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「……ねぇ、覚えてる?」
そんなことを問いかけながら。
ふらふらと。おぼつかない足取りでこちらへと歩いてくる姿は異様、としか言いようがない。
周りの人たちはその異様さに身動きが取れないでいた。
それもそうだろう。下手に動いて目を付けられたらたまったものじゃない。私が部外者だったのなら同じように息を殺してことの成り行きを眺めていたはずだ。
「俺との約束覚えてないはずないよね。……ありがとうって、私も好きだって言ってくれたんだからさぁ!!」
突然声を荒らげた目の前の男に、後ろに立っている誰かが小さく悲鳴をあげた。
かわいそうに。
こんな場所に居合わせてしまったメンバーたちに心底同情する。
「黙ってないでなんとか言えよっ!」
「ひっ」
勢いよく上げられた男の顔にまた誰かの悲鳴が聞こえる。
以前とは比べ物にならないくらいこけてしまった頬に血走った目。おまけに手にサバイバルナイフを装備したのだ。これで怯えない人間がいたらそれこそ悲鳴をあげたい。いや。いっそ、その豪胆さを賞賛すべきだろうか。
場違いなことを考えていたら男が一気に私との距離を詰めてきた。
手を伸ばせば簡単に触れられる距離。握手会の時と同じ距離。
普段差し出されるのは他の人より少し体温の低い手。だけど今、差し出されるのは温かみなんてこれっぽっちもない無機物だ。
それに少しだけ、寂しさを感じてしまって。
だけど顔には残念ながら私の感情は反映されない。
私にのしかかる過剰なまでの肩書が、素直に感情を出すことを許さなかった。
見る男の瞳に映るのはいつものように笑う、アイドルとしての私。こんな時ですらこびりついて剥がれない虚像の顔だ。
綺麗なだけで、無機物みたいな見慣れた顔。
それを不快に感じたのは私だけではなかったらしい。目の前の男も忌々しいと吐き捨ててきそうなほど顔を歪めていた。
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