ひと夏の失せ物

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栄也(えいや)、よう来たねぇ」  バス停から更に20分程歩いて、ようやく目的地である時子(ときこ)さんの家にたどり着いた。  時子さんは87歳と高齢だが、畑仕事をしていて足腰は強く元気で、今の若者の考え方も理解しようとしてくれる心の広い人だ。  時子さんと出会ったのは3ヶ月ほど前のことで、知人に会うため東京へやって来て、道に迷ってしまった彼女に、僕が道案内をしてやったことがきっかけだった。  その道中で僕が街の風景画を書いているを知ると、それを見せろとしつこくせがんできた。見るまで歩くのを再開しそうにないので、渋々見せたところ、たいそう気に入ってくれたらしく、家の周りの絵をぜひ書いて欲しいと今回家に招待してくれたのだ。 「ここまで遠くて疲れたじゃろう?」  時子さんは微笑みをたずさえて、冷たい麦茶を2つガラスのコップに入れると、1つを僕の前に差し出した。 「ありがとうございます」  僕はそう言って差し出された麦茶を1口飲んだ。香ばしい香りが鼻の奥からすーっと抜けていく。 「それにしても6月だって言うのに涼しいですね。東京はもう朝だって真夏のような暑さですよ」 「そうかい、都会は暑いんだねぇ。ここは人も建物も少ないし、自然ばーっかりだから、都会より涼しいのかもしれないねぇ」  時子さんは麦茶をすすりながら穏やかに笑った。  今日から1週間、ここで和やかな田舎の生活を送ることができる。  この時の僕の胸は、温かく弾んでいた。
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