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「ねぇ、覚えてる?」
包丁の音をリズム良く響かせながら朝食を作る妻は私に問いかけた。
居間でソファーに座りながら新聞を読んでいた私はちらりとカレンダーを横目で確認し、少し考えた後に答えた。
「もちろん覚えてるとも。今日は確か・・・結婚記念日だ。いくら忘れっぽい僕でもそれぐらいは覚えているよ。」
妻の包丁の音が止まる。間違えたのだろうか、それとも何かを待っているのか。不穏な空気を感じた私は思考を巡らす。
「そうだ。今日はちょうど僕も休みだし、ケーキでも買ってこようか。モンブラン、好きだろ?」
我ながら分かりやすいぐらいのご機嫌取りであったがこれぐらいの言葉しか思いつかなかった。新聞の内容は目を滑り、妻の返事を待ってみる。
「そう、結婚記念日。覚えてる?新婚旅行。」
私は再び過去の記憶を掘り起こしていく。結婚記念日は当たっていた、そして新婚旅行は・・・
「懐かしいね、ハワイに行ったんだ。結婚して二年後だ。新婚旅行に、って言ってたのに結婚資金だけでギリギリだったから辞めたんだよね。それでお互いの仕事が落ち着いて、お金も貯まった二年後に新婚旅行も兼ねていったんだ。」
私が答えると、妻は少し言葉を詰まらせ。そして次の質問をぶつけてきた。
「そう、懐かしいね。でもあの旅行もいろいろと大変だった。結構トラブルも続いたけど、それでも今となっては良い思い出よね。」
トラブルと言われていくつかの思い出がよみがえる。今となっては笑い話となることや、もしくはいまだに根に持たれているのかと不安になる出来事まで。
「まず飛行機が時間通りに飛ばなかったもんね、行く前から前途多難。それでも飛行機を待ちながら空港内のカフェでゆっくりお茶をしたのは楽しかったかな。」
なるべく良い思い出から話していこう、そう考えての話し出しだった。
「そんなこともあったね。」
少し寂しげな声で返ってきた妻の返事はそれだけだった。
そんなことも。
そう言ったって事は他の返事を望んでたって事だ。私は新婚旅行を一から順に思い出していく。
「ホテルはとても綺麗だったね。予約してた部屋が前日水周りの修理が始まってて、予定より一つグレードの高い部屋に泊まれたんだ。ホテルのベランダから眺める海はとても青くて、あの青と波立った白と太陽の輝きとのコントラストは実際に行かないと味わえない。感動すら覚えたよ。」
「そうだったね。」
「食事も良かった。君がパンケーキを食べたいからって町に行ったんだ。結局どこも行列で、仕方なく小さな店に入った。でもそれが正解で、そこで食べたガーリックシュリンプはいまだに一番おいしいと思えるほどだよ。」
「そう、とってもおいしかった。」
妻は返事をするが、声に覇気が見られない。明らかに気落ちしている様子だ。
私はさらに記憶を振り絞る。
「海で遊んだとき、僕は日焼け止めの塗りが甘くて首筋だけ赤く焼けちゃったよね。」
「そうね。」
「拳銃の試撃をしたときは僕だけがハシャいでて、君はとても退屈そうにしていたね。」
「そうだった。」
「君の写真がハワイにもあったよね、遺伝子科学の雑誌で特集を組まれたときの奴。思わず二人で立ち読みしちゃって、せっかくだからおみやげにってその店にあった五冊全部を買っていったんだ。」
「そう。」
妻の返事は全て素っ気ないものだ。他に覚えていることとなると悪い思い出、それも結構やっかいな奴だ。自分で言うのもイヤになるが再び反省しろという事なのかもしれない。
「あー、あの事については悪かったとは思ってる。君は先にお酒を飲んで寝てしまっていたし、僕も少しアルコールが入ってたんだ。だからバーで女性に誘われたとき、きっぱりと断れなかったんだ。確かに相手の部屋には行った。でもあの時も同じ弁明をしたように、彼女がシャワーに入っているとき徐々に酔いが醒めて、冷静になってきて、今置かれている状況が良くないことだと気づいたんだ。だから彼女がシャワーから出る前に、僕は部屋を出たんだ。」
「・・・。」
妻からは何の返事も無い、時折静かに涙をすするような。そんな音が聞こえた気がした。
「本当になにもしなかった。相手に指一本たりともふれてない。やましい事なんて無かったんだ。」
妻を慰めようと新聞を置いた。ソファーから立ち上がろうとしたが台所に妻の姿はなかった。
「他には何を覚えてるの?」
背後から妻の声がして驚いた。妻の顔からは大粒の涙がこぼれ、そして手には包丁が握られたままだった。
「お、落ち着いて。本当に何もしなかったんだ。他にはと言われても悪いことはコレだけで、後は君との楽しい思い出でいっぱいなんだ。日本に戻った後、時差ボケで二人とも遅刻しかけたことや。それ以降の結婚記念日は温泉巡りをしたことも、最初に草津、次の年が地獄谷、その次に下呂。君との思いでは全部覚えているよ。」
「そう、やっぱりそんなに覚えてるのね・・・」
妻は今にも崩れ落ちそうなほどに涙を流した。そして勢いそのまま私の首元に包丁を突き立てた。
痛み、熱さ、心臓のリズムに合わせて吹き出す血液の生暖かさ。思うところは色々とあったはずだが出てきた最後の言葉はとてもシンプルなものだった。
「なん・・・で・・・」
妻は涙を流したまま、慣れた手つきで包丁を洗い。血の付いたエプロンを漂白し、夫の死体をゴミ袋にまとめた。
「感情的になったら面倒って、毎回思っているのに。」
独り言のようにつぶやきながらソファーに付いた血を丁寧に拭っていく。
居間の奥から、白衣を着た男性が数人入ってくる。
「こちらは私たちで済ませておきます。ですから博士は再び研究に戻ってください。」
「ええ。でもせめて、ここだけでも。いつものようにここを全て一から作り直すとわかっていても、この掃除だけはさせて貰いたいの・・・」
泣きながら掃除を続ける彼女を止めれるものは誰も居なかった。
「今回こそはと思ったの。だって彼、自分で忘れっぽいって言ったのに・・・。」
何度も呟く博士を一人部屋に残し、白衣を着た男たちは再び居間の奥に戻っていった。
そして彼女には聞こえぬよう、小声で雑談を始めた。
「人は都合良く忘れていくもの。もし完璧に覚えているのならばそれは機械と同じ。博士の言い分はわかるけど、最愛の人を毎回処分するなんて出来るか?」
「俺には無理だな。人型の時点で厳しいよ、まして知った人の顔なんて・・・。」
壁には大きなガラスケース、そこには液体と人が入っている。人の大きさは成長途中でそれぞれだが共通した男性だ。この中は全てあの男。妻である博士が作り出した夫のクローンだ。
博士はいつも口癖のように言っている。
『忘れっぽいあの人が戻ってきますように。』と。
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