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第8話「二年生に」
久美子は学校のグラウンドから一番近い、女子トイレに入った。なんか胸が苦しい。個室に入ると、Tシャツの中に手を入れ、背中に回し、ブラジャーのホック外してみる。猛烈な解放感に、はぁぁと大きく息を吐いた。
「やっぱ、おっぱいがおっきくなってたんだ。新しいブラ買わなきゃなー。でもめんどくさい…」
久美子は中学二年生になった。背は一センチ伸び、体重は三キロ増え、Eカップになった。
「おーい、久美子ー!怪我したー!」
「はーい!ちょっと待ってー!」
グラウンドから優大の呼ぶ声が聞こえる。久美子は両手を背中に回し、ブラのホックを止めようとする。
「え、あれ?」
うまくはまらない。ブラのホック部分を前に回し、横に三つホックが並ぶうちの、一番外側のホックをはめようとしていることを確認する。再度挑戦するも、はまらない。
「ふんっ!」
はめる瞬間背伸びをしたり、息を止めたり、腰を曲げたりしても、はまらない。
「え、うそ…」
「久美子ー!!救急箱!」
「はーい!」
しつこく呼ぶ声に、久美子は最後の力を振り絞り、ホックを取り付ける。なんとか留まったようだが、キツい。胸とブラの間に手を挿し込み、整えるもキツい。ワンサイズ大きいのに換えよう。ジャージを着るとグラウンドに向かった。
新学期が始まり、野球部も後輩たちが入部し、随分とにぎやかくなった。五月も後半、そろそろ慣れてきたころだろうか。
「久美子せんぱーい!転んで擦りむいちゃいました!!」
「はいはい、お待たせー」
怪我したと、腕を見せてくる後輩を座らせる。救急箱を開き、慣れた手つきで手当てを始めた。
「久美子先輩、今日はサイドテールなんですね。かわいいですよ」
「はいはい。もー、片岡は言いすぎて、信憑性が感じられないのー」
片岡は今年入った一年だ。チャラチャラしてて、女の子が大好きなやつだ。他の子に比べ、少し背が高く、襟足の長い髪をしている。
「また、髪の毛、明るくなってきた」
「黒染めしてるんですけどねー。すぐ抜けちゃうんですよ!」
「今度染めるときやってあげるよ」
「やった!手、ありがとうございました!」
手当てが終わり、お礼を言うと、グラウンドへ帰っていく。中学から野球を始めたわりに、打つのは得意なやつだった。その代わり、守備がボロボロだが…。
広げた救急箱を片づけていると、また久美子を呼ぶ声がした。
「久美子せんぱーい!」
「久美子せんぱい!」
「はいはい」
「久美子せんぱい!ボール!」
「え?」
最後の方の久美子を呼ぶ声は注意を促す声だったのだが、久美子は適当に流してしまった。気づいたときにはボールが顔の前まで迫っていた。当たる!と目を閉じ、覚悟を決める。しかし、いつまでたっても痛みは感じなかった。恐る恐る目を開けると、グローブにボールを収めただおが立っていた。近くにいた気はしなかったが、いつの間にフォローに入ったのだろう。
「ごめんね。びっくりしたね」
「ううん。ありがとう」
久美子と目を合わせると、グラウンドにいる一年生に向かって叫びながら、ボールを投げた。
「お前ら、近いって。だんだん、寄ってきてるから」
「あ、ホントだ。すいませーん!」
今いる四人の一年生のうち、片岡を入れて三人が初心者のような拙さだった。それでも、今、目の前では楽しそうにボールを追いかけ、笑っている。だおが世話を焼いているおかげかもしれない。だおは本能のまま動くような、何も考えてないタイプかと思いきや、意外にもわかりやすく、後輩たちに指導している。
だおが、腰を落とし、ボールを拾う見本を見せた。後輩たちは真剣な顔で聞いている。真似しているところに、だおがさらに手を伸ばし、アドバイスする。
ファインプレーしているわけでもないのに、久美子はだおを見続けていた。ただ走ってるだけでも、投げてるだけでも、後輩に声をかけるだけでも、ずっと目で追ってしまう。飽きない。
「だお先輩!もっかいお願いします!」
一際元気のいい声を出しているのは屋守(ヤモリ)だ。体は小さいが、だおに負けないくらい熱血野球少年だ。守備は抜かりなく、バントなど小技も得意だ。
「ひぃ、追いつけないぃ……腹減った…」
堂々と弱音を吐いているのは、どんすけだ。ぽっちゃりめで、体はデカく、態度もデカい。それでも、シゴかれ、少し痩せたことには機嫌を良くしている。
「どんすけ、あとちょっとだから。あ、ボタンが取れそう…」
どんすけのお腹を指差すのはちえ子だ。他の三人と違い、よく気がつくというか、周りを気にしすぎるところがあった。バカではないはずだが、他の三人に巻き込まれ、結局バカなノリに乗せられていることがよくある。ちなみにちえ子は本名ではなく、あだ名だ。名前は普通に知春(ともはる)だ。
「だお先輩、捕れました!投げれました!」
「やったな!気持ちいいだろ?」
だおちゃんって、きっといいお父さんになるんだろうなぁ…。
「久美子」
「な、なに!?」
声のした方を見上げれば、隣に優大が突っ立っていた。
「みとれてるとこ悪いんだけど、アイシングの用意してやって。恭矢、投げすぎたみたいでさ」
「ちゃんと仕事してますよー。はいはい、アイシングね」
練習でアイシングしなければならないほど投げるなんて、恭矢にしては珍しかった。だおが一年生たちに基礎を指導している間、優大と恭矢は二人でみっちり投球練習をしていた。
アイシングはできるだけ早くやったほうがいいので、久美子は急いで部室に向かった。
「あいつら、やっと形になってきたじゃん。これなら、内野は一年とだおでいいな」
「一人余ってますが」
「片岡はセンターだ。あとは打順だなー。二、三番当たりも一年でいきたいんけどなぁ」
「楽しそうだね」
「楽しいよ」
優大は満足そうな顔で笑っていた。
部活の主導権はほとんど二年とういか、優大がもっている感じだ。
主将になった優大は、学校行事や試合を考慮した全体の練習メニューを、毎日考えている。それをもとに、声がデカいという理由で副主将になっただおが、一年にこういう練習させたいと希望を伝え、調整し、毎日練習に励んでいる。
顧問が素人のため、ポジションや打順も、優大が中心になって考えていた。大変な仕事だと思うが、優大はやりがいを感じているようだ。チームメイトは適任だと思っているのか、優大に従わないものはいなかった。
三年生は受験勉強がしたいからと、ほとんどが辞めていった。二人残った先輩たちも塾で忙しいらしく、ほとんど部活には参加できていなかった。姿を見せるのは、試合当日や、試合が近いときだけだった。
優大がグラウンドのだおたちに声をかける。
「おーい、そろそろ休憩しろー」
「はい、じゃ、ラストー!一球ずつな」
「はいっ!」
だおが一人ずつ、ノックしていく。久美子がアイシングを恭矢に用意し終わった頃、部員たちは我先にと部室前の日陰に集まった。久美子が用意していたお茶を手にとると、みんな一気に飲み干していった。
久美子は大きなタッパーの蓋を開ると、部員全員聞こえるよう、声をかけた。
「お稲荷さん作ってきたけど、食べる人ー!」
「はーい!はい!」
後輩たちが嬉しそうに久美子の周りに集まり、タッパーに手を伸ばした。
「ちょっと、手洗った?」
「洗ってないっス!」
「やだもう洗ってきて!」
「お腹すいたー!」
だおは久美子からもう一つのタッパーを受け取ると、蓋を開け、優大たちのところに渡した。おいしいー!と騒ぐ部員たちの中、優大が食べながら、久美子に聞いた。
「お前、最近、よくおにぎりとか作ってくるけど、食費大丈夫か?」
「お米とか、野菜とか、どんすけのおうちから、もらってるから、大丈夫だよ」
「なら、いいけど」
どんすけの家は農家で、米や野菜を作っていた。できすぎたといろいろ恵んでくれるので、裕福とはいえない久美子の家は助かっていた。おまけに、重い米や野菜をだおや後輩たちは家まで運んでくれる。
黙々と食べていただおを久美子は様子を伺うように見つめた。だおはそれに気づくと、久美子に笑った。
「ちょうどいい味だね」
「よかった。こないだ、ちょっと甘いって言ってたから、砂糖少なめにしてみたの」
「ありがと。ふんわりしてておいしい」
二人が笑い合う様子に、片岡がニヤっと笑う。
「おのぉ、ずっと聞きたかったんですけど、だお先輩と久美子先輩って付き合ってんすかぁ?」
「「え!?」」
久美子とだおは驚いたように声を出し、二人一緒に振り返った。それを見ていた他の一年生も口火を切ったようにしゃべりだした。
「愛妻弁当毎日作ってきてますし」
「自分の作るついでだよ…」
「しゃべる距離近いし」
「近い、かな?」
「久美子先輩、だお先輩としゃべってるとき、すっげー嬉しそうだし」
「え…そう、見える?」
「「「見えます!!!!」」」
後輩たちに自信満々で断言され、久美子は赤くなり、うつむいた。だおは笑いながら言った。
「実は一年くらい前に告ったけどさー、断られちゃったんだよね」
「えぇ!?」「なんでですか!?」
後輩がすごい勢いで久美子に迫る。その奥では恭矢と優大がニヤニヤしていた。なるべく見ないように久美子は目を泳がせた。
「断ったっていうか、そのときは、まだ、その、…だおちゃんのことよく知らなかったし…、いきなり告白されてびっくりしちゃったっていうか…」
久美子の態度を見て、だおの弟分の屋守(ヤモリ)は言った。
「じゃあ、完全に断ってない、まだ返事待ちってことでいいですか??」
「えっ、えぇ、っと…」
「はい!否定しないー!これはきた!」
どんすけが手を叩く。まるで誘導尋問のような受け答えに、久美子は慌てて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待って!時計見て!休憩時間終わり!もうこの話終わり!」
久美子は空になったタッパーをぶんどり、代わりにグローブを押し付けていった。
「えー、逆に気になって集中できない~」
後輩たちはブツブツ言いながら、グラウンドに戻っていく。久美子がちらりとだおを見るがすでに小さな背中しか見えない。さっきの、どう思ったんだろう…。
翌日。授業が終わり、野球部の部室へ向かおうとしていた久美子の前に、スカートの短いリア充女子が三人、行く手を塞いだ。バスケ部のメンバーで、久美子をいじめていた連中だった。
「柴田さーん、バスケ部の部費、五万円払ってくれる?」
髪の毛を触りながら、強気な態度だ。久美子は、別に怯える理由もなく、普通の調子で言った。
「いや、私、部活辞めたし」
「退部届けもらってないけど?」
「二年になって、係も変更になって、あんた雑用係りになったから。毎日、部日誌書いてね」
「え、やだ」
前とは違い、反発してくる久美子にリア充女子はムッとする。
「はぁ?何様?ブスのくせに!」
「あんた野球部の雑用はできて、なんでこっちができんの?」
「何断ってんだよ、ブスのくせに!」
「ブス関係ねーだろ!」
久美子は渡されそうになった部日誌をおっぱいで押し返すと、ぎゃーぎゃー騒ぐバスケ部員たちを無視し、去った。男好きとか、ブスとか聞こえるが、どうでもよかった。
「あ!久美子先輩!」
部室に入った久美子を見つけるなり、後輩たちがしゃべりながら寄ってきた。
「絆創膏どこですかぁ!?」
「微糖のコーヒーってどこの自販機に売ってますか?」
「切手って、何枚貼ればいいですか?」
「エロサイト見てたら、振込みしてくださいって!!!どどどどどーしたらいいですか!所持金二十円!」
矢継ぎ早にしゃべられる。久美子は救急箱を開けながら、一つずつ答えていった。
「絆創膏ね。自分で貼れる?優大のコーヒーでしょ?西門の近くの自販機にあったはず。切手は枚数じゃなくて、値段だから。振り込みはしちゃだめ。ほっときゃー」
どんすけが絆創膏貼ってもらってる横で、ちえ子が缶コーヒーを買いに走った。ヤモリは貼りすぎた切手を剥がし、片岡は、引き続きエロ動画を再生しだした。
「着替えた人から、ストレッチして、ランニング!」
「はーい!」
だおと優大と恭矢はすでに着替えを済ませ、部室の奥にある簡素な机を囲って、何やら真剣に話していた。机の上には紙があり、何か書き込まれている。ポジションや打順をそろそろ固めて練習していきたいと言っていたので、おそらくそれだろう。
部活が終わった帰り道。だおと久美子の後ろには後輩たちがついて歩いてきていた。これからだおと後輩たちは、バッティングセンターに行くらしい。
少し照れたように久美子を呼ぶ声に振り向くと、もじもじしたどんすけがいた。
「あのっ、実は…女の子にプレゼントあげたいんですけど、何がいいと思いますか?」
「えぇぇぇぇ?お前、彼女いんのぉ?」
「いーなー」
「俺も女の子とイチャイチャしたいぃぃぃぃ!」
「モテたいぃぃぃぃ!」
周りが騒ぎ出すのを、どんすけは遮る。
「いや、彼女じゃなくて」
「好きな女の子?」
「…そうっス」
どんすけは照れながらも、潔く認めた。それに、久美子はなんだか嬉しそうはにかむ。こういうの、嫌いじゃない。
「その子ピアノやってるんですけど、今度コンクールなんです!遊びたいの我慢して、猛練習してるみたいなんで、がんばってて偉いねって意味と、ちょうど誕生日だし、何かあげたいんですよー」
「いいねっ、いいねっ!何がいいかなー?」
「花束?」
「ノートと鉛筆?」
「プロテイン一年分?」
「エッチな下着は?」
だお、ちえ子、ヤモリ、片岡と声を聞かなくても、誰がなんて答えたかわかるようなラインナップだ。
「センスねーなぁ」
アドバイスしてもらったくせに、こういう発言をしてしまうところもどんすけだ。久美子はうーんと考える。
「付き合ってない男子から花束はちょっと重いから…。バレッタとか!」
「ばれった?」
「髪挟んでつける髪飾り。コンクールとか出るなら使ってもらえそうじゃない?」
「なるほどー。でも、そういうの選ぶの難しー」
「どんな服にも合うように、白系か、キラキラ系か…。明日、練習終わったら、一緒に見に行く?」
「お願いします!」
隙を見つけたように、ヤモリが身を乗り出した。
「久美子先輩だったら、誕生日、何が欲しいですか?」
「うーん、おでんかな?大根とー、ロールキャベツとー」
「もう時期的に、コンビニにはないです…」
「そう思うと余計食べたくなっちゃうんだよねー。まぁでも、今はモノとかじゃなくて、野球部のみんなが怪我なく、できるだけたくさん試合勝ってくれれば、それでいいかな」
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