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シャワーを浴びた後の肇は疲労困憊で、駅まで送られる車の中でうっかり寝てしまった。
「着いたよ」
と肩を揺すられ、目を開けると最寄り駅の明かりがジョンの顔を照らしていた。
「ああ、悪りぃ。寝てた」
「いいよ、また連絡する」
ジョンの顔が近づく。彼はいつも去り際にキスをする。それが分かってたので、肇はジョンの肩を引き寄せて唇を重ねた。
車から降りるとジョンは目を見開き、少し驚いたような顔をしていた。肇からキスをしたのは初めてのことだ。肇はジョンの間の抜けた顔を見て、少しだけ溜飲が下がった。
最寄駅に着くと、夜風を浴びながら自宅に向かった。その道すがら、ウォークマンのイヤホンから流れる音楽を聴く。マンションの3階にある家のドアを開けると、アコースティックギターの音色が肇を出迎えた。
「ただいま」
「ん、お帰り」
ユウジはギターを抱えたまま言う。
茶色がかった髪とシャープな輪郭に囲まれた顔のパーツは整っている。奔放で色気の塊のようなジョンとは対照的な、ストイックで誠実そうな雰囲気の男性だ。
「ごめん、今日はもう寝る。疲れた」
肇が洗面所に向かう途中、わかった、と残念そうなユウジの声が追いかけてきた。
いつもは暇があればユウジとの協奏に興じている。しかし今日はピアノを弾く気力も体力もない。
ジャージに着替えてると、携帯電話から電子音が鳴った。ゲイアプリからのメッセージ機能で、また夜の誘いが運ばれてきた。
ゲイアプリはゲイ専用のマッチングアプリだ。
アプリを開くと、名前、居住地、受けか攻めか、恋人募集か、セックスは可能かなどを書き込んだプロフィールが、男達の写真とともにズラリと画面に並ぶ。
課金しない程度にマッチング機能を使って、関係が成立すればメッセージを送る。
肇は文面を流し読みして、後で返信しようとスマートフォンの画面を閉じる。
「そうそう、明日お前カホを風呂に」
ユウジが洗面所の前を通り掛かり
「・・・それじゃ無理そうだな」
と軽蔑の視線を突き刺す。ちゃんと閉めとけ、と乱暴に扉を閉めた。
肇が鏡を見ると、タンクトップから見える首から胸元にかけて、歯型やキスマークが何箇所も散りばめられていた。痛々しいほど色濃く残っている。Tシャツはやめて、タートルネックを着ることにした。
着替えて出てくると、
「カホの前では隠しとけよ」
とユウジから念を押された。返信のメッセージを送りながら「ん」と短い返事をする。
「お前、まだそんな事続けんの?」
「断った。跡が消えるまでやめとく」
「もうやめとけよ」
ユウジの顔は切なげで、心配されてんのかな、と思うと胸が疼いた。
それからユウジは肇の姉の遺影に手を合わせてから、姪っ子の寝ている寝室に入っていった。
姉が亡くなり、もう何年たったのか。カホが1歳の時だったからもう4年も経つのかと肇は計算する。
姉が死んだ時、肇は高校生だった。その時からずっと、ユウジや姪のカホと住んでいる。
しかし、やっぱいつかは家を出ないといけないんだろうな、という考えは持ち続けていた。
4年も経つのにユウジとの関係も変わらない。もっとも、いわゆるノンケのユウジに自分の気持ちを伝えたところで関係性が変わるとも思えなかった。
でもなあ、と新しくなった電子ピアノに目をやる。きっちり88鍵ある。昔から使っていた電子ピアノが壊れて、ユウジがクリスマスに買ってきたものだ。
肇と演奏できなくなると困るから、と。
脈もないのによけいなことしやがって、と電子ピアノから目を背ける。先の事を考えるのも先延ばし、今度こそ寝室にむかう。
そうやって、ズルズルと4年も経ってしまったことからも、肇は目を逸らした。
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