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「来週の両家顔合わせはしばらく見合わせよう」
「わかった。今はしょうがないよね」
「伊織は体調大丈夫?」
「うん、元気。悟は?」
「俺も大丈夫。また結婚の話は落ち着いたら仕切り直ししよ」
「そうだね、また状況落ち着いたら」
自宅に帰り、伊織は婚約者の向井(むかい) 悟(さとる)とラインで連絡しあった。伊織には京都に婚約者がいる。悟は歯科医である伊織の父親・晴彦の友人の息子で、昨年親伝いに紹介された。父同士はお互い歯科医で、悟も歯科医だった。お互いの娘と息子が独身だということがきっかけで、二人は紹介に至ったのだ。お見合いのようなものだが、親の同伴もなしでかしこまった形ではなく、指定されたカフェでお茶を飲んだのが最初の出会いだった。もちろんその頃はマスクもなく、遠距離ながらも帰省するタイミングを見つけては悟とデートを重ねていった。親からの紹介とはいえ、二人に結婚を強制するプレッシャーはなく、同学年ではないが同じ京都の高校出身で共通の話題もあり、自然と仲は深まった。伊織は自由な学生生活を過ごしたくて上京してきたが、ずっと東京で暮らす覚悟があるのか問われれば、それも違うような気がしていたときに悟と出会ったのだ。それから半年ほどで、悟から
「結婚についてどう思ってる?このまま進めてもいい?」
と打診があり、婚約に至ったのだ。この時の気持ちを何と言ったらいいのか、ずっとはまらなかったパズルのピースが、はまったときのような安堵感があった。伊織の両親も交際段階では二人の結婚への期待を、あまり表に出さなかったが、この報告をとても喜んだ。心配性の母・敏江も、結婚で伊織が京都に戻ってくることに、喜び以上に安心した表情を見せた。悟は自分の実家の歯科医院で歯科医として父親と働いていたが、伊織に「事務方は今働いてもらっている人がいるし、すぐに僕の家の歯科医の事務をやってほしいってわけじゃないから、主婦でも仕事でも好きにしてほしい」と家に入ることを強制してこなかった。伊織も悟とは話も合い、穏やかでいられることに愛情を感じていた。悟の歯科医院は京都の桂にあり大阪にも通勤圏内で、今の会社に希望を出して、新大阪の支社に転勤させてもらうことも可能で、悟とのより具体的な将来を見いだせた。決まるときは早いもので、渋滞のない高速道路のように結婚話の段取りは進んでいった。だがこのコロナでストップがかかった。伊織の家も悟の家も歯科医なので、今医院でコロナを出すわけにはいかないのだ。
伊織は進学で家を出てから、何人かと付き合った。悟の前に付き合っていた人とも24歳から2年ほど付き合い伊織は結婚を意識していたが、相手が仙台に転勤することになったことが転機になった。相手から積極的についてきてほしいと言われず、伊織も相手に結婚について切り出す勇気と情熱が持てなかった。あとから思えば、お互いそれぐらいの気持ちしかなかったということだ。伊織も相手も、自分の気持ちを伝えず、相手の出方ばかりを伺い、いつしかお互いの気持ちが見えなくなってしまい、自然と離れてしまった。別れた後、伊織はこのままずっと東京にいるのか迷いが生じていた。地元で暮らしていない人間は、いつも選択を突き付けられる。ずっと東京で暮らすのか、地元に帰るとしてもいつ帰るのか、生活はどうしていくのか、を。兄が歯科医院を継ぐのだから、ただ実家に帰るだけというのは帰りにくいと伊織は思っていた。悟との結婚はその問いに答えを出せるチャンスだと伊織は考えたのだ。
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