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戻ってきた夫は、綾乃に支えられながら、ソファーに身を沈めた。彼女は洗面所からの物音を聞きつけると、リビングを飛び出していったのだ。
「あらまぁ。お水でも飲みますか?」
「うぅ……」
青い顔で冷や汗を浮かべた夫は、腹を押さえたまま頷く。私はキッチンに急ぐと、冷蔵庫の冷水筒からグラスに注いだ水を持って行く。
「あたしが」
余裕のない瞳で睨め上げて、綾乃が手を伸ばす。彼女は夫に寄り添ったまま、少しずつ飲ませてやっている。
「酷い汗ねぇ」
私は洗面所に取って返し、新しいタオルを掴む。彼が使った石鹸と同じ匂いが、優しく香る。
「耕市さん? 耕市さん!」
リビングでは、綾乃が瞼を閉じたままの夫に呼びかけていた。彼女が強く揺するも、反応はない。
「奥様! 救急車を!」
「まあ。取り乱して、みっともない」
私は悠然と微笑み、彼女と反対側のソファーの端に腰掛けた。
「あなた。この匂い、お気付きになって?」
柔らかなタオルで、丁寧に汗を拭う。彼は無言だが、私は愛情を込めて語りかける。
「ええ、そうよ。鈴蘭の匂い。でもね、これは作り物なんですの。鈴蘭には毒があるから、本物の花から抽出することが出来ないんですって」
ぐらり。視界がブレて、少し暗くなる。指先が冷えている。私の額からも、汗が吹いて流れ出す。
「お、奥様……?」
訝しげに私を注視していた綾乃の瞳が、強張り、ゆっくりと見開かれる。
「懐かしいわね……新婚旅行の、平取の群生地。『花を包み込む大きな葉のように、俺が君を守るから』って……嬉しかったわ。だから、どんな――」
息が切れてきた。全身が怠い。私は、動かない彼の胸に身体を預ける。
「どんな、苦労も、辛くなかった」
「まさか……口にしたものの中に、なにか」
真っ青になった綾乃がガタガタと震え、立ち上がる。
「大丈夫よ、綾乃さん……あなたは、タルトしか食べていないもの」
あなた、知らなかったでしょ? 鈴蘭ってね、花にも実にも、ぜぇんぶ毒があるんですって。切り花を差した水を飲んだだけで、中毒死した人もいるくらい、強い毒なの。2杯の紅茶とタルトの赤い実――致死量には、充分。それに、1時間以上経ったから、夫と私は、もう手遅れなのよ。
「いやあっ! き、救急車っ!」
バタバタとダイニングに駆けていく。はしたない後ろ姿を最後に、瞼を下ろして、ほくそ笑む。
「嘘っ! スマホがない?!」
ふふ。ごめんなさいね。あなたが洗面所に行った隙に、バッグから失敬したの。夫と私のと、3台とも、冷凍庫の奥で急速冷凍中。
「いやあ!? 電話線が切れてる!!」
半狂乱の声が叫んでいる。ああ、ダメよ、そんなに騒いじゃ……いくら安定期でも、お腹の子に障るかもしれなくてよ?
さよなら、綾乃さん。
夫が結婚したのは、私。あなたに妻の座は譲らない、永遠に……。
【了】
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