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いつものように出勤しようと、自宅の扉を開けた瞬間に立ち眩みがした。それでも無理やり歩いて最寄り駅までやってくると、電車がホームへ到着した途端、いきなり心臓がドクンッと異常な音と動きをする。そして急速に息苦しさを感じた。
動悸が収まるまで電車を見送るが、電車がホームへ滑り込む度に、再び強い動悸が襲った。何度目かの電車を見送った後、仕方がないのでとうとう会社へ連絡を入れた。受話器を取ったのは上司の男性だった。
「わかった。今日はもう来るな」
その日は大人しく帰宅して休んだが、翌朝も同じ状況が起こり、上司は「病院行ってこい! 治るまで出社すんな!!」と吐き捨てた。しかし私は「明日まで休ませてください。明後日には必ず出社しますので!」と食い下がる。
三日を休み、四日目の朝。少し早めに家を出て、ホームに溢れかえる乗車客の先頭で電車が来るのを待っていた。左手線路の先から、電車がやってくるのを今か今かと待ちわびる。
やがてホーム中に、自分の乗る予定の車両が到着を告げるアナウンスが響く。もう一度目を凝らして左手を見ると、遠くの方で二つの並んだライトが、徐々にこちらへ向かって大きく輝くのが見えた。
その瞬間、ふと想像してしまった。
この足を三歩前へ進めるだけで、もしかしたらこの動悸や息苦しさから解放されるのかもしれないと。一生続きそうなモラハラ上司の嫌がらせや恫喝を、もう二度と聞かなくても済むのかもしれないと。頑張っても頑張っても報われないこの虚しい現状から、解放されるのかもしれないと。
周囲の誰にも相談出来ないこの独りぼっちでつまらない世の中から、抜け出せるのかもしれないと――
轟音と暴風を吐き出しながら、電車が定刻通りにホームへ滑り込もうとしていた。それを耳や肌で感じながら、私の足が前へと進み……
「死んで楽になる、というのは大きな勘違いじゃ」
足元からのしわがれた声で一気に我に返った。そして縁側で胡坐をかくその小さな御仁を見つめる。
「確かに人の肉体は滅びて無にはなるが、自殺者の念は苦しみが強すぎて、往々にしてこの世に留まり続ける。最期の瞬間をずっと繰り返してな」
(最期の瞬間を……ずっと繰り返す?)
すると忌一は立ち上がり、呆然と立ち尽くす私に真正面から向き合った。
「八年前に俺が声をかけた時も、君は電車が来る度に線路へ身を投げてた。今日も同じことを繰り返そうとしてたから、たまらず声をかけたんだ」
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