ブリンスミード・ストリート

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私は手に持ったビールの空き缶を軽く振った。中に入ったゴミが遠慮がちにカサカサと小さな音を立てる。中を満たしていたビールは、もう一時間以上も前に飲みほしてしまっていたが、私は近くにあるゴミ箱に捨てられずにいた。立ち上がって捨てに行くのが面倒ということもあるが、空き缶の中で頼りない音を立てるゴミと、今の自分を重ね合わせてしまい、妙な親近感を持ってしまったのだ。  正直に白状すると、不覚にも二言三言話しかけてみたりもした。断っておくが、他愛のない挨拶のようなものだ。もちろん返事など返ってくるはずもないのだが、私は自分で空き缶を振ってカサカサという些細な相槌を作りだし、満足していた。  先月、長年勤めていた会社から突然リストラを言い渡された私は、その事実を受け入れられず、また妻に打ち明けることも出来ずにいた。文字通り、抜け殻のようになってしまったのだ。なぜ自分がリストラの対象になったのかも考えず、そして次の仕事を探すわけでもなく、私はただどうやって毎日をやり過ごすか、それだけを考えて過ごした。  朝、背広を着ていつもと同じ時間に家を出る。電車に乗って街まで出ると、もうどうすればいいのか分からない。仕方なくカフェに入りコーヒーを飲み、漫画喫茶に入って時間をつぶす。長くて暗い一日の繰り返しだった。  そんな生活を二週間ほど続けたある日、たまたま立ち寄った古本屋で昔の漫画を読み、そこに登場するキャラクターの、眼は前進する為に前についているんだというセリフに感動した私は、第一歩として妻にリストラの事実を打ち明けた。  私がささやかながらありったけの勇気を振り絞って真実を打ち明けた時、彼女は驚きや失望、軽蔑といったあらゆる負の感情を一緒くたにしたような表情で、私をまじまじと眺めた。動揺を隠そうともしなかったが、しかし何を言うでもなくそのまま寝室に入ってしまった。  私は体中の穴という穴からエネルギーが抜けで行くのをひしひしと感じ、その夜は妻とは違う部屋で寝ることにした。とてもじゃないが、同じ部屋で寝る気にはなれなかったのだ。
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