時にちゃんと大人になってからまた告白するって言ったの」 「ああ」 「だから…」 ミナミはふぅっと白い息をつき。 「試験が終わってから、もう一度告白していいですか?」 「だめだ」 「…そうですか」 ミナミは眉を下げて苦笑する。 「俺の方から、今、もう一回告白するから、お前からはだめだ」 「…」 ミナミは大きなタレ目を更に大きくさせて息を飲む。 「聞きたくないなら、出直すけど。いくら何でも早すぎるか?」 「ううん、聞かせて」 チガヤはミナミの目を見る。 「お前の事好きだから、ずっと好きだから、ちゃんと付き合って欲しい」 「ありがとうございます…」 ミナミはチガヤに抱きつきそうになる。 「私もチガヤさんが好き…」 「だめだ」 「はっ?!なぜ?!」 「じゃなくて、白衣って結構不潔なんだよ。入院患者さんにベタベタすんのはご法度!」 「そうですか…」 ミナミは露骨にしょんぼりする。 チガヤは笑って、腰に下げたアルコールジェルで手指を消毒しミナミの髪を撫でて耳と顔に触れる。 そして逡巡したが、遠慮がちに頬と唇に触れるだけのキスを落とした。 「チガヤさん…もっと顔を寄せて…」 「ん…」 実弥が再びからだを低くしたら、忽ちに彼の開けられていた首もとを更に開き、鎖骨の上の柔らかい皮膚を噛んで内出血させた。 「やったな!」 「えへへっ」 「もう!」 チガヤはミナミの髪を再び撫でてぎゅうっと両手で頬を挟んだ。 そして、今度は遠慮のない口付けを落した。 ~~~ 時刻は昼間の13時を過ぎていた。 ミナミはカレーの匂いで目を覚ます。 「チガヤさん…」 「起きた?腹減ってる?」 チガヤはミナミが寝ているこたつからほんの5.6歩の所に有るおもちゃみたいな台所で、カレーを作っていた。 ガスのスイッチを消す。 「ん、寝ちゃった…」 「寝れるときに寝ておけよ」 「ん…」 時刻は既に午後の二時を回ろうとしていた。 二人はこたつで向かい合ってカレーを食べる。 「立川家のカレーは美味しいですね」 「この前お前が作ってくれた赤井ん家のカレーも美味かったよ」 今日は兄貴に嘘をついて泊まっていってくれるのだろうか?何にもない部屋だけど、ミナミが居るだけで楽しくて嬉しい。 「そういえばさお前が盲腸の時にゴロウが、俺がお前の躰を見たら“瞬きの数だけぶん殴る”って言ってた」 「じゃあ、チガヤさん。ギタッギタのボコッボコになっちゃいますねえ」 「なんか他人事だな」 「そんなことないです。ちゃんと国家試験受かって看護師になって、ギタギタのボコボコになったチガヤさんを看護しますよ」 二人して笑ってしまう。 お互い口に出さないが、 今後、10年も100年もこうして二人で向かい合っていたいなぁと思ってしまう。 「やっぱりお前に盗まれたな」 「なんですか?それ?」 「別に…こっちのこと」 「…何をおっしゃいますやら」 ミナミはスプーンを置く。 「先に盗んだのはチガヤさんの方ですよ」
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