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「ん……すまん、ちょっと」
表情を曇らせた夫が、再び席を立ち、トイレに向かった。
「耕市さん?」
「いや、なんでもない」
不安げな眼差しを宥めるように、小さく頷くと、やや早足でリビングを出ていく。
ダイニングには、女が2人――本妻と愛人が残された。綾乃は、ひたすらタルトをつついている。気まずさをかわす、ちょうど良い場もたせだとでも言うかのように。
「あなた、主人とは、いつから?」
カシャン、とフォークが小さな音を立てて、皿の上で止まる。彼女はアールグレイを一口含んでから、私を真っ直ぐに見た。
「5年前、です」
「そう……どちらから?」
「耕市さんです。あの、気づきませんでしたか、奥様」
「そうねぇ。有り得ないことではなかったのにね」
業務拡大とか事務所増設とか、なにかと理由をつけて出張に飛び回っていた時期と、恐らく重なる。その頃から会社も本格的に軌道に乗り、経営も安定してきたと聞く。精力的な活動の裏側には活力源が居た、ということか。
「奥様には……申し訳ないとも思っています。でも、あたし、お腹に彼の子が……もう5ヶ月を過ぎました」
ああ!
脳天から、雷が心臓を貫いた。
離婚を突き付けられた時から、子どもの可能性は常に脅威だった。現実と向き合う勇気がなくて、夫には訊けなかったのだ。
男が父親になるのに、期限はない。だけど、女には――身体は女でも、母親を諦めなくてはならない限界がある。
現代程技術も制度も進んでいなかったが、私達夫婦は妊活の努力をした。けれども、私と夫の間に、子どもは来てくれなかった。
『老後は、夫婦水入らずで穏やかに暮らそうや』
私が45歳を迎えた夜、涙に暮れる私の肩を抱き、彼が引導を渡してくれた。だから、彼も父親を諦めてくれたと思っていたのに。
「この……髪型に服、とんでもない若作りしてるって思うでしょ?」
渦巻く感情に翻弄されて、上手く笑えない。動揺を顕わにしたまま、綾乃を見詰める。
決意に満ちた強い眼差しが揺れた。彼女も戸惑っている。
「新婚旅行の時の……30年も前の格好なのよ」
胸のブローチに指先を伸ばすと、少し落ち着く。これはあの旅行の想い出で、彼に買ってもらった宝物。恥じらうみたいに下を向いた5輪の愛らしい丸い花が一列に並び、それを守るように大きな葉が包み込んでいるデザインだ。
「行き先は、北海道だったわ。平取ってご存知かしら」
綾乃は、無言のまま首を振る。その時、洗面所の方から、ガタガタと物音がした。
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