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ピンポーン
「あら、お見えになったわね」
タルトを1/3程食べたところで、インターホンが鳴った。液晶画面の表示は、14時45分。夫の言葉通り、30分以内に到着した。微笑みを貼り付けて、玄関に向かう。
「まぁ、ようこそ。いらっしゃいませ」
扉の向こうに立つ千堂綾乃の格好は、白いブラウスの上に黒のロングジレを羽織り、ボトムスは淡いピンクの七分丈のガウチョパンツ。ベージュのショルダーバッグはシンプルなデザインだが、恐らくブランドものだろう。カジュアルながら品良くまとめ、このままデートにも行けそうな装いだ。支度する時間を与え過ぎたかしら。慌てふためいて駆けてくる姿を拝んでやろうと、秘かに期待していたのにね。
「奥様……あの」
社員の顔をいちいち覚えてはいないが、彼女は新卒入社の頃から知っていた。会社の経営が苦しい時代を知る、数少ない社員の1人。決して派手な顔立ちではないが、卵形の輪郭にやや垂れ目の和風美人は、頼りなげで男の気を引く雰囲気を十二分に匂わせる。
「いいのよ。主人から話は聞いています。どうぞお上がりくださいな」
戸惑う彼女を招き入れ、ダイニングに通す。
「綾チャン、すまないなぁ」
眉尻を下げた夫が、頭も下げる。あらまぁ、ペコペコしちゃって、滑稽だこと。若い子に相手にしてもらうために必死になっているのが、みえみえじゃない。
「今、新しいお茶を淹れますね。そちらにお座りになって」
夫の横を示す。彼もブリーフケースを足元に置いて、隣のチェアを勧めている。
「あ……お構いなく。あの、耕市さん」
「悪いな、もう少しだから」
「そう……」
新しいティーポットを用意しながら、耳をそばだて、盗み見る。綾乃は、甘えた上目遣いで、夫に困り顔を向けている。支えられるより、頼られる方が、彼の琴線に響くのだろう。だらしなく口元を緩め、私が書きかけの書類を顎で示して、順調をアピールしている。
3杯目の紅茶は、アールグレイにした。
アールグレイとは、茶葉の品種名ではない。かつてのイギリス王の名前が付いた、世界で最も有名なフレーバーティー。何種類かブレンドした茶葉に、ベルガモットで香り付けをするのが、一般的な製法だ。
「どうぞ、召し上がれ」
砂時計を返して、茶葉を蒸らしている間、綾乃の前にもタルトを置いた。
「あなたも、もう1切れ召し上がる?」
「いらん」
彼の皿には、1/4程しか残っていない。文句を言いながらも、食べてくれたのは――きっと目的達成のため。優しさなんかであるものか。苦笑いを浮かべて、席に着く。
「あの、これ、奥様がお作りになられたんですか?」
綾乃は、宝石のように艶やかな赤や紫のベリーをまじまじと眺めている。
「ええ。お口に合うと良いのですけど」
「可愛らしいですね。いただきます」
ニコリと私に笑みを投げつけて、フォークを手に取った。なるほどねぇ。大した女狐だこと。
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