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駅の北口を出ると、雨がしとしと降っていた。ロータリーの左側にはタクシーが数台停車し、右側にはいくつかのバスの停留所が並んでいる。そのうちのひとつの停留所へ狙いを定め、忌一は足早にそこへ向かった。そして目的地の書かれた路線地図をチェックし始める。
「昔世話になったことのある寺なんだけど、今の時期なら凄くいいものが見れるんだ」
市内を巡るバスで十五分ほど揺られると、北方に連なる山々が随分近くまで見えてくる。停留所名は『久縁寺前』。山が近いせいか、駅前周辺の喧噪が嘘のように閑静な田舎の風景へと変貌していた。
相変わらず小雨がぱらつく中、忌一は特に気にする様子もなく、停留所から真っすぐ山へと伸びる道を進んだ。両脇は水田ばかりが広がり、非常に長閑だ。
やがて山の斜面に築かれた緩やかな石段が見えてくると、それをゆっくりと登り始める。この階段の先には、古そうな唐門が建っていた。
湿った石段に足を掛けた瞬間、漠然とした不安が襲う。思わず忌一を見上げるが、彼は全く気づいていない。暫くその場に留まっていると、後ろに続くはずの気配が無いことに気づいたのか、彼は立ち止まってこちらを振り返った。
「どうした?」
「いや、何だか怖くて……」
すると彼は石段を駆け降てきて、優しく私の手を握る。「大丈夫だよ」と微笑みながら。
いつの間にか小雨は止み、雨雲の隙間から一筋の光芒が差していた。ホッと胸をなでおろし、彼の手を強く握ってその石段を一歩、また一歩とゆっくり上る。
頂上の唐門まで辿り着くと、開かれていた門扉の先には手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
「うわぁ……」
真っすぐに伸びる石畳の正面には再び数段の石段があり、その両脇を青、紫、桃色を主とした紫陽花が生き生きと咲き乱れている。
「綺麗でしょ?」
自分が植えたわけでもないのに、忌一は得意げに鼻の下を人差し指で擦った。
石畳を真っすぐ進み、濃い桃色の紫陽花の前へ立つと、ゆっくりその半球体の花へ顔を近づける。花びらの所々に溜まった雫が、健気に光を反射していた。
「あっちにも沢山あるよ。行ってみようか」
更なる石段の向こうを指差して彼は言う。そこには大きな本堂の屋根が見えた。
その瞬間、またも足が大きく竦む。そんな私の手を再び握り、彼は石段の方へとゆっくり先導し始めた。
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