第十話 すめすめ

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鹿児島に来たのは初めてで、千葉から車で来たので2日間かかった。 新宿のローン会社で働いていたのだが、そこの上司が独立し、故郷の鹿児島で会社を立ち上げたため、付いてきたのだった。 その頃は家庭は全くうまくいっておらず、年明けには離婚して、この2月にはここに来る予定にしていた。 「よかよか」 とニコニコと笑うのが印象的だった。 その元上司は体格が良く、おおらかなタイプだったので長く付き合っていけると思った。 その会社には4名のスタッフが入社した。課長の私、次長の高木さん、新卒女子の水島さん、それと金田さんだ。 金田さんは50歳を過ぎて、地元銀行を退職し、このローン会社に転職してきた。性格は温厚だが、いわゆる人のいいタイプで仕事が出来るほうではなかった。 「杉本課長」 と、初めて私を呼ぶ時はとても萎縮した様子だった。ビクビクとした印象で覇気が無い印象だった。 働き始めてしばらくすると、店舗オープンのセレモニーを開催することになった。 現場は次長の高木さんが仕切ることになり、彼は朝からバタバタとしていた。 私は司会と資料作りを担当していたが、金田さんは高木次長から雑務を頼まれていた。 「金田さん、人数分の飲み物を買ってきてください。これで領収書を」 「わかりました」 金田さんはその一万円札を受け取るとすぐに出て行った。セレモニーは14時からであるが12時過ぎには準備は出来ていて、みんな一息付いたタイミングだった。 「えっ」 金田さんが帰り、高木次長に袋を見せると高木次長は不思議そうな顔をした。 「コーヒー?しかも砂糖入り?なんでこれなの?」 この事柄が、金田さんに使えないヤツという印象を植えつけた。 「こういう時はお茶でしょう」 高木次長の言うのも最もだった。金田さんは慌てたように、袋を閉め、また買い出しに出かけたようだった。 それから、ここの社長、元上司の佐村さんがセレモニー前に、みんなを集めてミーティングを始めた。 「杉本課長は司会頼むね。金田さんは駐車場の誘導係、水島くんはお茶出しを」 「はい」 金田さんは小さくそう言うとそのままそこを離れトイレに行ったようだった。戻ると 「車は順番に入れれば良いんでしょうかね」 私に訊いてきた。 「ええ。そうですね」 私は小さいながらもセレモニーの司会という慣れない指示に少し苛立っていた。それに引き換え、駐車場の誘導なんて難しい仕事じゃない。いちいち訊いてくるほどのことじゃない、と思ったのだ。 彼は50歳になるまで、前職では役職は無かったようで、重要な仕事は任されたことがなかったようだ。そして案の定、それから幾度となく、彼は仕事でミスをした。 その度に高木次長は金田さんを強く叱責していた。しかし店舗をオープンしたばかりで、慣れないことが多い中、新卒女子の水島さんはあまり気が利かず、私は営業のためいつも外に出ていたため、高木次長もストレスもやむを得ないと感じていた。 ある日の夕方、営業から戻ると高木次長と水島さんがパソコンに向かい、じっと身を固まるようにしていた。 何かあったな すぐにそう察知した。 このローン会社というのはいわゆるお金を貸し出しことを業務としている。当然、重要な個人的情報を扱う。これにはかなりの神経を要し、書類などは耐火金庫に保管し、ダイアルロックしているほどだ。 金田さんはその金庫の中に収めるべき書類を持ち出したままにすることが多い。それを高木次長に注意されたようだ。 私はそのことを聞いて、特に驚きはしなかった。当たり前だと認識していたし、注意されてもやむを得ない。 鞄を椅子の上に置くと、パソコンも立ち上げずにトイレに向かった。 従業員用トイレは一度事務所から出て、給湯室を通り、一番奥にある。 「すめすめ」 という、人の声が聞こえてきた。男子トイレの扉の中からだった。それは私がトイレの扉を開けると止んだ。 用を足して、トイレから出てくると、事務所では高木次長と社長が顔を歪めて、難しそうな話をしていた。私が机に戻ると二人は話を止めた。 しばらくすると金田さんが戻った。 「お疲れさまです。今日はいかがでしたか」 金田さんは私にそう訊いてきた。私はこの業務を東京でも行っていた。しかも新宿という、ライバル店が多いエリアでかなり苦労していたため、それなりに経験もあり、課長という立場であったため、彼にそう訊かれてイラっとした。 「金田さんはどうだったですか」 すぐに切り返して、そう言った。 歳は上だが、明らかに自分より仕事が出来ない、立場が下の人間に、私の成果を話すつもりはなかった。 「はい、私は」 彼はそう言いながら、行動報告のようなことを始めた。しかし戻ってきたばかりで、机に向かったばかりだ。 「後でいいです」 空気の読めない、その行動に苛ついて話を遮った。彼はしばらく私の顔を見ていたが、私はそのまま無視して仕事を始めた。 彼は無口だった。というより話す相手ががいなかったのだろう。 たまに遅くまで残業をしていると、高木次長が飲みに誘ってきた。しかしあかさまにも金田さんは誘わず、二人で行くことが多かった。 その日は休日だったが、翌日までに本部に提出しなければならない審査書類があり、昼過ぎに出勤した。 事務所のドアを開けると、金田さんも出勤しているようで机の上に鞄と鍵が置かれていた。 私はそのままトイレに向かった。昨日、高木次長と飲み過ぎたせいか、トイレが近くなっていた。扉を開けると何か小さな人の声がした。 「すめすめ」 そんなように聞こえたが、金田さんが扉の向こうで独り言を言っているのだろうと気にも留めず、すぐに事務所に戻り仕事を始めた。 15分くらい経ったであろうか、金田さんがなかなか戻って来ないことが気になり、仕事の手を止め、トイレに向かった。 「金田さん、大丈夫ですか」 トイレの扉の前で話しかけるように言った。しかし反応は無い。しかもトイレの電気が消えている。 その時、ふっと、さっきトイレに来た時のことを思い出した。その時も電気は点いていなかった。奇妙に感じたが、それより、もし金田さんがこの中で倒れていたらと大変なことだと考えたのだ。 「金田さん」 さっきより少し声を上げてみたが反応は無い。 「開けますよ」 そう言って銀色の冷たいドアノブに手を付けた。ゆっくりと引くと、水色のタイルの床が見えてきた。 誰もいない。 金田さんはトイレには居なかったのだ。事務所に鞄と鍵はあるが姿が無い。 「食事にでも行ったのか」 そう思い、机に戻り、ノートパソコンを開けた。その時、隣の机の上にある、鞄と鍵がきちんと揃えてあるように感じた。 ローン審査手続きは書類が多く、借りたい人が記入する箇所も多い。そこに間違いがあると、再度記入を依頼したり、書類を送ってもらったりと面倒なため、細かい箇所までチェックしなければなならない。 作業を始めて1時間くらいが経っていた。救急車の大きなサイレンが鳴り、事務所の隣りのマンションで止まった。 手を止め、玄関越しに隣のマンションを見ると、救急車や消防車、パトカーも数台止まっており、警官が大きなブルーシートを持ち出して、マンションの玄関周りを囲い出した。 事件だな そう思い、事務所の中に戻ると、入ってきた裏口からゆっくりと外に出た。  いつもテレビで見る光景が目の前にあり、どんな事件が起こったのだろうと期待していた。 マンションの入り口が近くまで寄って行こうとすると、一人の警官に制止され、やむなく事務所に戻った。その現場はしばらくの間は騒然としていたが数十分後には数人の警官とパトカーだけになっていた。 トルートルー 隣に置いてある、金田さんの鞄の中から携帯電話の音がした。この音は彼の業務用携帯電話の物だ。 留守番電話になっていないのであろうか、かなり長く鳴っていた。 しばらくすると、今度は事務所の電話が鳴った。電話番号通知には登録されていない番号であり、その日の営業休みであったため、出るのに迷ったが、こちらも留守番電話になっておらず、やむを得ず出た。 「かごしまローンさん?」 やけにつっけんどうな言い方だった。 「金田健二さんはそちらの従業員さんですか?」 「ええ、そうですが、今日は休みですが」 私は金田さんの鞄と鍵を見た。 「あー、そうなんですね。ちょっとお願いがあるのですが」 「はー、失礼ですが」 「鹿児島港署の佐々木と言います」 それから少し話したいとのことだったが、何やら個人情報に関わることであったため 「電話では言えません。やはり個人情報があるので」 そう話すと、その警察官はこれから事務所に来るという。やむを得ず、私は待つことにした。 しばらくすると、金田さんのことを考えた。 どこに行ったのだろう 昼食にしては長すぎる。携帯を鳴らそうとしたが、さっき鞄の中で鳴っていたことを思い出した。 鞄と携帯を置いたまま、どこへ ピンポン 店舗入口のインターホンが鳴った。事務所のドアを開けて、店舗入口のガラスを見ると、男が三人居て、一番前のスーツの男が、軽く会釈をするのが見えた。 「はい」 小さく返事をすると、逆光で眩しいドアに早足で近づいた。 「さっきの杉本さん?」 ドアを開けるといきなり名刺を出し、そう訊いてきた。 「ええ」 そう答えると、彼は後ろの二人に目配せをして、ゆっくりと入ってきた。私はその三人の勢いに、少し呆然としていた。 「あそこに座ってもいいかな」 初対面なのに敬語すら無いその男に苛立ったが、そのまま席へ案内した。他の二人は青い作業着に帽子、軍手とマスクを付けた状態で、その接客用ブースの横に立ったままだ。 「この二人は座りません」 私がその二人を見上げたを見たのか、刑事らしき男はそう言って、両手をテーブルの前に投げ出した。 「ああ、名刺」 そう言うと面倒くさそうにポケットから出した。 佐々木警部 と書いてあった。警察の名刺を見るのは初めてだったので、しばらく見入ってしまった。 「でね」 その警部は立っている警官にまた目くばせをした。警官が大きな黒い袋から取り出したのは黒い名刺ケースだった。その名刺ケースから取り出した名刺を見てビックリした。 金田健二 と書いてある。ウチの金田さんの名刺だった。 そして警部はそれを裏返した。そこに書かれていたのは 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね と延々と続く字だった。私は背中に電気が通る感覚に見舞われ、警部の顔をじっと見た。 「驚かれましたか?これはさきほど、隣のビルの植え込みに倒れていた人のポケットから出てきた物です」 「はい」 私の頭の中にはうつろな顔をした金田さんが浮かんだ。 「あと、免許証」 その免許証の写真を見た時、またゾッとした。 「この方、ここの従業員ですか?」 私は小さく頷いた。 警部の話ではこうだ。 1時間ほど前、隣のマンションの1階の住人から110番通報があった。その通報内容は ドンっという音がしてベランダに出てみると、玄関近くにスーツを着た男性が植え込みに頭を突っ込んで倒れている。体の状態が変で、動いていない。 とのことだった。 その警官たちは現場に急行し、検証を始めたところ、ポケットから名刺と免許証が出てきた。 「ちょっと、え、さっきのは金田さん」 私の不思議そうな顔に、そうだと確信しているかのような警部の顔だった。そして名刺の裏を指して 「こんなふうに書かれていると、事件の可能性もあるんでね」 確かにそう思った。本人の名刺ではあるが、死ね、という文字は尋常ではない。 「協力します」 思わず、そう言った。 「ありがとうございます。では鹿児島港署でお願いします。受付で私を呼んでください」 そう言うと、三人は足早に事務所を後にした。私は気が動転していたが、すぐに警察署に行かなければならない。まず店舗の鍵を閉めた。そのまま事務所に入り、ハッとした。 金田さんの机を見たのだ。 鞄と鍵、もうこれは遺品となったのだ。その時、金田さんが高木次長に叱責されている場面が頭に浮かんだ。金田さんは高木次長の前でじっとしたまま、うなだれている。その金田さんは何かをつぶやいている。高木次長には口元が見えないようにしている。 急に感覚が鋭くなった。 口元が見えた気がした。 「死ね」 そうだ、金田さんはそう言っていたのだ。いつも下を向いて何かをつぶやいているのはわかっていたが、興味はなく、気にもしていなかった。 「死ね死ね」 いつもそう言っていいたのだ。その時、トイレの中から聞こえてきた声も、それが何だかわかった。 金田さんだ。 しかもさっきまで、ここのトイレに居たのだ。 またぞっとした。あのつぶやくような声は 「死ね死ね」 だったのだ。私は怖くなったが、彼はマンションから飛び降りたと確信していた。 何かストレスを感じる度に 死ね死ね死ね と、つぶやいていたのだ。 トイレが気になった。私がこの事務所に来た時、まずトイレに行った。その時、金田さんはトイレに居たはずだ。つぶやく声が聞こえていたからだ。 ふー 大きく息を吐き、事務所のドアを開けて、給湯室の前に出た。その先にはトイレがある。 まさか と思ったが、ゆっくりドアを開けた。電気は消えている。しばらくは中には入らず、電気を点け、ドアノブを持ったまま、半分開いた状態にしていた。 奥の扉は開いている。少し安心した。私は何も無いことを確かめるために、ゆっくりと中に入り、その扉の奥を見た。 そして凍りついた。 その便器の横の仕切りの壁には無数の傷跡があったのだ。 そしてそれはカッターのような物で削ってあった。そこには 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね と刻まれていた。
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