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阿久津とは付き合っていないというのに、キスをしてしまった仲だ。
俳優である阿久津が、女優とのキスシーンの練習に付き合って欲しいと、椎名に言ってきたのは何ヶ月も前のクリスマスイブの夜。
密かに阿久津を想っている保育士の椎名にとって、その出来事は棚ぼただった。
人気絶頂期の俳優と、付き合えるわけがないと諦めていたのに、キスができたのだ。しかも触れるだけの軽いキスだけではなく、勢いに任せて舌まで入れて。
あの日のことを思うと、いまだに胸がドキドキしてしまう。だけど、それまでだ。
なんの進展もなく今に至る。所詮、阿久津からしてみたら、ただの練習だったわけで…。
人間、諦めが肝心だ、と思いながらも阿久津と会えばついつい、意識してしまう。かえって生殺しのような目に遭っている。それでも告白するような度胸はない。
目尻の泣き黒子も、テレビではあまりみない笑顔も、好きなのに。
これから阿久津に恋人が出来て、それを知った時、自分は素直にきっと祝福できそうにない。そう思いながら、椎名はため息をつくことが多くなった。
「しのぶセンセエ、今日もはあ、って言ってる〜」
園児たちにそう言われて椎名が思わず苦笑いする。子供達はよくみてるなあ、と思わず感心していたら…
「はあ、ってしたら、いいことが逃げるってママが言ってたよお」
そう言われてさらに笑ってしまった。
(子供達に心配されるようじゃ、重傷だな)
『はあ?今日もダメなのか』
スマホの向こうで阿久津が落胆したような、呆れたような声を出す。
椎名はここ最近、阿久津の食事や飲み会の誘いを断っていた。こうやってだんだんと距離を置いていく作戦に椎名は出たのだ。
『他の人と言ってきなよ、今からは人脈作っておかないとさあ〜』
だが阿久津もなかなか、しぶとい。
『俺は志信と行きたいの。知ってんだろ、俺にあんまり友達いないって』
キスの出来事があって数週間後くらいから、阿久津は椎名を名前で呼ぶようになっていた。
それは友人が少ないと言っていた阿久津が、自分を友人と思ってくれた証である。椎名は初めてそれを純粋に喜んでいたのだが……今では名前を呼ばれることが辛い。友人なのだ、と現実が突き刺さるから。
『とにかく、いつならいいんだよ。俺スケジュールを志信に合わせるから!』
(あああ、そんなことしたらマネージャーの安倍さんに怒られるじゃないか)
『わ、わかったよ!行こう行こう!』
頑固な阿久津をなだめるには、一度会わないと無理だな、と椎名は悟った。
***
サングラスをしていても、かっこよさは滲みいでていて、周りにいた人たちがチラチラと阿久津を見ていた。
「……ごめん、待たせた」
待ち合わせ場所に十分前に到着して、阿久津を待っておこうとしていた椎名だったが、阿久津の方が先に到着していて、腕組みをして待っていたのだ。
サングラス越しに、椎名を見る。色の濃ゆいサングラスなので、どんな表情をしているかまでは分からない。
「久しぶりだな、早速行こう」
怒ってはいないようで、椎名はホッとする。確か今日は亜久津がオススメのしゃぶしゃぶ専門店に連れて行ってくれると言っていた。
(ここまできたなら、美味しいものを楽しもう)
椎名はそう思い、阿久津のあとを追った。
個室に通され、さすが芸能人様だな、と椎名が茶化すと亜久津がサングラスを外してムッとした顔を見せた。
「仕方ねえだろ、こんなとこしか教えてもらえねえんだから」
もともと阿久津は学生の頃から、外食を滅多にしなかった。その後、芸能界入りしたため、どんな店があるのかもあんまり知らないようだった。
口を尖らす阿久津に椎名が笑う。自分の前では芸能人ではない、阿久津志貴に戻るのだ。
(俺がいなくなったら、阿久津は誰の前で戻るんだろうか)
そんなことを考えると胸がチクリ、とした。
しゃぶしゃぶに舌鼓を打ちながら近況を話す。メールでもやり取りはしているのだが、やはり顔を付け合わせて話をするのは格別。酒も入って二人はすっかり上機嫌になっていた。
「へえ、今度はあの芸人の番組出るのか。おまえバラエティ苦手だろ」
「そうだよ。だからどうやってバックレようか、考えてる」
「ダメじゃん、それ」
椎名の言葉に、はははと笑う阿久津。初めて会った時のぶっきらぼうな顔をもう思い出せないくらい、椎名の前では笑顔ばかりだ。
「番宣だから、仕方ないよなあ」
阿久津がそう言うと、椎名がお茶を飲みながら言う。
「主演だもんな、次のドラマ。また、チェックしておくよ」
そう笑ったが、実際には見ない。以前キスの練習をした、佐伯ユキとのドラマだけしか見ていないのだ。今回もまた恋愛ドラマと聞いて、見る気になれなかった。
「志信、ちゃんと見てくれるの?」
赤い顔をして、亜久津がそう言うので、椎名が一瞬驚いた。
「…あったりまえだろ。ちょっとトイレ行ってくる」
立ち上がり、襖を開けて椎名は個室を出た。
(なんであんなこと言ってきたんだろう)
興味なさそうに見えてしまったのだろうか、それなら悪かったなあ、と頭を掻きながらトイレに向かった。
個室に戻ると、阿久津はテーブルに顔をつけて、うつ伏せになって寝ていた。
あまりに警戒心のない顔をしているものだから椎名は思わず笑ってしまった。
「おい、起きろ。阿久津」
阿久津の体を揺さぶると、ん? と目をこすりながら椎名をじっと見た。眠たそうにしたその目がとろんとしていて、椎名は思わず生唾を飲んだ。妙に色っぽく感じたからだ。
「風邪引くぞ。もう帰るか?」
「…やだ、まだいる」
「でも眠いんだろ。明日も仕事だし」
「なあ志信。前みたいに、また練習させてよ」
「は?何の?」
「キスの、練習」
その言葉を聞いて椎名はギョッとした。また練習台に使おうとしていることにも驚いたし、今回のドラマもまたキスシーンがあるのか、と胸が痛んだ。
「…もうしないよ。前やったし、佐伯ユキとドラマの撮影、ちゃんと出来てただろ」
椎名は阿久津から目線を外し、体を離そうとしたが阿久津が椎名の腕を掴んだ。
「志信とキスしたい」
そう言うと阿久津は椎名の顔を引き寄せて、そのまま唇を重ねてきた。
「…!」
柔らかい感触に驚き、思わず口をはなす。
「お、おまえっ、何やって」
「ごめんな、俺さあ、多分志信が好き」
「は、はあ〜〜?」
掴んだ手をぎゅっと握る阿久津。ふとその手が震えていることに椎名が気がついた。
(え……酔っ払った勢いとかじゃなくて、本当に?)
さすがにすぐには信じられなくて椎名は黙り込んでしまう。阿久津も黙ってしまい気まずい空気が個室に流れた。
「…好きっても、お前、俺なんかのどこがいいんだよ。ふ、普通に話してただけだろ」
ようやくのことで、椎名が上ずった声で阿久津に聞くとうなだれていた亜久津が顔を上げてすぐ答える。
「分かんねえ。でも何だろう、キスしたいって思ったし、…最近お前が会ってくれないのめっちゃ応えたし…、今日会ったらすっごく楽しくてさ」
「…友達としてじゃなくて?」
「友達とキスしたいなんて、思わないだろ」
阿久津は軽く椎名を睨む。その顔が赤いのは、アルコールだけ原因ではないようだ。椎名が思わずほっぺたをつねる。
「いて」
「何やってんの」
「バーカ」
は、と阿久津がキョトンとしていると、椎名は自分から阿久津にキスする。そのキスは阿久津が望んだ、深いキス。
「んっ…ふ…」
口を開けて、舌をからめると二人の体がゾクゾクと粟立つ。その間に阿久津の耳たぶを椎名の指がゆっくり触れていく。
「はあ……」
蕩けるようなキスを終えて、阿久津は満足そうに微笑む。その顔に椎名が赤くなる。
(本当に、これ、俺がもらっていいのか?)
そう思いながらも、椎名は自分の口から告げた。
「俺は、お前が友たちになってくれって携帯番号くれた時から、好きだったよ」
その言葉に阿久津は驚く。
「何だ、お前の方が惚れてたんだな」
「……クッソ」
勝ち誇ったような阿久津の笑顔。それはもう、友達としての笑顔ではない。
出来立てほやほやの恋人は、嬉しそうに手元の酒を飲み干した。
会計を済ませて店を出ると、二人の間に沈黙が流れた。恋人になったはいいけど…
「ええと、この後、どうしようか」
いつもであればここで解散だ。今日、このまま別れてしまうのはあまりにも…
「俺の部屋、行こうよ」
椎名の手を握る阿久津。少し照れたような顔をして。
「なあ、俺が好きとか、本当に気のせいじゃないのか?」
「しつこい!志信!」
部屋に向かう途中、何度も椎名に言われて阿久津がうんざりする。
「気のせいなら部屋に誘わねぇし、こんなにならねぇよっ」
突然握っていた椎名の手を自分の股間に当てた。椎名は驚きつつもその手で感じた。
「勃ってる」
「だから!電車移動できないからっ、タクる!」
真っ赤になる阿久津。今をときめく人気俳優が夜遅いとはいえ、街中で勃たせて男に触らせるなんて。
椎名は可笑しくなって、笑い始めた。それを見て阿久津も笑う。
「早く部屋に行こうぜ」
恋人となった二人のお話は、また今度。
おわり
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