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それは一冊の本、ならぬ一パックのトイレットペーパーから始まった。令和2年コロナ元年?の気温も気持ちも、まだ春は遠い二月のこと、東京某所、スカイツリーが見える住宅街のコンビニで、昼間のドラックストアのマスク争奪戦争とはまったく様相の違う、静かな戦争だった。このご時世マスクに負けるとも劣らず貴重なトイレットペーパーが、最後の一パックとして深夜のコンビニエンスストアの片隅に鎮座しており、それに同時に手を伸ばした男と女がいた。まだ互いの名も知らぬ有本(ありもと) 伊織(いおり)(28歳・女)と水瀬(みなせ) 礼(れい)(26歳・男)は、両人マスクをつけたまま見つめ合い、微動だにせず、事態は膠着状態となった。本屋で一冊の本に同時に手を伸ばせば、それは運命の出会いだが、一人暮らしで最後のワンロールという危機的状況のなかで出会ったトイレットペーパーに、同時に手を伸ばしたら、戦争になる。時間にして数秒、しかし永遠のような静寂を、先に切り裂いたのは伊織のほうだった。伊織はこの数秒の間に、マスクを巡り、ドラックストアで騒ぎを起こして逮捕者が出たニュースを思い出し、自宅近くのこの場所で変な事件に巻き込まれるのだけは御免被るという思いが頭を駆け巡っていた。
「どうぞ……」
目をそらしながら小声で、しかもマスクをしているためさらにこもった声は、礼には届いていなかった。しかし伊織が手を差しだしているジェスチャーのおかげで、礼はトイレットペーパーを譲られたことを理解した。
「いやこっちこそ、どうぞ」
今度は礼が同じ仕草をして、マスクをしていてもよく通る声で譲った。しかし伊織は
「いや、大丈夫です」
と答え、
「え、でも……」
礼がまた譲ろうと言いかけた所で、伊織はまたも目を合わさずに「いいです、いいです」と礼に告げて、自分が手に持っているスープ春雨をレジに持って行った。
伊織がコンビニを出て住宅街を早足で歩いていると、後ろから駆けてくる足音が聞こえた。夜道で後ろから人が駆けてくる音は不吉な予感しかしないものだ。しかし敵に背を向けていてはもっと危険ではないかと、勝手に敵と認定して意を決し振り向いた所、さっきのコンビニでトイレットペーパーを譲った男性が、リュックを背負いトイレットペーパーのパックを手にして、笑っているような目の表情で、
「よかった、追いついた!」
と現れた。伊織は後ずさりしながら警戒心をあからさまに、
「な、なんですか……?」
と言い、礼はマスクをして走ったため息をゼイゼイ切らしながら、伊織の警戒心に気づかぬ様子で、トイレットペーパーを持ちながら
「これ……二人で、分けませんか?」
と提案した。
「え?」
警戒で緊張していた伊織は、思わぬ提案に虚を突かれて言葉が出なくなった。礼は持っていたトイレットペーパーのパックを、地面に置いてビニールを手で破ろうとしゃがんだ。
「ありがとうございます・・・・・・・・でもあなたが買ったんだし、大丈夫ですよ」
伊織が状況を理解して我に返り、再度遠慮すると
「いや、さっきコンビニで全然大丈夫な感じじゃなかったですよ?」
礼はパックからロールを取り出しながら、明るく言った。そして指を芯に突っ込んで両手に4ロールを手にして、
「じゃあ僕の分は取ったので、この袋の分をどうぞ」
「ありがとうございます……あっお金、支払います」
「いやもう両手ふさがってるし、いいです。大丈夫です!」
「え、でも……」
「今のはほんとに大丈夫な大丈夫!それじゃ!」
礼が快活に言い放つと後ろを向いて、むき出しのトイレットロールを両手にスタスタと歩き始めた。伊織はその様子を見ながら、マスクとトイレットペーパーを巡って不穏な空気になっているこのご時世に、深夜のコンビニエンスストアで突如始まったトイレットペーパー戦争が、平和的停戦?を迎えられたことに安堵した。
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