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第2話「一日マネージャー」
翌日。久美子はあくびをしながら向山球場に向かう。集合時間の八時は、普段の登校時間とはいえ、これが土曜日だと思うとなぜか眠い。
バス停から降りて、広葉樹の並木を通りすぎると、すでに優大はついていた。球場の入り口から久美子に手を振っている。
「久美子ー!こっち」
見ると優大の隣に背の高い、ユニフォームの似合う男子がいた。朝日効果か、キラキラして見える。
彼の名前は紀藤恭矢(きとうきょうや)。学年内どころか校内で有名な男子だった。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群。入学式の日はこの男子の話題で、女子はもちきりだった。
「おはよー。恭矢、ユニフォーム似合うじゃん」
「バカにしてんのか?」
ただ難点はこの男、口が悪かった。言葉にすれば乱暴に聞こえるが、顔も声音も本気で怒っているわけではない。
優大と同様、恭矢とも小学校からの付き合いだ。久美子の家から歩いて三十秒くらいのところに恭矢の家がある。そのためか、恭矢の口と性格の悪さには慣れっこだ。
「恭矢も野球部だったね。他に一年生って誰かいる?」
「あと一人。今、ランニングしてるぜ。ほら、あそこ」
恭矢が視線を送るほうを見ると、一人の男子が綺麗なフォームで走っていた。どこかで見覚えのあるしっかりした肩幅。
「「あ!」」
久美子が思わず声を出すと、ハモった。あ!という顔と口のまま、男子が猛スピードでこっちに向かって走ってくる。久美子の目の前できゅっと止まると、久美子を見つめた。背は一六五センチくらいだろうか。中学一年生にしては大きい。なんか目がキラキラしている。
「こないだの!」
「あ?知り合いか?」
恭矢に勢いよく振り返ると大興奮といった様子で話す。
「こないだ言ったじゃん!スーパーですっげーかわいい子いたって!」
「それってこいつ?なんだよ。親切でおっぱい大きくて可愛い子がいたっていうから、世の中捨てたもんじゃねぇなって思ったのに。ブスだろ」
「悪かったね、私で!」
久美子は恭矢に軽くツッコミを入れると、男の子に向き直る。
「同い年だったんだ。背高いから年上かと思った」
「俺も、おっぱいおっきいから年上かと思っ、あ、ごめっ!ちが…!あ、ていうか、袋!」
思わず口にしてしまった言葉に焦りだす。スーパーで渡した袋のことを言い出したので、久美子は苦笑いのまま、手を向けて止めるジェスチャーをする。
「大丈夫だよ。本当にいらないのだから」
「あ、ありがとう…。てか、何々!?優大と恭矢、知り合いなの?」
「同じ小学校。紹介まだだったな。スコア付けてもらうって言ってた、柴田久美子。こっちは…」
優大が視線を移すと、ひと際大きな声が響いた。
「一年B組の藤崎竜太郎(ふじさき りゅうたろう)です!ショートやってます!今日はよろしくお願いします!」
言い終わるとビシっと、いかにも野球部らしい綺麗なお辞儀をした。なんか、クセが強い。
「よ、よろしくね…」
「だおと俺たちは同じ少年野球チームだったんだよ。だから、中学入る前から知り合い」
「だお?」
「こいつのあだ名」
だお、藤崎という名前と、やたらハイテンションな様子から、一年で恭矢とは違う意味で、目立つ男子の一人だったことを思い出した。女子の間では変人扱いされている。
「んじゃ、スコアの取り方とかやるか」
久美子は優大に木陰のベンチに案内される。その間、だおと恭矢はキャッチボールをしようとグローブを手に取った。
スコアとは野球の試合内容を、一目でわかるようノートにとったものだ。優大は今まで自分が記録してきたスコアを、見本として久美子に見せた。印刷された複雑な罫線の中に、数字やら記号やらが大量に記入してある。
「うげぇ~、難しそう…」
久美子は勉強は得意ではない。こういった記号みたいなものが並ぶのは特に苦手だ。
「初めはこんなに書かなくていいからな。情報、全部記録しようとすると、混乱するから、最小限で…」
優大は野球の教則本も見せながら久美子に説明していく。罫線が印刷されたものをスコアカードと呼び、それをまとめたものをスコアブックと呼んでいる。自分のチームと相手チーム用に、それぞれ取り出すと、重ねてバインダーに挟んだ。
久美子は野球を全く知らないというわけではない、と思っていた。だが、優大の説明の中にはわからない単語が次々出てくる。
「どうだ?やれそうか?」
「うーん。想像以上に難しい…」
「わからんくなったら、攻撃のときならいつでも聞いてくれよ」
「てゆーか、試合ビデオに撮って、後で書けばいいじゃん」
「パッと一目見て、試合の流れ把握したいじゃん。試合中、録画見返してる時間なんかないし…」
「なるほどー」
だおは恭矢とキャッチボールをしながら、チラチラ久美子の方を気にしていた。恭矢はニヤニヤした顔で言う。
「お前、久美子のこと好きなのかよ」
「………おぅ」
普通の男子中学生なら、恥ずかしがって否定するところをだおは言い切った。
「いんじゃねーの。バカとブスでお似合いだろ」
「マジで!?つーか、そんなブスじゃねーし!」
「そっか。お前はおっぱいしか見てないもんな」
「ちげーしぃぃぃぃいい!このおしり派がぁぁぁ!」
顔を赤くさせ、勢い任せてビュッと速い球を投げた。
そうこうしているうちに、二、三年生たちや顧問が集まってきた。試合前だと言うのに、みんな、のほほーんとしている。優大が広げた荷物を片づけながら、小さな声で言った。
「顧問のしもちゃん、野球は素人だからさ、ほとんど口出さねーんだよ。坊主にしろとか厳しくねーし。逆にやりやすい。行こ」
優大に促され、集団の輪に加わった。だおと恭矢も集まる。
挨拶と連絡事項の確認が済むと、優大が久美子を紹介した。
「今日スコア付けてくれる柴田…」
「おぉ、女子じゃん」
「やる気でるー!!」
なぜか歓声が上がる。久美子はあはは…と愛想笑いした。手伝いに来たのが、こんなブスでも嬉しいのだろうか。
久美子の通う市立浦尾(うらお)中学校、通称うら中の野球部は、一年を入れてもは十一人しかいない。野球は一チーム九人で構成されているので、交替できる選手が一人しかいない状況だ。
ポジションはだおはショート、優大はファースト、恭矢はレフト。ピッチャーとキャッチャーは三年生で、他は二年生だ。
「三人とも、一年なのに試合出るの?」
久美子のイメージではレギュラーのメンバーはほとんどが三年生で、一、二年は出番がないイメージだった。優大が答える。
「人足んねーし、二年の先輩、昨日の体育の授業で、突き指したらしいし」
「先週もやってなかったか?」
恭矢が呆れた顔で言った。やっぱり、この野球部は意識高い系ではないのかもしれない。ちなみに、もう一人の二年生は風邪で欠席らしい。
定刻になり、うら中対西中の試合が始まった。うら中は守備からだ。
「よっしゃぁ!がんばりましょー!」
だお一人、デカい声が響かせ、うら中ナインはそれぞれに守備位置に散っていった。ほとんどの選手がグラウンドに出てしまったため、ベンチが寂しい。
久美子はなんとなく、顧問と突き指の先輩とは数席離れて座った。日付や選手名などあらかじめわかっていることを記入したスコアカードを構え、三色ボールペンを握る。
ピッチャーは眉毛の立派な三年生だった。いきなりカキンとバットがボールを打つ音が響く。ライト当たりにボールが落ち、ランナーが二塁まで走っていった。
「あ、えっと、ライトにツーベースヒット…ライトだから、なな?きゅう?」
優大に言われた通り、見本を見ながらスコアをつけていこうとするが、なかなか難しい。もたもたしているうちに、次のバッターはバントをし、ランナーは三塁に行く。ワンアウトランナー三塁。
「あ、え、え?何が起きた?」
さらに犠牲フライを打たれ、ランナーがホームに返り、一点取られてしまった。
「あ、え、もう一点取られたの!?早っ!……こういうとき、なんて声かけたらいいんだろぅ…」
久美子は嫌々ヒットと得点を書き込んだ。
一回表で〇-一、ツーアウト。試合開始早々得点でき、相手チームに勢いがついた。気合いの入ったバッターが構える。大きなスイングと共に、カーンとバットがボールを打った。三遊間に勢いよく抜けると思いきや、だおが走りながらボールをキャッチし、くるんと体を回転させ、一塁へ投げた。だおの位置から一塁まで、結構距離があるにも関わらず、優大の構えたミットにスパッと収まった。スリーアウト、チェンジとなる。
「すごい…!」
久美子は思わず声を漏らした。ボールに食らいついた反射神経もすごいが、あの不安定な姿勢のまま右手でボールを取り、ミットめがけて投げたところもすごかった。流れに身を任せたような無理のない動作だった。美しいと表現すればいいのだろうか。
いきなり先制点を与え、重い空気になりかけていたうら中。ファインプレーをきっかけにテンションの下降は止まったようだ。だおはチームメイトにすげぇじゃんと肘でつつかれながら、ベンチへ戻ってきた。
ベンチで待っていた久美子は、興奮した様子で拍手を贈った。
「すごーい!なんか綺麗だった!」
「きれい?そんなこと、初めて言われた」
「うん、綺麗だった!」
「ありがとう!」
だおは綺麗と言われ最初はきょとんとした顔をするも、素直に目を細め、嬉しそうに笑った。優大が久美子の横の席に座る。
「ところで、スコア順調につけれてるか?」
「ハッ!!」
優大がバインダーを受け取ると、最後にアウトとったプレーが書かれていなかった。
「ご、ごめん、ぐちゃぐちゃ…」
「いいよ。初めが攻撃だと教えながらできたからよかったな。どこにヒットが打ったかは、無理に記入しなくていいから。文字でライトとか書いてもらってもいいけど…」
「がんばります…」
優大はボールペンを受け取ると、自ら抜けている情報を記入した。
その間、うら中の攻撃が進んでいた(1234)。先頭バッターは呆気なく三振に終わった。優大に指示を受けながら、久美子はスコアをつけていく。優大たちは、しゃべりながらもピッチャーやバッターの動きを注視している。
「けっこー、はえーなぁ」
「でも、コントロールはそんなよくないみたい」
だおの言う通り、キャッチャーはたまに体勢を崩しながら捕球している。二人目をフォアボールで出すも、その後、二人を三振に抑え、うら中一回の裏の攻撃は〇点に終わった。
その後、相手チームも大した動きはなく、二回裏〇-一でうら中の攻撃となる。
先頭のバッターが三振に終わり、六番バッターのだおが打席に入った。
久美子の脳裏に、さっきのファインプレーが浮かぶ。なんとなく、期待の眼差しを向けた。
二球目をカーンと音をたて、ボールがピッチャーの後ろを転がっていく。だおは余裕で一塁に着く。ワンアウト一塁。
「やった!ヒット!」
「うちのヒット、やっと出たな」
久美子は嬉しそうにスコアに記入した。ノーヒットで終わってしまったらどうしようと思っていたが、一安心し顔を上げ、だおを見た。だおは表情を崩していなかった。
次のバッターの恭矢が打席に入る。だおはピッチャーとキャッチャーの動きを注視しながら、腰を落とし、二、三歩ベースから離れた。ピッチャーが投げるかと思った瞬間、一塁に牽制球が来る。だおはさっと戻り、ベースをタッチしたため、アウトにはならなかった。
一度牽制されてもなお、だおはまた二、三歩ベースから離れる。久美子はスコアを取るという意識は忘れ、ただ、だおに見入っていた。ピッチャーが投げた瞬間、だおは走り出す。ボールがキャッチャーの手元まで届いた瞬間、二塁に投げられた。そこにだおがスランディングしていく。久美子は、あっ!と身を乗り出す。塁審のセーフという声が上がった。
「かっこいぃ…」
「だろ?」
ハッと隣を見ると、優大がニヤニヤしていた。久美子は聞かれてた!と、顔を反らした。
「あいつ、脚速いんだよなぁ」
「うん」
久美子はまただおを見た。また盗塁するかもしれない。目が離せなかった。
ピッチャーは積極的に盗塁を試みるだおに集中力を削がれていた。バッターの恭矢に甘い球が入る。恭矢は見逃すことなく、ライト前に打った。だおはあっという間にホームに返り、一-一になる。
「やったぁ!やったやったぁ!!」
同点に追いつき、久美子は飛び跳ねて喜んだ。だおがチームメイトに声援を送られながら、ベンチに戻ってきた。
「ナイス」
「いぇーい!」
だおと優大がハイタッチをする。すぐに優大が次、俺だったわとだおと入れ替わるように出ていった。優大の代わりに左隣に座っただおに、久美子は声をかけた。
「藤崎くん、すごいね!」
自分のボキャブラリーの無さと、応援の仕方のわからなさに若干恥ずかしい。
「えへへ」
照れたように下を向いてはにかんでいた。耳まで真っ赤だ。
次のバッターである二年生がピッチャーゴロを打った。久美子は急いで、スコアとペンを取る。
「えぇっと…」
「あ、これと、同じ…」
久美子がもたもたしていると、だおが前の回で打ったゴロ指さそうと身を乗り出す。右手を出すと何か柔らかいものに触れ、ぷにっと指が沈んだ。久美子の左おっぱいだった。
「ごごごごごご、ごめん!」
「え、あぁ、電車とか乗るとたまにあるし、大丈夫だよ。気にしないで」
実際、意図せず当たってしまうことは巨乳あるあるだった。久美子はさほど嫌な表情も見せない。
しかし、中一男子のだおにとっては初めて触った女性の胸の柔らかさに、顔を真っ赤にし、俯いてしまった。ブラジャーしていても、こんなに柔らかいのか。
「おい、何試合中におっぱい揉んでんだよ。チェンジだぞ」
いつの間にか戻ってきていた恭矢に、グローブを投げられ走れと促される。
「揉んでねーよ!当たっちゃったんだよぉ!」
守備位置に走りながら、恭矢に言い訳するだお。久美子は試合中に申し訳ないなと思いながらも、書き残したスコアに目を落とした。(3回表に)(568次優大から)
三回の表。西中の攻撃だ。
「まだまだ同点!取り返していこう!」
相手チームの三年生らしき女子マネージャーの澄んだ綺麗な声が、久美子のいるベンチにまで聞こえてきた。追いつかれ、固い顔になったた西中ナインの表情が、少し柔らかくなった。
女子マネージャーは慣れたように、バッターボックスに向かう選手にヘルメットを手渡し、代わりにキャップを受け取る。他の選手に声をかけられれば、スコアを指差しながら何か話し、擦りむいたと言われれば素早く手当てをしていた。忙しそうな様子だったが、マネージャーはずっと笑顔で楽しそうだった。
彼女がいることで、チームが明るくなっているのが、遠くで見ている久美子でもわかる。
うら中がツーアウトに追い込んだ。
バッターの打球が二塁手にキャッチされ、一塁に投げられた。ランナーはヘッドスライディングに行くが、アウトだった。チェンジだ。
悔しそうな顔でベンチに帰る選手を女子マネージャーが出迎える。
「ナイス、ラン!」
落ち込んでいるように見える選手の背中が、元気を取り戻したように見えた。
三回裏。打席は九番の優大からだ。だお、恭矢と立て続けに打ったからか、同じ一年ということで、ベンチからは声援が送られる。
優大は苦笑いしながら、バッターボックスに入った。期待が辛い。呆気なく三振に終わり、ベンチに帰ってきた。
久美子は静かにバットをしまった優大に声をかけた。
「優大、ナイス、ラン」
「へ……?」
恭矢がぷっと笑った。久美子の思ってた反応が優大からこない。だおが慌てたように手をバタバタさせた。
「柴田さん!優大三振だったから!ナイスランって三振のときは言わないよ!」
「え、あ、そうなんだっ!ごめん!」
「うーん…アウトになってもせめて塁まで走ったとき、かなぁ…」
「三振に終わる優大が悪いな」
「間違いねぇな。次は走るわ」
優大は笑いながら、ミットを持ち、マウンドに走っていった。応援するって難しい。
その後、両チームともヒットを許すも点が入ることはなく、試合が進んでいった。
五回表。うら中はヒットを立て続けに打たれ、一-二とリードを許してしまった。
なんとかスリーアウトを取り、選手が戻ってくる。ゆっくり歩いてきたピッチャーの三年生が濃い眉毛を潜め、お腹をさすりながら突然言い出した。
「やべぇ、お腹痛くなってきたかも…」
「大丈夫か?」
「今朝食べたヨーグルト、賞味期限二日過ぎてたからなぁ」
「二日!?」
「二日なら食べちゃいますよね!」
「つーか、試合ある日に、リスクあるもん食べないでくださいよ」
最後に優大が突っ込むも、それに応える余裕はないのか、ピッチャーの三年生は脂汗を流し、顔面蒼白で恭矢を見た。
「ピ、ピッチャー、交替してくれ、ない、か…?」
「いーすよ。じゃ、キャッチャーも優大に交替してもらっていいですか?そっちの方が俺も慣れてるんで」
「もちろん」
え?という顔をする久美子に、恭矢と優大はドヤ顔を向ける。
「俺の本職はピッチャーで」
「俺はキャッチャーだから」
今までポジションは専門の人しかできないと思っていた。
急遽、ピッチャーが恭矢に、キャッチャーが優大に交替になった。ピッチャーをやっていた三年生は、恭矢のいたレフトに。キャッチャーをやっていた三年生は、優大のいた一塁を守ることになった。レフトだと、守備としての負担は減るが、トイレからは遠くなるのは大丈夫なのだろうか。
「上級生なのに後輩の一年に交替してもらうとか…」
久美子は聞こえないように小さな声で小言を漏らした。恭矢は突然の交替に全くうろたえることなく、靴紐を結び直していた。
「ま、俺は外野で突っ立ってるより、投げてる方が断然楽しいから別にいいけど」
「いきなり投げれるもんなの?」
「いや、ぶっちゃけ肩できてねーから…」
そこまで言うと、恭矢はだおの顔を見た。
「初めの方は頼んだぞ」
「おう!」
久美子は意味がよくわからなくぽけーとしていた。
恭矢が肩を慣らそうと、二、三球キャッチボールしたところで、この回は一点も入らず、チェンジとなる。
六回表。優大がキャッチャーの定位置に座り、恭矢がピッチャーマウンドに立った。
優大は胸からお腹までを守るプロテクター、膝下を守るレガースを付け、マスクを被っている。いわゆるキャッチャーの格好。それが優大にハマっているというか、しっくりくるというか。さっきの三年生より安定感、安心感を感じる。
恭矢がまた二、三球、肩慣らしに優大に投げ、試合が再開する。恭矢は今までの澄ましたような表情から一転、戦闘モードというのだろうか、バッターを射抜きそうな目つきになる。顔が整っている分、怖さが増す。ベンチで見ているだけの久美子まで、無意識に体に力が入った。圧倒されるというか、ピリピリした空気が痛い。
恭矢の一球目。明らかにさっきまで投げていた三年生と、スピードも威力も段違いの球が、優大の構えるミットに収まった。パァーン!と痛そうな乾いた音が響く。
「はや…」
思わず声が漏れる。バッターも同じように圧倒されていた。そして、一球もバットを振ることなく、見送り三振となる。
「ナイス、恭矢!」
優大が声をかけながら、恭矢に返球する。恭矢はその瞬間だけ、ふっと笑った。そして、またあの目つきに戻った。(1アウト、ランナーなし)
二人目のバッターも相変わらず、早い球に手も足も出ない。ツーストライクに追い込まれ、無理矢理振ったバットにボールが当たる。
「あっ!」
久美子が声を上げると同時に恭矢のほうへ飛んで行った。恭矢はわずかに体を傾け、球を避けた。と思った瞬間、だおがジャンプし、ボールをキャッチした。
「……」
久美子は声が出なかった。人間ってあんなに飛ぶのだろうか。
「アウト!」
「っしゃ!」
「ナイス」
恭矢が小さくだおに笑いかける。
「お前がノーヒット主義だから、頑張ってやったわ」
久美子は放心しながら、つぶやいた。
「恭矢が頼んだのはこういうことだったんだ…」
次のバッターもあえなく三振に終わり、チェンジになる。(6回裏に)
六回裏、得点はなく、七回表になる。中学の軟式野球は七回までなので、延長に入らなければ、これで最後の回となる。一点差で負けていることを考えると、絶対に〇点に抑えておきたい局面だ。
「ちっ、ボールかよ」
ギリギリの内角を攻めていったが、審判にはボールの判定を受け、フォアボールとなった。恭矢は悪態をついた。
次のバッターの二球目、ぽーんと打球がライト方向へ伸びた。平凡なライトフライだ。二年の先輩がグローブを構え、ボールを待つが、風が吹いたのか、ポロリと落としてしまった。それを見ていた一塁ランナーがすかさず、走り出す。
「あーもー!なんでこんなときにっ!」
久美子は思わず声を漏らす。ワンアウト、ランナー二、三塁になってしまった。相手チームは追加点のチャンスに、声援が大きくなる。
優大はタイムを取り、恭矢のところへ駆け寄ると、他の内野陣も寄ってきた。しかし、あからさまに機嫌の悪い顔をする恭矢に、先輩たちは少し離れて突っ立っているだけで、誰も言葉をかけようとしない。だおの声が響いた。
「恭矢、んなピリピリしなくても、お前なら大丈夫だ」
同意なのか恭矢は無言で、一度だおを見た。優大と少し会話すると、それぞれ自分のポジションに返っていった。
恭矢は不機嫌そうにピッチャーマウンドの土を蹴ってならすと、グローブの中でボールを握り、バッターを睨んだ。その気迫に押されるバッター。ベンチで見ている味方の久美子まで、背筋が凍るように感じた。
そして、腕を振りかぶり、投げる。まるでナイフでも飛んでいくかのような、するどい打球にバッターは動けなかった。
下手に打った打球でダブルプレーになり、チェンジになる。久美子はホッと息を吐いた。
優大がよし!と小さくガッツポーズするが、恭矢は表情一つ変えず、ベンチに向かった。
背もたれにどっと背中を預けて座る恭矢に久美子は声をかけた。
「なんとかなって良かったね」
「………今話しかけてくんな」
しばらく無音だったのち、ボソッと目も合わせずに言われる。ムカッとすると、優大に引っ張られ、恭矢から離された。
「あいつ、集中力途切れねーようにしたいんだよ。この攻撃で同点にできたら、次の回も投げる可能性があるしな」
「え、あ、うん…」
めんどくさいやつだなー、と心の中でつぶやく。その横をヘルメットを被っただおが、通り過ぎていく。
「恭矢、たっぷり点取ってくるから、ガッツリ休んでろ」
「あ」
七回裏一-二、だお中の最後の攻撃だ。ここで同点、もしくは逆転しなければ、敗退が決まる。
打順は二番の三年生からだ。二球目を打ち、一塁に進んだ。よし!いいぞ!とチームメイトたちが声援を送る中、三番の眉毛の濃い三年生が打席に立った。
「いってぇ!」
投げれられたボールが眉毛三年生の太ももに直撃する。
「腹もいてぇのに、今日は災難だなー」
ノーアウトランナー一、二塁。
「がんばれー!」
「打てー!チャンスだ!」
四番の先輩が打席に入る。しかし、相手ピッチャーはキャッチャーと話し、気持ちが切り替わったのか、キレのいい球が飛んでくる。最後は空振りで三振に終わってしまった。
「あーぁ、ダメかぁ…」
落胆の声がベンチから漏れる。そんな雰囲気に引きずられるように、五番の三年生も打てずに終わった。
ツーアウト、ランナー一、二塁。ここで打順は六番のだおに回ってきた。
「ここでだおが打てばサヨナラだ」
「サヨナラ?」
「勝ちってことだ」
バッターボックスに向かうだおは、試合を楽しむうきうきしたような表情ではなく、急にスイッチが入ったような真剣な目をしていた。それだけでなく、集中し、研ぎ澄まされたオーラのようなものがベンチにまで感じる。
「藤崎くんがアウトになったら、試合、終わっちゃうんだよね」
「あぁ」
最後のバッターになるかもしれないだおが打席に向かった。久美子はペンを持ったまま手を握りしめた。心臓がすごいドキドキする。自分だったら、絶対そんな役回りは嫌だ。
ピッチャーが投げる。だおは迷わずバットを振った。カーンと音がなり、左方向に飛んで行った。久美子は「あっ!」と声を上げ、思わず立ち上がった。
「ファール!」
審判の手がファールのジェスチャーをした。はぁぁと久美子は肩を撫で下ろす。一瞬ヒットかと思われたが、僅かに左方向に外れてしまった。
「いいぞ。当てれてる!」
「藤崎、がんばれー!!」
「行けー!藤崎ー!!」
チームメイトの二、三年生も立ち上がり、ベンチぎりぎりに身を乗りだして声援を送る。
だおがバットを構える前にベンチを見た。特にサインなどはなかったのだが、チームメイトの中に久美子を見つける。同じようにだおを見つめていた久美子と目が合ってしまった。やばっと久美子は目を反らしかけるが、もう一度だおをきちんと見つめ、がんばれ!とうなずいた。だおは応えるようにうなずいた。そして、打席に入り、バットを構える。
ピッチャーが投げる。だおはバットを振りかけるも、途中で止め、振り切ることはなかった。
「ボール!」
また審判の大きな声が響く。ふうっとベンチにいるものがみな、息を吐いた。
「よく見てるな」
「打つよ、あいつ」
「うん」
三球目、だおは迷わず振っていった。前方に大きく飛んで行ったものの、判定はファールだ。そして、次もまたファール。次もファールと続く。一瞬でもタイミングと当てるポイントを間違えれば、空振りか打ち上げてアウトになってしまいそうだった。久美子は一瞬も気が抜けず、手を握りしめたままだ。だおが少し、苦い顔をしはじめたように見えた。負けないで、藤崎くん。がんばれ、がんばれ、がんばれと心の中で叫ぶ。
キャッチャーとサインを確認し合い、ピッチャーが投げる。今まで散々投げてきたにも関わらず、また威力の増した早いボールがミットめがけて飛んでいった。
「がんばれ!!」
久美子の声が響いた。その瞬間カーンとボールが向かっていた反対方向に飛んで行った。その球は外野手の頭上を越え、観客席にコーンと落ちた。ホームランだ。
「よっしゃぁぁぁぁぁぁあああああ!」
ベンチが大騒ぎになる。
「ぃえーい!!」
だおは一塁ベースを踏みながら右手を上げ、ぴょんと跳ね、こっちに笑いかけた。久美子は呆然と立ったまま、頬を高揚させ、キラキラした目でだおを見つめていた。
「勝ったんだよね?」
「あぁ」
「やった!やった!やったぁ!!」
(3-2に)優大に確認が取れると、ぴょんぴょん跳ねて喜んだ。その度に胸がどいんどいんと揺れる。ついでに優大の二の腕当りをバシバシ叩く。
「いでっ。久美子、あんま打つ瞬間は声出すのやめとけな」
「え、出てた!?」
口元を押さえるがもう遅い。やってしまったと恥ずかしそうにうつむくと、だおがホームまで返ってきた。チームメイトたちはだおの活躍を称えようと、わらわらとベンチから出て迎えにいく。
「すっげー!藤崎!」
「よくやった!」
「今日のヒーローお前だな!」
先輩たちに背中をどしどし叩かれながら、整列、挨拶をする。そして、ベンチに戻ってくるだお。久美子を見つけると、また子どもっぽい顔でこっちに向かって走ってきた。
「柴田さん!勝ったよ!」
「おめでとう!あそこで打つなんて、カッコイイね!!」
興奮したままの久美子は、未だ手を握りながら、だおに思ったことをそのまま伝えた。だおは照れたように顔を赤くした。
「あ、ありがとう…!柴田さんのおかげ…」
「さっき、打つとき声出してごめんね!」
「ううん!声聞こえた!だから打てたよ!なんかね、ここだ!って思ったんだ!だから、ありがとう!」
無邪気な顔で久美子に笑いかけると、久美子も自然に笑みが溢れる。久美子は遠慮がちに手の平を胸の前に出した。だおはそれに気づくと、優しくハイタッチする。久美子より硬い、大きな手だった。
「勝ったね!おめでとう!」
「うん!」
喜びの余韻に浸るのも束の間、先輩が遠くで呼ぶ声が聞こえた。
「グランド整備するぞー」
「はい!」
元気よく返事すると、試合で荒れたグラウンドを整備するため、トンボを取りに向かった。優大がベンチに置かれたスコアを受け取った。
「久美子、スコアもらうわ。ありがとな」
「あ、最後書いてないっ!」
「いいよ」
優大はちゃちゃっと書き込む。
久美子の視界に、負けた相手校のベンチが見えた。たくさんの選手が顔をくしゃくしゃにし、声を出して泣いている。マネージャーの女子生徒は目に涙を浮かべながらも笑顔を作り、選手に声をかけていた。あまりジロジロ見るのはよくないとわかっているものの、久美子は目を外さずにはいられなかった。
「男の人が、人前であんなに泣いてる…」
それに気づいた優大が久美子の横で切なそうな顔で眺めた。
「三年生は今のチームでできる最後の試合だったからな。試合に負けたってことは、もう引退ってことだ。泣かずにはいられねーよなぁー」
男同士抱き合い、健闘を称え合っていた。お互い泥だらけ、汗まみれのはずなのに。
「久美子、これ、バインダーごと俺の鞄入れといてくれ。俺、あっち手伝ってくるわ」
「あ、うん!」
グラウンドの整備が一通り済み、そろそろ撤収できそうだった。久美子はベンチの前でかがみ込み、鞄のチャックを閉める。ジャリッ、ジャリッ、という砂を踏む音がし、誰かが近づいてくる。足音が止まり、影になり、ふっと顔を上げるとだおが立っていた。拳を握り、唇をかみ、頬が高揚している。勝ったはずなのにどうしたんだろう?と心配していると、腕が伸びてきた。
「こ、これ、さっき俺が打ったホームランボール!もらって!」
「あ、ありがとう…」
思わず受け取ってしまう。軟式なのに、案外硬いんだなと思いながら、見つめていると、突然だおが大声で叫んだ。
「柴田さん!好きです!」
「………えっ?」
久美子は何を言っているのか理解できず、固まる。あまりの大声に、チームメイトみんなが一斉に久美子とだおを見た。遠くで器具を片付けていた人や、相手チームの人まで見ている。
「柴田さんと一緒だったら、俺、野球もっと頑張れて、強くなって、地区大会も優勝できると思うんだ!だから、その…俺と付き合ってください!」
「え……え……」
だおはビシッと頭を下げる。久美子は顔を真っ赤にして、周りをキョロキョロする。みんなが見ている。
中学生はLⅠNEで告白するのが主流となっている今、面と向き合っての告白は珍しい。まぁ、久美子はLⅠNEで告白されたこともないが。
恭矢のククク…という声がかすかに聞こえる。優大は顔を歪めながら、お腹を押さえ、なんとか堪えていた。周りの視線が痛い。痛すぎる。これは何か返事をしなくては。久美子はうつむいたまま小さな声で言った。
「……………ご、ごめんなさい」
「ガーン!!!」
「あーっははははは!!」
優大と恭矢が腹を抱え、大爆笑する。他のチームメイトの笑い声や、どんまいと言ってる声が聞こえる。
「あ、あいつっ、玉砕されてやんのっ(笑)」
「いきなり、告るからっだろっ(笑)」
いつまでも笑い続ける優大と恭矢と対照的に、だおはびざまづき、両手を地面についてうなだれていた。久美子はどうしたらとおろおろし、だおの顔を覗き込む。
「ごめんねっ、ごめんねっ、付き合うとか、よくわかんなくて…。藤崎くんのこともよく知らないし…」
それを聞いただおは顔を上げる。さっきまでカッコよくホームランを打った男が、まるで小動物みたいな顔でこっちを見てくる。
「俺、柴田さんとは、会ったとき、なんかビビっとくるもの感じて…」
私は何も感じなかったけど…と久美子は苦笑いする。
「…………ホントに、私のこと、好きなの?」
「好き!ホントに、ホントに好き!そっか、会ったばかりだから… もっと知ればチャンスある!?」
「えー、あー、まぁ…」
「スカウトも一試合見たくらいじゃ声かけないもんね!うん!もっと知ってもらえるようがんばる!よし!優大、恭矢、学校戻って練習しようぜ!」
そう言うが否や、ばっとアクセル全開で走り出す。ポジティブというか、バカというか、久美子はしばらく呆気にとられる。手の中にボールを握っていたことを思い出し、眺めた。ボールは少し砂がついていた。
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