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八、吉祥寺
その晩、久しぶりに夢を見た。
「覚えてるか? 俺のこと」
私は飛び起きた。声の主は夫だった。
時計を見ると午前四時を回ったところだった。私は水を飲んでベッドに戻ったが、眠気がすっかり覚めてしまったのでスマホを手に取った。画面が発する強い光に目が眩む。そして、メッセージが一つ届いていることに気づいた。
数時間前に届いた、中山くんからのものだった。
よかったら明後日の晩、食事をしないか、との誘いだった。
私と中山くんは、吉祥寺のとある洋食店の前で落ち合った。その店の名物は牛のワイン煮込みで、洋酒も数多く取り揃えている店だった。だけど彼は料理にはほとんど手をつけないし、下戸だからと言ってお酒も頼まなかった。私には飲むように勧めてくれたけれど、リンゴの甘いお酒を一杯だけ飲んだ後は、炭酸水を飲んだ。
「ありがとう。そんなきれいなワンピースを着てきてくれて」
姉の勧めで昔買ったオレンジ色のシフォンワンピース。あまり着ていくところもないので久しぶりに袖を通したのだった。
「やめてよ」
私はそれ以上何も言えなかった。舞い上がっている自分が恥ずかしくなって、そろそろ出ましょ、と思わず言っていた。
そうだね、と言って伝票を手にした彼にお金を渡そうとすると、誘ったのは僕だから、とどうしても受け取ってくれなかった。
店を出て駅まで歩くうち、中山くんの身体が大きくふらついた。大丈夫だと彼は言ったが、電柱にもたれてしばらく動けなくなった。
「救急車、呼んだ方がいい?」
そう訊くと、中山くんは頭を横に振る。
「大袈裟だよ。休めば楽になるから。僕は今晩はこの近くのビジネスホテルにでも泊まるよ」
私は自分のスマホで近隣のホテルを検索した。そして空室のありそうなところを見つけたので、そこを目指してゆっくり歩き出す。
「早く帰らないと、お嬢さん心配するんじゃない?」
「大丈夫、娘は今、部活の合宿に行ってるのよ」
ホテルに着くと、彼は禁煙のシングルルームを、と言った。
フロント係がちらりと私の方を見る。
「あの…ツインルームがもし空いているようなら、そうしていただきたいのですが」
中山くんは勝手にそう言った私の方を見て、目を丸くしていた。
ダブルルームでしたら空いております、という返事を聞き、ダブルでもいいです、と私は答えた。鍵を受け取ると、エレベーターに乗った。部屋は六階だった。
「どうして」
エレベーターのなかで、彼はふらつく身体を壁についた右腕で支えながらそう言った。
「心配だから、帰れなかったの」
本心に違いないけれど、本心だけではないような自分の言葉に、私は震えていた。
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