湖上に消えゆく

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 墓参りをして湖畔のベンチに座ると、線香の匂いが湖上に流れていった。ここに妻と両親が眠っている。妻はガンとたたかって、逝った。もうすぐ十七回忌になる。子どもたちも、まあいろいろあったが、無事に学校を終え巣立っていった。思い出せば、悲喜こもごもが交錯する再生の道のりだった。  妻の闘病からすれば、認知症を患った父はあっけなく旅立っていった。生まれ故郷に帰るとでもいうように、うれしそうに手を振って逝った。母は脳梗塞の尾を引いて、父の五年後に旅立った。  湖を眺めていると、そんなことが思い出される。胸の痛みをやりすごすために座るようになったこのベンチも、いつの頃からか、ぼんやりと時をすごす憩いの場所になっていた。湖面には初夏の陽光がきらめいていた。 「こんにちは」  ふいに背後から声をかけられた。振り向くと、着物姿の女性が立っていた。あざやかな紺色の着物とすこしかすれた声に覚えがあった。 「奥さんのお墓参り?」 「親父とお袋のも」 「そうだったわね。ごめんね、行けなくて、お葬式。おとなり、いいかしら」 「もちろん」 「ありがとう」  真理子が腰を下ろした。衣擦れの隙間から焚き染めた匂いが立つ。記憶をくすぐる匂いだ。 「来てもらっても合わせる顔がなかった。それより、きみはどうしてここに?」 「あなたに会いに」 「おれに?」 「うそ」  と真理子は笑った。顔を見ずとも笑顔は思い出せる。よく笑う人だった。その笑顔にどれほど支えられたことか。 「お墓参り。家のお墓もここにあるの」  誰のと開きかけた口を閉じて、湖面に目を走らせた。それをきける間柄では、もうない。離れた桟橋の近くにボートが浮かんでいた。男とおぼしき影がひとりオールを漕いでいた。 「ねえ、覚えてる?」 「なにを?」 「この着物」 「覚えてるよ。忘れるはずないだろう」  それは二度目にふたりで逢ったときに着てきた着物だった。艶やかな姿に思わず息を飲んだ。そして、ジーンズに小花模様のシャツという普段着並みの自分とあまりに釣り合いがとれなくて、申し訳ない思いをした。  それを話すと、「そんなこと気にしないで、あたしが着たくて着てきたんだから」と首を振り「それに、男の人は着物が好きでしょ」と意味ありげに言い添えた。程なくしてその意味を知ったとき、真理子の意気に心が震えた。自分にもまだこんな思いができるのだと舞い上がった。と同時にそれを教えた相手に、そして真理子が受け入れた男(男たち)にはげしい嫉妬をおぼえた。が、そのことは話さなかった――度量の狭さを露呈するようで、話せなかった。  それからも真理子はときに風雅に、ときに妖艶に、髪を上げて季節の趣をまとってきた。その度に、知り得たようで知り尽くせない真理子という女の深さを知った。  湖上の男はオールを漕ぎつづけていた。男からは自分たちが見えているだろうか――ふと、そう思う。相変わらずバランスの悪い出で立ちの自分たちが。 「うれしいな」 「なにが?」 「そういうことも思い出してくれて」 「って、わかるのか何を思い出してるか」 「わかります。なおくんのその顔。何年つき合ったと思ってるの」  真理子は口をとがらせた。この表情もなつかしい。足掛け十年。こちらの暦でいえば妻を亡くして四年経った秋から、母を送った三年前までになる。祭りの役員会で知り合い、打ち上げの晩に意気投合して、魔が差した。その時点では、自分が男やもめであることも、真理子が夫と別居同然の暮らしをしていることも、互いに知らなかった。ある意味でフェアであったと言える。  体だけだったらこんなに続かなかったわ、と真理子はよく口にした。人に知られたら、いい年をしてと嗤われる自分たちが十年も続いた。そこには、たしかに体の快感だけではない理由があった。一度ならず、溶け合ったまどろみの中で数え上げたものだった。 「なんでも話せる」 「その通りよ。こんなこと初めてなの。男の人に気を遣わないで話せるなんて。あ、でも、なおくんのこと――」 「大丈夫、わかってる。おれもそうだから」 「すごく安心できる」 「そして、おれたちはお互いのことを大切にしたい、相手を尊重したいと思ってる」 「それもすごくいい。あたしの都合でデートの予定変えてもらっても、なおくん絶対嫌な顔しないでしょ。それはとてもありがたいの」 「お互いさまじゃないか。おれだって変えてもらってる。ほかのことも、遠慮したり気を回したりしないで、対等な感じでつき合えるのがおれは本当に気持ちがいい」  そんなピロートーク。それは実を結べない縁の純粋さだった。束の間でも、日々のしがらみと役割を脱ぎ捨てた安堵があった。  湖上のボートは湖の中ほどを進んでいた。いったいあの男はひとりでどこまで行こうとしているのか。オールを漕ぐ手の動きはもう見えなかった。 「真理子」 「はい」 「ごめんな」 「なにが?」 「結婚してほしいと言えなかった」 「なら、あたしも」 「なに?」 「離婚できなかった」 「たしかに」 「そうね」  自嘲とも諦観ともつかない笑みがこぼれる。そう、それでよかったのだ。それぞれに家庭があり、仕事があり、世間のつき合いがあった。夜、電話で話し、予定を合わせて遠い街で呪縛を解いた。真理子も自分もそれ以上は望まなかった。  三年前、脳梗塞に倒れた母に半身麻痺が残った。施設には行きたくない、この家で死にたいと母は長い時間をかけて言った。時を重ねるように、真理子の長女が幼い子どもを連れて家に戻ってきた。定期的に逢うことはおろか、ゆっくりと電話で話す時間さえ消えていった。文字のやりとりからも精彩が失われた。  別れはこちらから切り出した。真理子を思いやってのことだったのか、自分が耐えられなくなってのことだったのか、その比重は今になってさえわからない。真理子は「はい」とだけ答えた。十年の恋だった。  雲を追って初夏の風が湖上を渡る。ボートは沖へ沖へと進んでいた。漕ぎ手の姿はもう見えない。  「ねえ、なおくん」 「ん?」 「そろそろ、行かないと」 「そうなのか」 「うん」 「真理子、おれはやっぱりおまえが好きだ」 「照れるからやめて」 「今度はおれの子を産んでほしい」 「だめよ、ここでそういうことを言っては。向こうに着いてからね」 「わかった」  新しい線香の匂いが運ばれてきた。墓地には幾組かの家族連れがあった。誰もいないベンチを真理子の孫たちが怪訝な顔で見つめていた。
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