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十一、星のすべりだい
中山くんからのメッセージだった。
『覚えてるかな。星のすべりだい。もし覚えてたら、今夜七時に待っています。もう忘れちゃってたら、このメッセージのことも、忘れてください』
私は一瞬呼吸を忘れて、その文字を凝視する。
星のすべりだい。
それは私たちが通っていた塾の裏手にある丘の通称で、見上げるとまるで降ってくるかと思うほど星を近くに感じられるのだ。私たちは塾の帰り道、わざと遠回りをしてその丘を通ることが何度かあった。澄んだ夜空に浮かんだ星が、私たちの上に降ってきそうだった。
「内田さんは、高校に行ったら何部に入るの?」
「まだ決めてないけど、多分、高校でも美術部かな。中山くんは?」
「僕は写真部に入りたいんだ。いろんなところに出かけて、たくさん撮って、自分で現像したい」
私は実際には高校で吹奏楽部に入った。彼はあの時話していた通り、写真部に入ったのだろうか。
奈ノ葉に、残業で遅くなりそう、というメールを送った。娘にこういう類の嘘をつくのは初めてのことだ。
私は会社を定時丁度に上がると、帰宅ラッシュの電車に飛び乗った。地元の駅が近づくにつれ、電車が少しずつ空いてきたが、それでも車内は蒸し暑かった。
残暑はまだ町を覆い尽くしている。
星のすべりだいまでは駅から歩いて二十五分はかかるだろう。パンプスの中で足が疲れてくる。それでもタクシーなんて使いたくなかった。あの頃の私はどんなところでも、徒歩か自転車で行ったものだ。徒歩と自転車で動ける範囲が、私の世界のすべてだった。大人になって、どこへでも自由にいけるようになったのに、子どもの頃よりもかえって窮屈になった気がする。
だけどその時、私は羽が生えたような心地だった。塾の跡地の裏を登り、丘の上に着いた。腕時計を見ると午後七時五分を指していた。
間に合わなかった。でもまだ彼はいるだろうか? あえて返信はしなかった。途中で気が変わっても引き返せるようにするため。
それなのに私は今、必死に辺りを見回して中山くんの姿を探していた。
一目会いたい一心だった。
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