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第5話「野球観戦」
大会が終わり、夏休みになった。夏休みの間も月、水、金の午前中のみ野球部の練習があった。久美子はマネージャーとしてかかさず参加している。
野球部のマネージャー、大変だとわかってはいたものの、想像以上だった。まず、暑い。ずっと太陽の下だ。特におっぱいとおっぱいの間と、おっぱいの下が汗をかく。おかげで、練習終わりに着替えるときはブラジャーまで交換している。洗濯物が増えた。
他にも、バットやボールの入った籠、お茶など運ぶのは重労働。動き回ったからと、ごはんいっぱい食べてしまい、逆に痩せない。日にも焼けた。
それに加え、うら中野球部には、もともとマネージャーの先輩がいない。そのため、マネージャーの仕事は、久美子が考えてやらなくてはならなかった。ボール拾い、道具の手入れ、部室の掃除。初めは何をしたらいいかわからなかった。そんなときは部活全体をじーっと見ていると、あれしとこーと気がつく。やっていることは雑用だが、何かしてあげると選手の笑顔が見られるのが、久美子は嬉しかった。
本日の最後の練習メニュー、ノックを終え、汗だくの選手たちが木陰に集まる。
「お疲れさまー。お茶です」
昨日作っておいた麦茶を、テキパキコップに注いでいく。冷蔵庫に入っていたため、よく冷えていた。
「へー、気が利くじゃん」
恭矢と優大はゴクゴクと音をたて、飲みほす。
「最近、やっとマネージャーっぽくなってきたな」
「くーちゃん、マネージャーの全国大会あったら、優勝してるよ!」
だおがガッツポーズする。なんだそれと優大はツッコミを入れ、あははと久美子も流す。
実はだおとの、絡み方、たまに困る。何と返していいのか…。
「でも、まだまだだから。練習の手伝いとか、して欲しいこととか、遠慮なく言って」
「んじゃ、だおの相手してやって。俺、恭矢のピッチング見たいから」
「相手?何すればいい?」
「んー、じゃ、これやって欲しいんだけど」
だおがバドミントンのシャトルがたくさん入った袋を出してきた。
「あ、これ!何に使うのかなって思ってた」
「これをね、投げてもらって、打つ練習するんだ」
「なんでシャトル?」
「きちんと当てないと前に飛ばないし、いろんなとこ指定して投げてもらいやすいし」
日陰に移動すると、壁を目の前にし、だおが立った。久美子はだおの斜め前にシャトルの籠置く。
「下からふわって投げてみて!」
下からだおのところに投げるが、手前で落ちてしまった。
「あ、あれ…」
「多少ハズれてもいいよ。合せるのが練習だから」
数回練習するうちに、コツをつかみ、だおはどんどんと打ち返す。壁に当たり、ポトッ、ポトッとシャトルが落ちていく。
「ど、どうかな?」
「いい感じ!もっと外角もお願いします!」
籠の中のシャトルが無くなると、またかき集め、籠に入れ、また同じことを繰り返した。久美子は無心でシャトルを投げ続け、だおは無心でバットを振り続けた。
しばらくして、優大が声をかけに来た。
「そろそろ帰るぞー。…ん?お前らまさか二時間、ずっとそれやってたのか?休憩しろよ」
「はっ!」
「ごごご、ごめんね!くーちゃん!休憩しようって言えばよかったね!」
「あたしこそ、気がつけばよかった!!」
道具を片づけ終わると、だお達は更衣室で着替え始めた。ちなみに久美子は最寄りのお手洗いで着替えている。
「くーちゃんとなんか緊張して変ななっちゃう!」
「お前、そんなナイーブなキャラだった?」
「んじゃ、これ」
恭矢が鞄のポケットから、ひょいっと封筒を渡してきた。だおが開けると、中には野球観戦のチケットが四枚入っていた。
「うぉぉおおおお!ドラゴンズのチケット!しかもナゴヤドーム!」
中日ドラゴンズは、だおたちの地元を拠点としたプロ野球チームだった。だおはもちろん、恭矢も優大も熱烈なファンだ。
「とーさんのツテでもらったんだけど、うち、俺以外みんな用事ができて、いけねーんだよ。四枚あるし、ちょうどいいだろ」
「マジで!?いいのか!?」
横から優大も目を輝かせてチケットを見つめていた。めずらしく興奮気味だ。だおは手を合わせて恭矢を拝むと、しみじみと言った。
「恭矢さまぁ~!…憧れの、野球観戦デート」
「まぁ、久美子が来るかはわかんねーけど」
週末、最寄りの駅で待ち合わせた。今日は、昼間試合が行われるデーゲームだ。恭矢、優大、だおが今日の先発ピッチャーが誰か、談義しているところに、恥ずかしそうな顔で久美子が登場した。
「お、お待たせー…」
トップスは白地に筆記体で『Dragons』と青い文字の入ったユニフォーム。サイズは少し大きめだ。ボトムスはデニムの短パン、ショートソックスにスニーカーを履いている。髪の毛は普段のポニーテールではなく、低い位置で二つに結び、青のドラゴンズのキャップを被っている。ちなみに久美子の背番号はマスコットキャラクター、ドアラの1994番だ。小さな鞄を斜めにかけているので、いつもよりおっぱいが強調されている。
「かかかかかかかわいい!」
だおは興奮した様子で叫んだ。慣れない恰好の久美子は褒めてもらっても、未だ恥ずかしそうな顔のままだった。
「恭矢に、本拠地で観戦するときは、こういうのじゃないとダメって言われて…」
「わざわざ買ったのか?」
「うちにあったねーちゃんのお古。ねーちゃん、カープファンの彼氏ができて、乗り換えやがったから」
恭矢さまありがとう…とだおは心の中で深くお礼を言った。ユニフォームコーデを見れただけで、試合に勝ったくらいの満足感だ。
「みんなもユニフォームなんだね」
男子たちは、上がそれぞれ贔屓選手の背番号が入ったユニフォーム。下はジーパンかハーフパンツだ。ちなみにだおはショートの根尾の7番。恭矢は平成の怪物、松坂の18番。優大はドラゴンズのキャッチャーを長年務めていた谷重の27番だ。
しゃべりながら、駅のホームへと入り、名古屋方面の電車に乗る。ナゴヤドームまでは在来線に乗り、地下鉄に乗換え、一時間くらいだろうか。
「久美子はナゴヤドーム初めてか?」
「うん。ナゴヤドームも、プロ野球観戦もはじめて!」
「迷子になるのだけは勘弁しろよ」
「優大の弟がさっ、迷子んなって二時間探したよね」
「ほとんど試合終わってたな」
「しょうくんが?二時間もひとりぼっちでかわいそう…」
窓の外は海と田んぼと瓦屋根の風景から、だんだんとマンションや商業施設へかわっていく。あっという間に高層ビルが立ち並び、バカでかい看板が次々に出迎える。地下鉄に乗り換え、ナゴヤドーム前矢田(まえやだ)駅に着いた。
周りはドラゴンズの応援に来ている人ばかりだ。ドラゴンズのタオルやメガホンを持っている。久美子はそんな人たちを眺めながら言った。
「もぉ、ユニフォームじゃなきゃ浮くって言われたから、着てきたのに、フツーの服の人たくさんいるじゃん!」
「あ?ブスを誤魔化せるよう、アドバイスしてやったんだろ」
「はいはい。私は見るに堪える日本でトップレベルのブスですよ」
「そこまでとは言ってねーだろ。ガチのブスをブスいじりできるかよ」
「早く言ってよ!」
「おおぉぉぉー」
突然、だおが感嘆の声を上げた。地下鉄からナゴヤドームまでの通路の壁には、ドラゴンズの監督、選手の写真がズラリと並んでいた。選手それぞれ、一番カッコイイシーンが切り取られ、名前と背番号がかかれたポスターはマジでカッコイイ。
久美子たちは急に歩くスピードを緩め、写真に見入る。
「くーちゃんは好きな選手だれ?」
「…浅尾拓也」
「「顔かよ」」
恭矢と優大の厳しいツッコミが入れられる。浅尾は惜しくも去年引退した、ドラゴンズ界随一のイケメンだ。男前というよりは、綺麗な顔立ちで、スラッとした選手だ。このへんの女子に好きな選手は?と聞けば、にわかは大抵、浅尾と答える。だって他に知らないんだもん。
「浅尾、盗塁阻止うまいよね!」
だおが合わせてくれたが、イマイチピンと来ず、あははと笑い返す。浅尾の盗塁阻止は…と恭矢の長々とした話を聞いていると、ドームに着いていた。
一番近い入り口から入ると、焦点を合わせらせないような大きな天井と客席が目の前に広がっていた。
「ひっろーい!」
三六〇度近くに渡って約三万席の客席が置かれている。その様は、久美子にとっては圧巻だった。プロ野球選手はこんなに遠い客席までボールを飛ばし、これだけの人数の客を湧かせるんだ。そりゃ年収何億円ももらうわけだ。
「あっ!もう練習してる!」
珍しく恭矢が子どもっぽい感じで、階段をタタタと降りていく。試合開始前に、選手たちの練習を客席から眺めることができた。
座席は内野席だ。ホームランボールは飛んでこないが、白熱した応援団は外野席なので、うるさすぎず、初心者の久美子にはちょうどいい。
「久美子、こっちにしやー」
優大に促され、隣に座る。恭矢、優大、久美子、だおの順だ。だおの隣がビール持ったほろ酔いのおっさんだったので、そこを勧めてくれたのだろう。これが優大が気遣ってくれた最後の一言だった。
今日の対戦相手は広島カープだ。ドラゴンズとカープはセ・リーグの優勝争いをしており、今応援が盛り上がっている時期たった。
試合開始時刻まで、まだ三十分ある。久美子が優大をつついた。
「優大、トイレ行きたい」
「あー…」
「どこにある?」
「んーとなぁー…」
答える気があるのかというような声だ。優大はタブレットを真剣に眺めては、選手の様子を伺ったり、一人でうなずいたり忙しそうだ。だおが立ち上がる。
「じゃ、一緒に行く?ついでに、昼飯買ってこよーか?」
「俺、ホームラン弁当」
「俺もそれでいいや」
恭矢が双眼鏡で選手を凝視しながら答えた。優大はラジオで実況を聞くために、イヤホンを用意しはじめた。
久美子はだおに連れられ、お手洗いに向かった。途中、おいしそうな匂いに誘われ、久美子は振り替えると、飲食店が並んでいた。
「何あれ、おいしそー」
久美子が指差した先には、味噌カツのお店があった。甘めの味噌の匂いが胃袋を刺激する。だおの反応がないと思ったら、姿がない。いきなり迷子?と焦る。キョロキョロしていると手首を掴まれた感触に、はっと振り向くと、だおだった。
「はぁー、よかった」
「気がついたらいないんだもん。焦ったぁー」
「すいません。食べ物見てました」
「トイレ行ったら、じっくり見よう」
「そだね」
だおに手を引かれ、再びトイレへと向かおうとしたとき、だおを呼ぶ女の子の声に二人は歩みを止めた。
「おーい、だおー!」
手を振って近づいてくる。背の高いボーイッシュな女の子だった。だおはおーと手を挙げて答える。
「んーとぉ、…増田?」
「忘れんなよ(笑)」
二人は同じタイミングで笑い合う。
「ここで会うとは、ドラファンの宿命だな」
「北中だっけ?」
「南中。つーか、さっきの京田の見た?」
「見た見た!」
二人は楽しそうにしゃべりだした。久美子はその間、突っ立っていた。話が盛り上がってきたとき、突然、背の高い女の子がだおをバシッと叩いた。
「つーか、彼女いんのかよ!」
「え!?」
「え、いや、彼女では…。野球部のマネージャーです」
久美子が努めて明るい声と表情で言った。
「なんだ、違うのかよ。弁当買いに行くから、んじゃ!」
背の高い女の子は颯爽と去っていった。
「………」
「…………」
なんか変な空気になる。お互い何か言いたげな雰囲気を漂わせたが、先にしゃべったのは久美子だった。
「お、お手洗い…」
「そ、そーだったね!こっち!」
だおは指差しながら、足早に向かった。
お手洗いが済むんだ後も、変な空気のままだった。試合が始まるからと、頼まれていたお弁当と久美子の気になった食べ物をさっと買い、優大たちのところへ戻った。
「遅かったな」
優大と恭矢は弁当を受け取るなり、ガツガツと食べ出した。
「どーせ、食いモンに執着して遅くなったんだろ」
「そーです。何か悪いですか?」
「あ、ドアラ出てきたよ!」
ドアラはドラゴンズのマスコットキャラクターで、アクロバティック担当だ。チアダンスが終わると、バク宙を披露した。成功したので、今日はドラゴンズが勝つかもしれない。久美子はドアラの動きに笑い、勝ってきた串カツを頬張った。
「だおちゃんが勧めてくれたの、おいしいよ!」
「やっぱ味噌だよね」
どこかの市長が始球式をし、知らないおばさん二人が国歌を歌い、試合が始まった。先行はドラゴンズだ。
相変わらず、優大と恭矢の談義は止まらない。ヘッドホンで中継を聞き、タブレットではリアルタイムで更新される野球マニアの解説を見ている。
久美子は鞄から、折りたたんだ紙とペンを取り出した。スコアと取る練習をしようと思い、持ってきていた。
だおは、打席に入る前の京田がどんな顔をしてるのか注視していた。ストレッチやイメトレなどしているのだろうか。京田はドラゴンズのベテラン主力バッターだ。ヘルメットを被ると、打席に向かおうとしていた根尾に何か笑いかけた。根尾はプロ一年目で今日がスタメン三日目だった。根尾は話しかけられ、緊張が緩んだのか、少し笑顔を出し、歩いて行った。
「はっ!」
だおは顔を上げる。昨日、同じくスポーツをしている兄から、スポーツ観戦デートでやらかしてしまった話を聞かされたのを思い出した。自分が試合に熱中しすぎて、彼女をほったらかしにし、後々喧嘩になったらしい。
「どうしたの?」
久美子が顔を覗きこむ。
「次、根尾選手だね」
「うん」
「…根尾選手はね、高校時代ピッチャーもやってたんだよ」
「え!?そーなの!?」
それまで、しゃべっていなかった久美子が話に食いついた。
「私立で強豪校だったから、エースはエースでいたんだけど。基本ショートやってて、でも、センバツで投げて、優勝したんだよ」
「すごいなー。根尾選手って、ショート一本の真面目なイメージだったから」
「うん。根尾選手、すげー真面目。高校の理科の科目選択で、野球してる人は物理がいいか、監督に相談するくらい真面目」
あははっと久美子から笑い声が上がった。ウィキペディアにも載ってない豆知識だ。
根尾がバッターボックスに入り、バットを構えた。
「根尾選手ー!がんばれー!!」
「がんばれー!根尾選手!!」
だおの声に合わせて、久美子も応援をした。
根尾がバットを振った一球目、ボールがセンター前へ落ちた。
「三塁打!」
「やったぁ!」
だおと久美子は手をバタつかせて喜んだ。続いてだおが何か言ったが、歓声にかき消された。
「なに?」
久美子が耳を寄せる。柔らかい肩がぷにっと当たる。近い。
「えっと、ホームスチールあるかも…バッターだけじゃなくて、三塁ランナーも見てるとおもしろいよ」
バッターが打つと、三塁ランナーの根尾がホームに走った。運悪くボールはショートの目の前で、捕球され、キャッチャーに投げられた。
根尾はキャッチャーとサードに挟まれ、結果、三塁に後ずさった。キャッチャーにタッチされる瞬間、崩れ落ちるようにベースにタッチする。あぁー!と観客がどよめく。
根尾、審判、キャッチャー、サードが何かやり取りをする。そして、根尾は軽く走り出すと、そのままホームベースを踏んだ。
「え?え?何?どーなったの?」
「たぶん走塁妨害」
「これは走塁妨害だわ」
「中日びいきしてるわけでなく、走塁妨害」
優大も恭矢も同じジャッジだった。
「んー、まぁ、挟むのが下手だったかな」
「えー、でも、あぁしないと無理じゃない?」
「無理にランナーの前で邪魔し続けなくても、すっと避けて、ショートが三塁ベースに行けばいいんだよ」
「なるほどー」
だおに解説されて、すっきりした気持ちになる。久美子は少し恥ずかしそうに言葉を濁しながら言った。
「あ、あのね、だおちゃん…ボークって何?今さらで恥ずかしいけどっ、ルールブック見てもよくわかんなかくてっ!」
野球ってルール難しいよねっ、とだおが笑った。それからも、選手の小話やルールの解説など、だおは久美子が飽きないよう、ずっと何か話していた。
八回、試合もそろそろ大詰めだ。ふと、久美子のほうを見た優大が笑った。
「お前スコア取るっつってたのにほぼ白紙じゃん」
「あっ、ホントだ…」
手元を見ると、最初のバッターの記録を書いたっきり、何も書いていなかった。
「だおちゃんとしゃべってて…」
「打った!」
そのとき、ホームランが打たれた。一気に三点入り、五-二だ。ほとんどドラゴンズの勝利が決まったようなものだった。
「やったぁ!!」
だおと久美子はハイタッチをする。
「こんなに距離あるのに、客席まで飛ばすなんて、すごいよね」
「俺もこういうプレーがしたいなー。観客を湧かせるような」
「だおちゃんならできるよ!だって、夏大のとき、私、すっごい興奮したもん!」
だおはえへへと照れたように笑い、ありがとと小さな声で言った。
そのまま、五-二でドラゴンズの勝利で終わった。興奮したまま、観客が帰りだす。久美子たちもそれに混ざるように駅に向かった。
「楽しかったぁ!お腹もいっぱい!野球観戦って楽しいねっ」
「勝ったからな」
「だおちゃんが選手のこととか、ルールとかたくさん教えてくれたから、楽しめたよ。ありがとね」
久美子は少し目を細めた。
「応援するってなんか不思議。自分が試合して勝ったわけでもないのに、嬉しくなって、幸せな気分になる」
「また、とーさんにチケット取ってもらうように頼んどいてやるよ」
駅のホームに着き、乗車の列に並ぶ。人でごった返していた。
久美子がしゃべっていると、突然おしりにむにゅっとした感触があった。
「きゃっ!」
思わず、右隣にいた優大の二の腕を掴み、顔と体を寄せた。
「どした?」
「お尻、揉まれたー!」
久美子の後ろを見るが、大勢の人が歩いており、もう誰が触ったのかわからなかった。
「んだよ、たかがケツくらい。減るもんじゃねぇんだしよ」
「わかってるけどぉ…揉み方がキモかったんだよ…」
「実はだおが揉んでたんだろ」
「え!?俺じゃないよ!俺じゃない!」
だおは流れから、必死に首を振って否定する。久美子があははと笑い、優大から離れた。そこまで痴漢に嫌悪感いっぱいになっているわけではなさそうだ。
それにだおはホッとしながらも、少しだけ寂しさのようなものを感じた。自分も隣にいたのに、思わず助けを求めたのが優大で。別に深い意味なないんだろうけど。
電車が来たので、乗りこむ。満員に近い。久美子はチラチラを周りを見た。
「こっち」
優大は久美子を半歩歩かせ、自分たちの間にいかせた。
「背後、取られたくねーんだろ?」
「忍者かよ。でも、ありがと」
ノリツッコミしながらも、笑った。電車が大きく揺れ、久美子の足をフラつかせる。
「俺に掴まってていいぞ。つーか、お前にぶつかられたって、なんともねーし」
「俺は勘弁。一トンの巨体がぶつかってきたら、ピッチングに影響が…」
「象じゃねーよ!」
「じゃあ、何だよ」
「ヒューマン!」
「豚まん?」
下らないやりとりをしていると、最寄りの駅に着き、電車を降りた。なんか静かだなーと久美子はだおを振り替える。
「だおちゃん、どーしたの?考え事?」
「くーちゃん!」
「なに?」
「…さっき、応援してるの、幸せな気分って言ってたけど、…俺も勝ったら、くーちゃん幸せにできる?」
「当たり前じゃん。同じチームなんだもん。変なだおちゃん」
改札を抜け、久美子がだおの隣に並ぶ。
「私も聞きたいことまだあった」
「なに?」
「あの子、誰?トイレ行く前に会った子」
「あぁ、小学校んとき、同じ野球チームだった」
「それだけ?」
「うーん。特にこれといった特徴が…。たまには打つし、たまにエラーして、背は高いんだけどなぁ…」
だおの表情と話し方から、それ以上はどうでもよくなった。そっかと言うと、前を歩く優大と恭矢の腰当たりをつつく。
「ねー、優大ん家で焼き肉食べよう!痴漢されたら、お腹すいちゃった」
「どゆこと?」
んじゃ、混む前に行くかーと少しだけ脚を早める。
「だおちゃん、焼き肉だよー!」
昼は焼き肉弁当だったんだけどなーと思うも、くーちゃんが笑顔になってくれるなら、それでいっかと笑うだおだった。
【六、お弁当】
十月の半ば、ドラゴンズは見事、リーグ優勝を果たした。どこのスーパーもドラゴンズありがとうセールが催されている。久美子はここぞとばかりに、高級食材、お菓子や日持ちする食品などを買いまくった。
夜九時。久美子は自宅の台所で、鼻歌を歌いながら、からあげを揚げていた。名古屋コーチンのもも肉だ。夜食用と明日のお弁当に入れる予定だ。からあげはだおの大好物だ。
ただいまーという声と共に、遅番の母が仕事から帰ってきた。
「おかえり。洗濯物畳んであるから」
「あぁ、ありがとう。はぁー、疲れたぁ」
ダイニングテーブルにはお弁当箱が三つ並べられ、プチトマトやひじき煮、いんげんの胡麻和えなど野菜類がすでに綺麗に収まっていた。母と久美子とだおの分だ。
「ご飯できてるよ。あたしは軽く食べちゃった」
久美子に出されたお茶を飲むと、母はしみじみと言った。
「あんた、最近楽しそうね」
「え、そ、そう?」
「なんか、いきいきしてる」
「ん、まぁ、野球部のマネージャー、おもしろい、かなぁ?ただ、世話焼いてるだけで、私はプレーするわけじゃないけど。楽しいよ」
久美子の顔を見て、母はホッとしたように、出されたからあげを食べだした。
久美子は昨夜作ったからあげ弁当持って学校に行った。だおにお弁当を褒められて以来、ちょくちょくお裾分けしていた。
部室近くに行くと、やっぱりだおがいた。今日は全体での朝練はない予定だったが、だおと優大と恭矢はたいてい自主練している。
暑いのか、だおは木陰で、上半身裸のハーフパンツ姿であぐらをかいていた。
優大が久美子の手に握られている大きなお弁当箱の包みを見て、言った。
「お前も世話好きだよなー」
「だ、だって、ここ三日くらいずーっと惣菜パンみたいなの食べてるから。栄養偏っちゃう…」
「あ、くーちゃん、おはよー」
久美子の話し声に気づいただおは、座ったまま振り返り、笑顔を向けた。
「おはよっ!だおちゃん、からあげ多めに作っちゃって…。食べる?」
「食べる!!ありがとう!!」
しかし、だおの左手にはすでに小さなお弁当箱が握られていた。口がもぐもぐ動いている。箱の中はレタスとブロッコリーが並べられ、熊の顔をしたおにぎりが二匹いた。ハート型のハムが耳に飾ってある。いかにも可愛いお弁当。さらに、横にはもう一箱。包んであるナフキンは花柄でどう見ても女物だ。
「……今日はお弁当あるの?」
「うん!もらった!」
「そっか…」
久美子は沈んだ声で自分の持ってきたお弁当を意味もなく見つめた。
「あ、でもくーちゃんのも食べたい!」
「無理しなくていいよ」
「これ、量少ないし、からあげ好きだもん!食べたい!」
確かに、いつも食べるだおの食事の量としては少ない。野菜もたんぱく質も足りない。久美子はお弁当をだおに渡した。
「無理に全部食べなくていいからね」
「ありがとう!」
チャイムが鳴り、久美子たちはそれぞれ教室に向かった。
授業が終わり、部活の時間になる。バットを三本抱え、久美子がボーとグラウンドを横切ろとすると、恭矢の怒号が飛んでくる。
「久美子!止まれ!」
すぐ近くを打球が通過していった。
「ひいっ」
「危ねーだろ!ボール飛んでくるとこ入ってくんな!!ブスッ!!」
「そこまで怒鳴んなくてもいいじゃん」
「んじゃぁ、ちょっと休憩にするかー」
優大が声をかけるとみんなが集まってくる。だお、恭矢、優大も座り、久美子はお茶を渡した。
それをどこかで見ていたのか、女子三人組がお出ましした。
「恭矢くん、お弁当どうだったぁ?」
「おいしかったぁ?」
「ちょっと、組み合わせがねー」
横から感想を述べたのは恭矢ではなく、だおだった。女子は急にシラる。
「はぁ?」
「だっておにぎりにブロッコリーとハムじゃ…」
「なんで、変人藤崎が食べてんの!?」
「ふざけんなよっ!!」
女子のぶちギレようにひぃぃぃぃとだおは久美子の後ろに隠れた。女子三人組はまた鼻にかかったような甘い声になる。
「恭矢くん、嫌いな食べ物でも入ってたぁ?」
「よく知らんやつの作った弁当なんか食えるかよ」
恭矢は目も合わせず、ボソッと呟くと、グラウンドに向かってしまった。極めて無愛想な態度だったが、女子三人組はぽーとした顔を見つめていた。
「クール…」
「アスリートっぽい!」
「恭矢くんはちょっと冷たいほうが逆にいいよね!」
キャッキャッと騒いでいた。久美子はなぜかほっと肩を撫で下ろした。
「なんだ、食べてたの、恭矢がもらったお弁当だったんだ」
「うん。毎回、いらないってくれるんだよねー。もったいないから食べるんだけど…やっぱ、くーちゃんのからあげが一番おいしい!」
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