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4月に入り、緊急事態宣言が出て、伊織も本格的に在宅勤務が始まった。とはいえ、請求書などの書類仕事や押印が必要な業務は変わらずあり、課長と交代で週に二日くらいは出勤もしていた。経理部で子供がいる人たちは、保育園から登園自粛を求められたり、学校が休校のため在宅勤務で、新卒で配属された新人はリモート研修中なので、出社が必要な実務に関しては三島課長と伊織が中心となって進めていった。出社の日は忙しいが、在宅勤務の日はネット回線の混雑で入力作業が捗らないこともあり、少し時間を持て余し気味だった。テレビもSNSもコロナのニュースばかりで、伊織はすっかり見飽きてしまっていた。しかし、アドレスを交換した礼とのメールが、いい時間つぶしになった。伊織はまさか本当にメールが来るとは思っていなかった。連絡先を交換しても連絡をしないことはざらにあるからだ。礼からのメールは、最初は物資の目撃情報だけだったが、(この前はパスタのレトルトソースで、その前は一時品薄状態だったお米だった。) 次第に雑談が増えていっていた。礼はSEをやっており、今は在宅勤務が主らしい。礼のネット回線は伊織より、回線の混雑に強いらしく、仕事は順調そうだった。伊織が礼に渡して以来、スーパーやドラックストアで未だにマスクが見つからないようで、有本さんにまだ返せませんと律儀に報告してきた。それと反対に、悟に伊織の方から連絡しづらい状況だった。歯科医は当然在宅勤務などできず、休校中の子供たちの歯科治療や、このマスクの時期だからこその矯正の相談も多いらしく、感染対策をしながらの仕事で忙しいようだった。離れていると、コロナに対しての温度感がわからず、無難な事を書こうとして、適切なタイミングや言葉を探しあぐねた結果、伊織は連絡することが、次第に億劫になっていった。ほんの一か月前くらいの結婚の段取りを進めていた時には、感じたことのない躊躇だった。
そんな風に過ごしていたある日のこと、その日はマンションから一歩も外へ出ず、ずっとパソコンと部屋の壁を見ていた伊織は、その景色に飽き飽きして定時ぴったりに仕事を終えた。まだ4月の半ばで、窓を開けると寒いので締め切って仕事をしていたため、さらに閉塞感が増していた。視界を広げたいという半ば鬱屈のようなものを抱えて、伊織は部屋の窓を開けてベランダに出て深呼吸をした。久しぶりにマスクをせずに外へ出た解放感と、あまり高くないマンションの2階からでも、地上とは違う高さのある景色には、今の世の中には似つかわしくない平穏を感じさせた。しばらくぼんやりと夜空やそこに浮かぶ住宅の明かり、通りを眺めていると、見たことのあるシルエットが近づいてきたことに気が付いた。もうまったくの他人ではなくなった気安さと、ここ最近の人恋しさからか、伊織は考えるより先に、
「水瀬さん!」
と声を掛けた。礼はまさか上から声を掛けられたとは思わず、あたりを見回すが上は見てくれず、伊織が
「上です!ベランダからです」
と再度呼びかけると
「わっびっくりした!」
礼は驚きながら、足を止めた。そして二人は二階と地上の高さで、ベランダ越しに目線を交わした。礼は外なので、この前伊織が上げたマスクをしており、伊織はベランダなのでマスクなしの姿だった。
「あの、有本さんがくれたマスク助かってます!出勤のときに必要なんで」
「よかったです。でももうあんまりお礼を言わないでください。なんか心苦しいんで。私も水瀬さんからのスーパー情報助かってますよ」
「すみません。有本さんは、今日在宅勤務なんですか?在宅だとマスクしなくていいの楽ですよね」
二人は少し距離があるため、いつもより声を張って話していた。そのことに気づいた伊織は
「今日は在宅です。あっ私話すならマスクしなくちゃですよね、すみません」
「距離離れているので、大丈夫でしょ。もう今誰もいないし、俺もはずしていいかな?」
「どうぞ、人気もないし」
礼はおもむろにマスクを外して、スーツのポケットに無造作に突っ込んで伊織のほうを見上げて言った。
「なんか今初めてお互いの顔見ましたね。マスク外すのって、ちょっと恥ずかしいかも」
礼が恥ずかしそうに、でも正直に自分の思いを言うと、
「そう言えばそうですね・・・互いの顔も知らないで知り合うって考えてみれば、ちょっとおかしいですよね」
と、伊織も少し恥ずかしそうに答え、。
「ですね。何というか……ふつつかな顔ですが、よろしく」
礼の冗談に伊織は吹き出し、
「はははっ、ふつつかな顔ってどんな顔なんですか」
「ははっでも、「どうもイケメンです!」とも「ブサイクですみません……」と言われても困るでしょ?」
「確かに……じゃあ私も、ふつつかな顔ですが、よろしく。はははっ」
伊織が久しぶりに、口を開けて笑っていると、
「有本さんて、歯がきれいなんですね」
「ありがとうございます。私の実家、歯医者だから帰省したときにホワイトニングしてもらえるんですよね」
「すごい、いいなそれ。歯医者めんどくさいんですよね」
二人が取り留めのない話をしていると、伊織のスマートフォンの着信音がなった。それに伊織が反応してスマホを手に取ると、礼が
「あっ電話出てください!それじゃまた」
と告げてベランダ下から立ち去ろうと動き出し、同時に伊織も
「もしもし、悟?ごめん今ちょっと宅配業者さん来てて、すぐかけ直すから」
と電話の相手である悟に告げた。そして電話を切り、ベランダからやや身を乗り出すようにして
「ちょっと待って!」
と礼を呼び止めた。礼は振り返り、小走りでまた伊織のマンションのベランダの下の位置に戻ってきた。
「電話は?」
「電話は大丈夫。あの……おやすみなさいって言ってなかったから」
「ああ、うん……」
礼は伊織に具体的な用事以外の件で、呼び止められたことに少し驚いたようで、戸惑いながら、相槌しか返せずにただ伊織を見つめていた。そして伊織も、礼の真っすぐな目から目を離せずに二人は見つめ合った。
「なんか、変ですね…すみません。おやすみなさい」
伊織が我に返り、礼から視線を外し、伏し目がちに告げた。
「うん……おやすみなさい」
礼は変わらず伊織を見つめながら告げ、静かに去っていった。まだ寒いはずの春の夜風は、その日はなぜか暖かく感じ、名残惜しいような夜だった。伊織は部屋に戻り悟に電話をかけ直したが、悟は電話に出なかった。しかしそのことが気にならないくらい、伊織は礼との会話を頭の中で反芻していた。
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