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「洋子さん、俺のことを覚えていますよね?」
いいえ、知らないわ……こんなにいい男、一度会ったら絶対に覚えてるもの。
雀が歌い、白い光が斜めに差す朝の玄関に、若い男が立っている。上下を合わせた白のスーツが眩しい。日焼けした小麦色の肌は、ツヤツヤとして健康そう。猫っ毛なのかパーマなのか、短い髪は緩くうねっている。横に流した前髪の下で、切れ長の目が私を見ている。
つぶさに見ても、やっぱり知らない。はじめましての間違いでは?
そもそも、20代の知り合いなんかいない。私、88歳よ。
でも、彼は私の名前を知っている。どうしてかしら。ああ、そうか。きっと主人の関係だ。友人の孫とか、勤めていた会社の部下だとか、そういった関係の人だろう。主人の知り合いにしては華やかすぎる感じもするが……
「生前は主人がお世話になりました。よかったら、仏壇にお線香をあげていってください」
お辞儀をしてから改めて男の顔を見る。眉間にしわを寄せて口をへの字に曲げていた。
「嘘でしょう、洋子さん。俺ですよ、俺」
「人違いでは……」
「まさか、お忘れになったわけではないでしょう?」
男は膝をついて私の手を取り、甲にキスをした。なっ、なっ、なにをっ!
「俺は夢です」
男は私を見上げ、切れ長の目を優しく細める。
「あなたの少女時代の夢です。夢そのものです。15歳の洋子さんが抱いていた夢ですよ」
私は顔が熱くなるのを感じた。心臓の音が大きく、速く鳴っている。
身に覚えはあった。お見合いで適当な人と結婚するなど考えてもいなかった10代の頃、私は夢の中で恋愛をしていた。
「思い出しましたね?」
声は艶やかな低音。耳から入って心臓をくすぐるような声。
70年も昔の妄想が、突然によみがえった。頭の中で何度もデートをした。マリリン・モンローのように広がるスカートを履いて、銀座の目抜き通りを二人で歩く。千疋屋でフルーツポンチも食べた。コーヒーしか飲まないあなたに、私が果物を一つあげるの。あーん、と。ああ、そんな甘やかな妄想、結婚と同時に消えたと思っていたのに!
15歳の私が妄想で作り上げた恋人が、目の前にいる。恥ずかしいけれど、ニヤニヤと口元がだらしなくなるのを堪えられなかった。
「今日は夢を叶えに行きましょう」
男は私の手を握ったまま立ち上がった。
「待って、どこに行くの?」
「夢の中で何度もデートしたでしょう? 洋子さんが大好きな千疋屋に行くのです!」
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