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3
二度目に見つめ合った時間は短かった。でも確実に二人の目は、互いをとらえていた。
「すみません、あっ」
礼が伊織に気づいて読み込まなかったICカードをもう一度改札に読み込ませて、改札から出て伊織に向かって一礼し、伊織が改札から出てくるのを待った。伊織は改札から出て、礼に恐る恐る話しかけた。
「この間はどうも……ありがとうございました」
「こちらこそ、あれで足りました?4ロールしかなかったけど」
礼はこの前と同じく快活な調子だった。
「今のところは……でもまたどっかに探しに行かないとだけど」
伊織と礼はソーシャルディスタンスを空けて改札前から出た所で話していたが、礼が急に距離を詰めて伊織に近づいて囁くように話しかけた。
「あのコンビニ以外で、トイレットペーパーあるコンビニ見つけました」
「え?」
伊織が戸惑いながら答えると、
「あんまり目立たないコンビニだから、今もあると思うし、これから行きません?」
「あ、はい」
普段なら警戒心で絶対に応じないが、仕事の疲れと、今までの東京生活の平時と違う心労が、伊織の判断を狂わせた。
礼は伊織の前をずんずん歩き、二人は何も話さずに夜道を歩いた。いつもの駅からの帰り道と反対側の川沿いの道に出て、川からの冷たい風を受け、伊織はトイレットペーパーってこんなに探し求めるものだろうかと改めて疑問に思いながら、礼の後ろをついていった。マスクのせいで、白く吐いた息を見ることはできなかったが、冷え込みはきつく、早く建物に入りたくなる寒さだった。
10分ほど歩いて二人はコンビニに到着した。そこは川沿いの道から一本入った住宅街にあり、駅からも遠く、住宅街の中でもはずれのほうにあるため、5年ほどこの街に住んでいて、自分が今いる場所を把握はしているものの、伊織はここのコンビニの存在を今日まで知らずにいた。そこにはトイレットペーパーが複数並んでいた。複数あるにも関わらず、礼はそれを買おうとしなかったので伊織が
「せっかく来たのに、買わないんですか?」
と聞くと、
「俺はもう、午前中に買ったから大丈夫」
という返事に伊織は、自分のためにわざわざ案内してくれたことに驚き、
「わざわざ、すみません」
「何で謝るの?せっかく見つけたから誰かに教えたかった…んですよね」
礼は、いたずらっ子のような輝いた目をして言った。そして相変わらず礼のマスクが毛羽立っていることに、伊織は気が付いた。コンビニを出て、伊織は人目がないか確認してから、マスクが入ったビニールの包みを礼に差し出した。
「あのこれ、どうぞ」
「え?これ何?俺に?」
礼の怪訝な様子に、伊織は深く頷いて意思表示した。
「マスクじゃん!てかこんな今貴重なもんもらえないよ」
「たまたまもらったんです。あなたのマスク……何というか薄くなっていたから」
「洗って再利用してるんですよ。どこ行ってもマスク買えないからさ……ほんとにいいんですか?」
「はい、余ってますので」
伊織は冷静に落ち着いたトーンで応えた。
「ありがとうございます!この御恩は忘れません!……ていうかさ…ははは」
礼がこらえきれない様子で笑い出した。
「何か変ですか?」
「いや、すみません。トイレットペーパーがないのに、マスクは持ってるんだって思ったら、ちょっとおもしろかったから」
「そういえば、そうですね」
礼の言葉を受けて伊織も納得した様子で答えた。初対面の時に抱いていた警戒芯は、少し薄れていた。
「俺たち二人いてよかったですね。一人がトイレットペーパー、一人がマスクを見つけてきたわけじゃないですか」
「なんか……昔の物々交換みたいですね。ははは」
令和のこの時代に、アナログすぎる物々交換をしていることを、二人して笑った。
「次は何が買えなくなるんですかね?仕事あるし、昼間は店に並べないから不便ですよね」
伊織は笑いながら、世間話のつもりで話しかけた。そして話は思わぬ方向に進んでいった。
「マスク今ネットで2万とかしますもんね」
「すごい値段ですよね、びっくりしました……」
伊織が遠い目をしていると、礼が何かを思いついたように切り出した。
「あっところであの、今回みたいに二人いれば何とかなるんじゃないですか?」
「え?」
「二人なら、一人の行動範囲の倍でしょう?お互いに見つけたら連絡し合えばいいんじゃないですか?一人暮らしで仕事もあるし、俺も店に並ぶ暇ないので」
「なるほど……」
連絡先を教えていいものかと伊織が戸惑っていると、
「いきなりラインはあれだし、教えてもいいフリーメールアドレスとかありますか?」
「あ、それならあります」
「じゃあこのアドレスに空メール送ってもらえます?」
礼はメールアドレスが表示されたスマホを、伊織に渡した。伊織はそれを手に取り、礼のアドレスを自分のメール画面に慎重に打ち込んでいった。警戒心がなくなったわけではないが、これから何か買えなくなるたびに、心配性の母に物資を都合してもらうのは気が重かった。元々地元から離れた所で暮らしていることだけでも、母には大きな心配の種なのだ。その上最近のコロナの影響で、伊織の体調を気遣うラインが頻繁にくる。伊織は当たり障りなく「元気だよ」「大丈夫だよ」と返しているが、逆に体調を絶対崩せないというプレッシャーも感じていた。母の心配より、まったくの関係のない他人のほうが気楽に頼れるのはないかと考えながら、伊織はスマホの操作を続けた。
「水瀬 礼です」
「え?」
いきなりの自己紹介に伊織は、戸惑いながらスマホ画面から顔を上げた。
「あ、名前です。ちゃんと名乗ってなかったし」
「あ、はい、有本です。今空メール送りました」
伊織も名前を礼に告げ、スマホを礼に返した。
「これから、よろしく。有本さんにもらったマスクの分、見つけたらすぐ教えますし返しますね」
「いや、そんな気にしなくて大丈夫ですよ。しばらく何とかなるし」
「ほんとありがとうございます。もうマスクあと数枚だったので、助かりました。じゃあ俺こっちなんで帰ります。失礼します!」
礼は自分が進む方向を指して、小走りで去っていった。伊織は家まで送ると言われなかったことに少し安堵した。フリーメールぐらいなら何か起こっても、そのメールを使用しなければいいだけの話だが、家を知られてしまうのには抵抗があった。悪い人には見えないが、顔も半分しか知らず、まだ二度しか会っていない他人を信用する気にもなれないのが本音だ。
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