トイレットペーパー・ストーリー

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2  伊織は保険会社の経理部で勤務しており、日々請求書とExcel、数字と格闘していた。そこで起こったこのコロナ騒ぎ、日々の忙殺は車輪が火花を立てるがごとく加速度を増していた。 伊織が勤めている会社は、危機管理のために在宅勤務の拡充を図り、伊織の所属する経理部も何人かトライアルで導入した。しかしながら見切り発車もいい所で、それにまつわるトラブルは頻発しており、主にそのトラブルの解決に奔走するのは、トライアル本人の在宅勤務者ではなく出勤組の伊織だった。リモート接続するパソコンの配線を見たり、郵便物をPDF化したり、在宅勤務者宛の電話応対など、もともと暇ではない仕事にこれらの雑務が上乗せされて、世間と同じく社内は混沌を極めていた。それでここ二週間ほど、伊織は残業に追われる羽目になっていたのである。  定時17時半から2時間ほど過ぎたころ、ようやく他部署からの内線、メールが静かになり、雑務に目途がつき、伊織はコーヒーを飲みながら、ガラス張りのオフィスの外をぼんやりと眺めていた。自宅からはスカイツリーに近いが、オフィスからは東京タワーの赤い光が見える。伊織はそれを見るといつも、スカイツリーより東京タワーのほうが、より「東京」を象徴しているような気がしていた。大した理由ではないが、京都出身の伊織が小さいころに描いていた東京のイメージには、東京タワーがあったからだ。  伊織はコーヒーを飲みながら、ふと昨日のトイレットペーパーの君?のことを思い出した。マスクで顔はわからなかったが、そのつけているマスクが別の意味で印象的だった。 不織布が毛羽立ち、薄くなっていたのである。おそらく昨今のマスク不足で、使い捨てマスクを使い捨てずに洗っているのだろう。伊織は幸運なことに心配性の母、敏江が心配して一週間ほど前に、京都の実家から一人暮らしの伊織の元にマスクを送っていた。それに今日会社でも、当面の分として社員一人一人にマスクが配られたので、マスク難民にならずにすんだのだ。母はいつも伊織の二週分くらい先回りして、伊織の心配をしている。さすがに敏江もトイレットペーパーのことまで予見することはできなかったようだが、伊織にとってありがたくも重たい心配である。京都出身の伊織は、大学進学時に上京してきた。京都にも大学はたくさんあり、母には東京行きを反対されたが、実家の歯医者は兄が継ぐことになっていたのと、「いずれ伊織ちゃんはお嫁に行くし、それまでは自由にさせてあげなさいよ」という母の妹、伊織にとって叔母、典子が伊織の味方をして母を説得してくれたから東京の大学を受験することができた。敏江はしぶしぶ伊織の希望を認める代わりに、東京へ行くなら、一定以上の偏差値の大学への進学を求め、伊織も母を納得させるため猛勉強に励み、努力が実り早稲田大学に合格した。そのおかげか、就職も今の大手保険会社に決まり、今もまだ自由な暮らしを続けている。  しかし最近はその自由が前ほど心地よくないものになってきていることに、気づき始めてもいた。そんなことをぼんやり考えながら書類の数字をチェックしていると理屈に合わない数字が関数の計算結果として反映されており、急に現実に引き戻された。 「課長、在宅でやってもらったこの書類の数値がおかしいです」 伊織が、別の島に座って書類を眺めている課長の三島に報告すると 「え~?安島さんに頼んでた分だよね?明日朝の会議に使う資料なんだよな……」 課長の言葉尻に漂う無言の圧に負けて、 「今から修正しますね」 「ごめんね、有本さんのせいじゃないのに。」 「いいえ、私もこんな時間になって気づいたから仕方ないですよ」 在宅勤務は、紙出力ではなくPC画面だけでの作業になる、やはり画面だけのチェックは紙に比べてミスに気づきにくのではないかということに伊織は、薄々気づき始めていた。しかし今こんな時間にそんなことに気づいた所でどうにもならない。明日朝の会議に間に合わせるしかないのだ。結局伊織があの手この手でExcelの関数を検証し、おかしな数字が修正されたころには、21時を過ぎていた。  伊織は今日も時間泥棒に定時退社を盗まれ、疲れを背負って電車に乗り込み、ため息とともに最寄り駅に着いた。そして改札を出ようとすると、伊織の前の人が改札にひっかかり、その人物が反射的に後ろを振り向いた。    それが、トイレットペーパーの君との再会だった。  
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