先輩、逃げなくていいんですか?

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先輩、逃げなくていいんですか?

 満員電車で相馬に痴漢まがいの事(事故)をしてしまった翌日、俺はどんな顔をしていいか分からず出勤の足が重かった。朝もラッシュだから余計に思い出す。泣かれてしまった。  確かに事故だった。鮨詰め状態で動けなかったし、故意にあんな事をしたわけじゃない。ただ、結果は重く受け止めなければいけない。  それにしても、なんか……妙な扉を開いてしまいそうで怖い。元々相馬の事は気に入っているし、顔もいいとは思っている。自分よりも身長の高い、しかも男をこんな風に思ってしまうのがいっそ怖いが。 「はぁ……」  とりあえず、改めて謝ろう。それだけはちゃんとしなければと覚悟して、俺は出社した。  オフィスに行くと、既に相馬はデスクにいる。こいつは俺よりも後に来る事がない。前に「そんなに早く来て何してるんだ?」と聞くと、「仕事の確認とか、昨日先輩に言われた事をもう一度確認して気に掛けるようにしています」と、後輩の鑑のような事を言ってメモを見せてくれた。  とてもスッキリとしたメモは綺麗で見やすく、俺の方が見習うべきだと思えてしまうものだった。口頭でしか伝えていない事も覚えているのかちゃんとメモしてある。そんな出来た後輩だ。 「あっ、おはようございます先輩!」 「おはよう、相馬。あの、昨日は、その……」  既に何人かは出社している。こんな人の居る場所で口にするのは憚られる。そこで俺は相馬を自販機前の休憩所へと誘った。  自販機が三台並ぶそこは広い休憩所で、適当に長椅子やテーブルが置いてある。自分の分と相馬の分のコーヒーを買って持っていくと、相馬は嬉しそうに「有り難うございます!」と言う。 「あの……昨日は本当に悪かった」  素直に頭を下げると、相馬は慌てて首を横に振ってから真新しいハンカチを出してきた。 「あの、俺の方こそハンカチとかコートとか、有り難うございました。コートは今クリーニングに出しているのでもう少し待って下さい。あと、ハンカチは流石にお返しするのは申し訳ないのでこれ、新しいの」 「そんな! 気にしなくていいぞ」  いや、まぁ、確かにちょっと気まずいけれど。  相馬は本当に申し訳ない顔をする。そして、少し哀しげな顔をした。 「俺の……その、アレを拭いたハンカチなので。気持ち悪いでしょ?」 「あっ、いや! だってあれは俺の不注意だから」 「いえいえ、事故ですって! 俺、何も気にしてませんから」  そう言いながら、相馬はほんのりと頬を染める。彼は色が白いから、僅かな変化が見分けやすい。  可愛い、かもな。  不意に浮かんだ言葉を、俺は必死になって消した。 「それと、埋め合わせしたいから今度何か奢らせてくれ! 食べたいものとか行きたい店とかあれば」 「そんな、悪いですよ!」 「俺がしたいんだ」  遠慮する相馬に俺は言い募る。すると彼は少し考えて、小さな声で呟いた。 「あの、本当にいいんですか?」 「あぁ、勿論!」 「それなら俺、先輩がよく連れて行ってくれる居酒屋に行きたいです」 「え? あんな安い所でいいのか?」  俺が時々相馬を連れていく居酒屋は個人経営の古い居酒屋で、価格帯も安め。昔ながらという感じの場所だ。確かに料理は美味いし賑やかだが、お詫びに連れていくような場所じゃない。  だが相馬はにっこりと笑って、「あそこがいいんです」と言ってくれた。 「それなら今日、行くか?」 「いいんですか!」 「あぁ」 「今日一日頑張れます!」 「大げさだな」  苦笑する俺の側で、相馬は言葉通りに嬉しそうに笑う。こういう素直な所が可愛いと思えてしまうのだ。 ◆◇◆  その日の終業後、俺は相馬を連れていつもの居酒屋へと向かった。一階はオープンだが、二階は座敷で一応襖で仕切れる。とはいえ壁も薄いので声はそのままダダ漏れだ。 「かんぱーい!」  上機嫌の相馬がジョッキに口をつける。そうして半分位を飲み干すと、彼の肌はほんのりと赤くなった。 「おいおい、あまり飛ばすと酔うぞ」 「酔ったら先輩に介抱してもらいます」 「えー」  まぁ、結局はするんだが。  苦笑する俺。その目の前でいつも以上に上機嫌な相馬。いつもより可愛く見えてしまうのはどうしてだろう。  頼んだ料理も運ばれてくる。お任せ串10本セット、刺身5点盛り、たこわさ、枝豆小鉢。まずは酒のおつまみだ。 「俺、たこわさって苦手です」 「そうか?」 「辛くないですか?」 「んー、多少?」  なんて何でもない会話が出来るとホッとする。嫌われなくて良かった、なんて思ってしまう。  ある程度酒も進む。俺も少しだけ気持ち良くなったし、相馬もそんな様子だ。 「先輩、お酌しますよ」  生から日本酒に切り替えた俺の隣に座った相馬が注いでくれる。 「そんな気を回さなくていいんだぞ」 「俺がしたいんですよ」 「パワハラ上司とか言わないでくれよ」 「言いませんよ。なんなら、セクハラしてくれてもいいんですよ?」 「おいおい」  今のご時世けっこう煩い。冗談にしても笑えない。俺は苦笑いだが、相馬はどこか残念そうだ。 「本気ですけど」 「今のご時世煩いの知ってるだろ?」 「して欲しいって言うのもダメなんですかね? あっ、俺がセクハラしてます?」 「まったく、酔っ払い」  本当に、質が悪い。  今の相馬は俺の目に、なんだか色っぽく映っている。肌は上気しているし、アフターなんだからとネクタイも外した。トロッとした目も、少し甘えるような口ぶりも全部が俺を刺激する。  近くで見ると本当にこいつは顔がいい。そんな奴が俺を慕ってくれる。それだけで俺は勘違いしてしまいそうだ。 「先輩」 「どうした?」 「俺、昨日の嫌じゃなかったんです」 「!」  近い距離は上司と部下のそれではない。もっと近い……そう、恋人のような距離だ。潤んだ瞳はきっと酔いのせいに違いない。この会話だって酔っているんだ。  そう言い聞かせなければ、俺がどうにかなってしまいそうだった。 「俺、なんだか変なんですよ」 「なにが?」 「先輩が近くにいると、凄く嬉しくて。褒められた日なんて興奮で眠れなくて」 「そんなにか!」 「……昨日の事、あの場ではパニックになってしまいましたが、家に帰って冷静になったら俺……嫌じゃなかったなって」 「え?」 「いえ、むしろもっと触って欲しかったのかもしれません」  とんでもない事を言う相馬を、俺はマジマジと見た。真剣な目をしている。これは冗談を言う人間の目じゃない。  俺は、どうだった。いや、加害者だから思い切り反省と謝罪ばかりだったけれど……でも、気持ち悪い奴だなんて思わなかった。むしろトロッとした相馬の目や上気した肌を見て俺は……。 「俺、先輩の事が好きなんだと思います。気持ち悪い、ですか?」 「っ!」  覗き込むようにされて、俺は逃げるように身を引く。座ったまま後退ったが狭い一室だ。直ぐに壁に背中がつく。そこを前から相馬が迫るのだ、逃げられるわけがない。 「先輩」 「っ」  切ない視線、触れる手はほんの僅か震えている。俺は、どうしたらいい。嫌いじゃないんだ、この期に及んで。今まさに勢いに任せてキスでもしてしまいそうなのに、拒む気持ちが少なすぎる。その僅かにある拒否も「こんな場所で、こんな酔っ払ってキスなんてしていいのか?」とか、「俺、責任取れるのかよ」とか、そういうことだ。男同士だ、上司と部下だという部分ではない。  肩に手を置かれて、迫る唇を見つめている。ダメだ、キスしてしまう。思ってギュッと目を瞑った。その時、俺の背中から強く壁を叩く音が響いた。 「あっ、すみません!」  煩くしてしまったんだろう、俺は咄嗟に顔を捻って謝罪した。それだけで、この緊迫した空気は霧散してしまった。  冷静になると、気まずい。結局この日は〆にお茶漬けを食べて解散になった。
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