第3話「キャッチボール」

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第3話「キャッチボール」

うら中が勝利した翌日は、一学期の終業式だった。 久美子は学校に向かう途中、優大の後ろ姿を見つけた。走って追いつくと、隣に並ぶ。 「優大、おはよ!」 「おー、おはよ。昨日は試合の手伝い、ありがとな」 「うん。それはいいんだけど、あの子、藤崎くん、何なの!?」 「んー…変人?」 「それはなんとなく気づいてた!い、いきなり、あんな人前で告白とか…」 今、思い出しただけでも羞恥心で死にそうになる。好きとか言ってもらえて、嬉しくないわけではないが、あんな人前でよく知りもしない男子に言われても…苦笑いだ。 「あれ笑ったよなー。あ、お前好きなやつとかいた?」 「な、何突然!?」 「どーなの?」 「いなぃ…けど…」 久美子は目を反らす。 「じゃ、問題ねーじゃん」 「えぇー!?いやー…だって、藤崎くんのことよく知らないし…」 「これから知るんだろ?あいつウザイぞー、バカだし。でも、案外応援する価値のある男かもよ」 謎の自信のある顔つきの優大。優大の言うことはなぜか説得力があるから、簡単に言い返せない。 「っつーことで、久美子、次の試合もよろしくな」 「え!?一試合だけって言ったじゃん」 「だって、まさか勝つとは思わなかったんだよ」 「なにそれー」 「勝ったとき、一緒になって喜んでくれたじゃん」 昨日の興奮と歓喜を思い出す。あんなに声を出して、飛び跳ねて喜んだのは久しぶりだった。 「そりゃ嬉しいよ。だって、優大たちすごい頑張ってたからさぁ。近くで見てたら、やっぱ嬉しいじゃん」 「野球っておもしろいだろ?」 「うん、まーね」 「な、夏の大会、負けるまで頼むわ。試合ない日も、、ボール拾いとか手伝ってくれよ」 「えー、うーん…」 返事に渋っているところで、学校が見えてきた。どこからか唸り声のような音が後方から聞こえてくる。 「うぉおおおおお!」 久美子たちの横を何かくわえたカラスと、だおが猛スピードで通り過ぎて行く。 「返せー!俺の財布ー!!」 「何あれ」 久美子がドン引きする。カラスがさらに高く飛び立とうとしたとき、だおは一度大きく膝を曲げたかと思うと、二メールくらい飛び上がり、カラスから財布を取り返した。チッと睨んだカラスは飛び去っていった。 「よっしゃぁ!取り返した~!さいふー!」 「おい、だお、お前からもお願いしろ。次の試合もマネージャーしてくださいって」 優大に声をかけられ、だおはやっと久美子の存在に気づいた。目の前にダッシュしてきたかと思うと、ビシッと姿勢を正し、深々と頭下げる。 「お願いします!」 昨日告ってきて、ごめんなさいした男子が目の前にいる。気まずい。どうしたら…と困っていると、目の前の男子はばっと顔を上げ、さらに久美子に近づいてきた。 「あ、あのねっ!いっぱい応援してくれてる声聞こえて、がんばれてねっ、お茶もらって、疲れがふっとんで、その、なんか、なんかなんか、よくわかんないけどパワーがみなぎってきて、ぐぉーって!で、打てたよ!勝てたよ!柴田さんのおかげ!ありがとう!」 「う、うん…私は大したこと…」 だおの圧に押される久美子の横を、恭矢が通りかかり、ボソッと呟いた。 「大したことしかしねーなら、楽じゃん。手伝えよ」 「お前はまたそういう言い方…」 「どーせ、夏休み暇なんだろ?」 「次の試合も絶対勝つよ!見てて!もっと、一緒に、いたくてっ、マネージャーやってください!」 久美子は小さく息を吐くと言った。 「もぉ、しょうがないなぁ。夏大終わるま…」 「やったぁー!!!」 久美子が言い終わらないうちに、だおが飛び上がる。跳躍力でまた二メートルくらい飛び上がった。だおは久美子の手を両手で握ると上下にぶんぶん振った。 「勝つね!地区大会優勝するね!」 「あた、あたあたあた…」 揺れるおっぱいと手が痛い。 「地区大会優勝したら、県大会だな」 「私の夏休み…」 十一時ごろに終業式が終わり、部活の時間になる。久美子は優大に昨日の試合の反省会に参加して欲しいと言われていた。午後までかかるかもしれないとのことだったので、お弁当持参した。 野球部の部室に向かう。ひまわりの咲いた花壇の横を通りかかったとき、人が倒れていた。だおだった。久美子は慌てて駆け寄る。 「ふ、藤崎くん!?大丈夫!?」 「腹へった…」 「朝ごはん食べてないの?」 「うん。なかった」 大事ではなさそうで、ホッと肩をなでおろす。久美子は自分のお弁当を取り出した。 「よかったら食べる?今朝、時間なくて味付け、めちゃくちゃかもだけど」 「いいの!?でも、柴田さんのお昼…」 「私は後で向かいのコンビニで買ってきてもいいし…。お昼休憩前に少しミーティングと練習するって言ってたもんね。お腹空いたままだとキツイじゃん。朝から何も食べてないなら、絶対食べたほうがいいよ!」 うぅーと葛藤していただおだったが、食欲に負け、お弁当を受け取った。 「…いただきます!」 久美子とだおは少し歩き、木の影になっている段差に腰を下ろした。久美子もその隣に座った。食べてと言ったものの、おかず一つ一つに言い訳したい。だおはお弁当を開けると、テンションマックスになる。 「うわぁ、おいしそう!いただきます!」 からあげ、カニかま入りの卵焼き、にんじんしりしり、ほうれん草のごま和え、ピーマンの肉詰め、きんぴらごぼう、きゅうりをちくわに挟んだもの。お弁当にしてはたくさんのおかずが並んでいた。朝ごはんと昨日の夕御飯の残り、作りおきなど。自分の作ったものもあれば、母が作ったものもまちまちである。おかずとは別に高菜のおにぎりがラップに包まれ、二つある。だおはからあげを一口で頬張った。 「おいしー!!」 よっぽどお腹が空いていたのか、七割方を一気にガツガツ頬張る。久美子がおにぎりのラップを開け、手渡した。 「ありがとう!柴田さん、自分で作ってるの!?」 「うち、母親だけで…。仕事してるし、家事は自分の分は自分でって感じ」 「うちは母親がいないよ」 「優大から聞いたよ。それも大変だよね」 だおの家は父親と兄と弟の四人家族だ。優大も詳しくは知らないが、だおが二歳ごろ、母親は家を出て行ったらしい。それからは父方の祖母が食事の面倒を見たり、子どもの世話を焼いていた。しかし、半年前に亡くなり、父親が代わりをするでもなく、適当な暮らしをしていた。父親はもともと育児に関心がなく、さらに激務なため、だおたち子どものことはほとんどほったらかしだった。その代わり、お小遣いだけはたくさん与えられているらしい。 「…あ!だから、缶詰ばっか買ってたの?ダメだよ、もっといろんなもの、バランスよく食べなきゃ」 「そうだよねぇ…ん!ピーマンおいしい!料理上手だね!柴田さん、いい奥さんになるよ!」 「あ、ありがとう…」 昨日適当に作ったピーマンの肉詰めを褒められた。やっぱり嬉しい。久美子ははにかみながら、おいしそうに食べるだおを眺めていた。 あっという間に食べ終わると、だおは少し恥ずかしそうに視線を前に向けた。 「柴田さん、久美子って言うんだよね?」 「うん」 「じゃー、くーちゃんって呼んでいい?」 「くーちゃん…?それは…」 「俺のこともだおって呼んで!優大も恭矢も呼んでるし!あ、呼び捨てやだったら、だおちゃんって呼んで!優大んトコのおばさんもそう呼んでるし!!」 「てゆーか、なんでだお?」 「よ、呼んでみてください!!」 「だお…ちゃん…」 「はい!」 憎めない笑顔に、久美子もつられて笑う。だおは息を大きく吸い込むと、叫んだ。 「くーちゃん!」 「やっぱ恥ずかし…」 そこまで言いかけ、部室のほうから反省会始めるぞーと声が聞こえてきた。 「行かなきゃね!ごちそうさま!お陰で今日一日練習がんばれそう!」 二人は片付けると部室へと急いだ。 反省会は午前中で終わり、久美子だけ先に帰宅した。今日はグラウンドが使えないため、柔軟体操やランニングをして終わりにするらしい。明日から、マネージャーとして手伝いに行くことになった。 久美子は家に着くと、ダイニングテーブルにメモを見つける。母親からセーラー服の冬服を、クリーニングに取りに行けとのことだった。クリーニング店は駅前のところだった。めんどくさいなと思いつつ、自分の分は自分で取りに行かなければ、一生着ることはできない。 昨日の残り物を昼食として食べ、テレビに映る生田斗真にたっぷり癒され、久美子はしぶしぶ駅前のクリーニング店に向かった。 久美子が駅の近くまで来ると、白い杖を持った男性が、駅の出口を出たところだった。こんな田舎では珍しい。 男性が自転車置き場を曲がろうとしたとき、タイヤに体を引っかけ倒してしまった。ガシャガシャと将棋倒しのように、次々と自転車が倒れる。自転車に進行方向を塞がれ、男性は身動きが取れなくなってしまった。久美子は助けに行くか迷っていると、後ろで笑い声が上がった。 「やば、ウケるー(笑)」 「どんどん倒れちゃったよ」 「どーすんの、これ」 振り替えると、自分と同じ中学の制服を来た女子が数人、男性を見て笑っていた。少し離れたところでも、その光景をスマホで撮影し、指差している男子生徒もいた。男性の横を、スーツを来たサラリーマンや若い女性が足早に通りすぎる。 久美子がどうしようと立ちすくんでいると、一人の男の子が男性のところに駆け寄った。 「大丈夫ですか!?杖がタイヤんとこ引っ掛かって…あ、取れた取れた!」 だおだった。それを見てすぐに久美子も駆け寄った。 「怪我ないですか?」 「お!?くーちゃん!?びっくりした!!」 「練習終わってたんだね。お疲れさま」 「うん!また会えたね!」 だおは嬉しそうに久美子を見ながらも、次々自転車を直していく。久美子も一緒に。男性は申し訳なさそうに言った。 「ありがとう。ごめんね」 「自転車の置き方が悪いんですよー」 あっという間に、倒れる前より、綺麗に整えられた。 「ありがとう。悪かったね」 「いえいえ、トレーニングっす!」 男性がタクシーに乗ったのを見送ると、なぜか、二人でクリーニング店に向かう。 「…優しいね」 「え?」 「私、躊躇しちゃった。いっぱい同じ中学の人見てて、助けたいんだけど、恥ずかしくて、勇気出なかったの」 「スマホ構えてたしね。でも、柴田さんだって、俺の缶詰め助けてくれたじゃん!」 「あ、あれは……なんでだろうね」 クリーニング店の前まで来ると、はっとだおに振り替える。 「そういえば、…だ、だおちゃん、は何しに?」 「ここ」 指指したのは隣のスポーツ用品店だった。 「そろそろ新しいグローブ欲しいなーって思って下見にきた。くーちゃんは?」 「私はクリーニング」 「そっか!………」 「…………」 「じゃ、じゃあね!」 最後は何を話していいかわからなくなり、無理矢理切り上げてしまった。手を振り、それぞれ用のある店に入っていった。 次の日。今日からは夏休みだ。久美子は野球部を手伝うため、学校に来ていた。夏休み前はあんなに休みが待ち遠しかったのに、不思議と億劫ではなかった。 部室の入ろうとしていると、久美子!久美子!と息を切らした二人に声をかけられた。 「おはよう!」 「おはよう、かよ、しほ」 久美子の唯一といえる友達だ。部活があるため、同じように学校に来ていた。かよは興奮気味に話し出す。 「久美子、藤崎に告られたって本当!?」 伝えるか迷ったが、二人には、昨日、LINEで相談というか報告をしていた。そのときは二人ともが大会中で忙しく、夜遅かったこともあって、既読にはならなかったが。どうやら今朝見て驚き、久美子を見かけ、走ってきたようだ。 「あー…うん。けど、罰ゲームのお遊びかも…こんなブスが告られるわけないじゃん…」 どちからといえば、おっとりとした性格のしほが言った。 「藤崎くん、委員会一緒だけど……そうやって人に悪ふざけするような人には見えないけどなぁ」 それは久美子だってよくわかってるつもりだ。ハキハキとかよが言う。 「でも、藤崎って変人で有名じゃん。何考えてるかわかんないとこあるし。…久美子が心配」 「確かに…」 しほも同感のようだ。難しそうな顔のまま続けた。 「隣のおじいちゃんが朝から晩まで、浜辺を行ったり来たり、往復してるの見たって…」 「怪談じゃん。そういえば、ハエを箸で捕まえられるって聞いたことある!」 「藤崎くんって、軽トラよりも速いんだよね!?」 どれも想像できる。だおならやりそうだし、やれそうだ。そして、それだけ聞くと、久美子もやっぱり変人だと思ってしまう。 「ねぇ、久美子はどー思ってんの?」 「え…うーん…」 「告られて、びっくりして、その場ではフっちゃったけど…」 今になって思えば…久美子はしばらく考えてみた。二人は黙って待ってくれている。 「…変なとこもあるけど…優しいとこもあるし…野球してれば、カッコイイと思うときもある…かな…?」 「悪くないんだ?」 「え、うーん…でも、変なところも…」 「じゃ、とりあえず付き合ってみればよかったじゃん!」 「えー、それは…付き合うとなったらテンションウザそう…。とりあえず、試合負けるまで手伝いするって言っちゃったし、それなのに、付き合ってるのは、なんか気まずいじゃん」 かよとしほは顔を見合わせると、声を揃えて言った。 「変人藤崎会ってみたい!」 そのままの足でかよとしほはグラウンドに寄った。すでにだおがストレッチをしている。 「あ、あれ…」 「背高い。後ろ姿はカッコいいね」 かよは誉めるが喜んでいいのだろうか。しばらく見つめていたら、だおの横に優大がひょっこり現れ、だおに何か言いながら自分たちの方を指差した。ドキッとすると、すぐにだおがこちらを見て、目が合う。立ち上がり、こっちに向かってきた。 「なんか用だった?」 「あ、えっと…友達と話してただけ…」 久美子は目を泳がせる。かよとしほはニヤニヤ顔を見合せると言った。 「あのー、藤崎くん、いっこ聞きたいことあるんだけどー…」 「うん、何?」 女子らしい独特の空気になるが、相づちを打つだおの表情にも、声音にも拒否感は全くない。イケる!と判断したかよは意を決して質問をぶつけた。 「藤崎、久美子のこと好きってマジ?」 「う、うん!」 かよとしほは顔を見合せる。二人の目にはだおが嘘ついているようには見えなかった。顔を真っ赤にし、うつむいているが、背の低い女子三人にはその表情はしっかり読み取れた。 「どうぞ、お幸せに!!」 「ちょっとぉ!」 「いいじゃん、おもしろくなってきたね(笑)」 「もぉ、他人事じゃん!」 去ろうとする二人を久美子は腕を掴む。 「久美子、しばらく見守らせてもらうわ」 「とりあえず、罰ゲームではないから、安心して」 「んじゃ、うちら部活あるから」 久美子はもっと話がしたかったが、二人はばいばーいと手を振り、行ってしまった。久美子が諦め、戻ろうと前を向くと、だおが突っ立ったままだった。 「用ってあれだけだったのかな?」 「うん、ごめんねっ!ストレッチしてるときにっ!ボ、ボール、出してくるっ!」 久美子は走って器具庫に向かった。ボールが入った箱は重い。持とうとすると、だおが横から手を貸してくれた。 「手伝うよ!」 「…ありがとう」 「…………さっきの、二人、同じ小学校?…ってことは優大や恭矢とも一緒…?」 「うん、そうだよ」 「そーなんだー……」 「……」 続く会話がなくなると、久美子は少し暗い様子で言った。 「だおちゃん、私、だおちゃんが思ってるようないい子じゃないよ。ブスだし、陰キャだし、頭悪いし…。この前、好きって言ってくれたけど、これから私のこと知ってくと、きっと、違ったって思うよ」 「じゃ、そんなことなかったら、俺の勝ちだね!」 笑顔で言っただおになぜか顔が赤くなる。 「…か、勝ちとか、そういう問題じゃ…」 困った顔をする久美子に、だおはにこっと笑うと、次の道具を出しに器具庫へ走って行った。 部活は午前中で終わった。久美子、だお、恭矢、優大は帰る方向が一緒だ。久美子と恭矢の家がほぼはす向かいで、そこから歩いて一分くらいのところに優大の家兼焼肉屋がある。そこからさらに歩いて十五分くらいのところにだおの家があった。 いつものように、前日やったプロ野球の試合の話をしながら帰る。地元が本拠地の中日ドラゴンズは、優勝争いの真っ最中だった。 久美子の家の近くまで来ると、だおが突然立ち止まる。 「やっぱ体、動かし足りねーなぁー。な、ここでキャッチボールしてこーぜ」 指差すのは普段は神主のいない小さな神社だ。周りを木に囲まれ、境内はお祭り用に比較的広い。中学生がキャッチボールやるにはちょうどいい広さだった。お祭りや初詣に久美子たちが行くのはもちろん、家が近い久美子たちは、たびたびここで遊んでいた。 四人は鳥居をくぐると、三角形に別れ、キャッチボールを始めた。久美子は社殿に上がるための石階段に座り、それを眺める。 ぱんっ、ぱんっ、というボールをグローブがキャッチする心地いい音が響く。しばらくボールを目で追っていた久美子だったが、石階段からぴょんと飛び降りると手を伸ばした。 「ね、あたしもしてみたい!」 「んじゃ、これ使うか?」 優大は自分のグローブを久美子に渡した。久美子は右利きにも関わらず、右手にはめようとするのをこっちだと指摘される。初めてはめたグローブは思ったより重くて、なんか臭かった。試しにパクパクと閉じてみる。 「うーん。素手で捕ったほうが捕りやすいと思うんだけどなー」 「骨折するから(笑)」 「じゃぁ、誰か投げて」 だおは男相手にキャッチボールしていた距離より短く、五メートルくらい離れたところに立った。 「じゃ、いくよ」 「お願いします!」 「加減して投げろよ」 優大に言われた通り、ふんわりとだおが投げる。ボールは高く上がり、ゆっくり久美子に向かって落ちてきた。 「お、お…」 久美子はグローブを胸くらいの高さで下に向けたまま、上を見上げてウロウロする。ぽとっと地面にボールが落ちた。 「も、もっかい!」 そして、もう一度、だおはふんわり投げた。優大と恭矢がアドバイスする。 「久美子、下がれ、下がれ」 「口は開けなくていいぞ(笑)」 「ボールの下に行け」 「え?」 両手を空に伸ばしたものの、ぽとっとボールは地面に落ちる。 「もう!いっぺんに言われてもわからんから!」 久美子は地面に落ちたボールを握るとだおに投げた。三メートルくらい先でボトッと落ちる。恭矢がぷっと吹き出した。自分でもここまで飛ばないとは思わなかった。だおは笑い声を上げることなく、ボールを取ると、久美子に声をかけた。 「くーちゃん、肘を曲げて、後ろに引いてから、ボール投げてみて!」 「うん!」 だおの返球をまたしてもキャッチできず、地面を転がるのを掴み、アドバイスをもとに投げてみる。ぽーんとなんとかだおのところまで届いた。 「いい感じ」 笑ってまた久美子にボールを投げた。久美子がグローブを構えるも、その横を通り過ぎていく。 「あれ…」 「捕らなくていいから、グローブに当ててみろ」 横から言われた優大のアドバイスにうなづき、やってみる。何球か繰り返すうちにグローブ当たるようにはなってきた。 「うぅー、グローブ当たるのに掴めない…」 いつの間にかいなくなっていた恭矢が小さなグローブを久美子に渡してきた。 「これ使えよ。おっきいんだろ」 それは優大のグローブとは違い、小さくて軽くて、薄かった。はめてみると、フィット感もよく、使いやすそうだ。 「ありがとう!こっちのが取れそう!」 「家まで行って、取ってきてやったんだよ。それ、やる」 「え、いいの!?」 「あぁ、ガキの頃使ってたやつだから、もう使わねーし」 「ありがとう」 グローブの手を入れる部分の内側にはには5年2組紀藤恭矢と書かれていた。 小さなグローブをはめて何度か練習を繰り返すと、ぽすっとやっとボールがグローブに収まった。気持ちいい。思わず、笑顔がこぼれる。久美子は飛び跳ねながら、グローブで掴んだボールをだおに見せた。 「捕れた!だおちゃん捕れたよ!」 「やったね!」 だおも一緒になって喜ぶ。横で本格的に投げていた優大と恭矢も笑っていた。 「これで、優大とピッチング練習に集中できるわー。だおが余ってたんだよ」 「じゃあ、もっと練習して、だおちゃんの肩ならしくらいできるようになるね」 「あ、ありがとう!」 久美子はまた、笑顔でグローブを構えるだおにボールを投げた。 翌日、久美子は昨日もらったグローブを持って、部活に行った。時間があったら、練習してもらうつもりだった。 部活に参加するのは、初日の試合を入れて三日目になる。器具の扱い方やボール拾いに行くタイミングなど、だんだんわかってきた。自分なんかでも、少しは役に立ってるかな。時間が余ったときにはルールや、スコアの勉強をした。 木陰で野球の教則本を眺めていると、優大が声をかけてきた。 「お前もマメだなー。感心するわ」 「かよも、しほも部活で遊んでくれないし、家にいても暇だし。私なんかがいて役に立つなら」 「んじゃ、正式にマネージャーになればいいじゃん」 「えー、うーん、それは…、荷が重いといいますか…やるからには中途半端にはできないじゃん。優大たち、こんな一生懸命がんばってるから、私がなんか失敗して、やる気失せるようなことしたくないし…」 久美子がグダグダ言っていると、次は走り込みするぞーと声がかかり、優大は行ってしまった。 本を読むのに疲れた久美子は汚れたボールを洗おうと、籠を持ち上げる。近くに置いてあっただおたちのグローブが目についた。泥が乾いて汚れている。昨晩、雨が降り、まだ乾ききらないグラウンドで泥だらけになりながら、練習していたためだ。ついでに洗おうと水場へ持って行った。 三十分ほど走り続けただおたちが一旦休憩になり、顔を洗おうと水場に向かおうとする。 「ぉるるるるるるるる!」 だおが全力で走ってきた。えっ?と固まってると、だおが水に浸してあったグローブを持ち上げた。恭矢も急いで走ってくると、久美子の手の中にあった自分と優大のグローブを取り上げた。 「うはっおっ、あっぶねー、俺のまで死ぬとこだった」 「え、え?」 だおたちの慌てように久美子はテンパる。遅れて歩いてきた優大が、惨状に苦笑いしていた。 「あー、グローブ水で洗っちゃった?」 「う、うん…だめ、だった?」 「ダメに決まってんだろ。革だぞ。バカか?」 恭矢にボロクソ言われる。久美子の顔がだんだん青ざめていく。 「グローブは汚れててもオイルとか乾いた布で手入れすんだよ」 「つーか、グローブは他人に手入れしてもらうもんじゃねぇから、今後一切触んな」 死んだ目でグローブを見つめ続けていただおに、久美子はとにかく謝る。 「だおちゃん、ごめんなさい!」 「だ、大丈夫!くーちゃんは良かれと思ってやってくれたんだし!」 「本当にごめんね!どうしよう…弁償するっ」 「と、とりあえず乾かしてみるよ。もし、だめになっても、ちょうど新しいグローブ欲しいって思ってたし、大丈夫、大丈夫」 「ドンマイ」 恭矢が棒読みで励ます。だおは笑って許してくれたものの、久美子はやらかしてしまった自分にショックを受けた。選手の邪魔をするなんて、絶対にやりたくなかったことだ。久美子は大きくため息をついた。
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