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「ねえ、都賀くんは自分のこと、覚えてる?」
僕らは今、深夜三時の街灯に照らされた先を目指して、疲れた足を未来へと進めて、ゆっくりと歩いている。ただ、前に続いているロードを見据えて、ひたすら進んでいく。
「覚えているけど、思い出したくないかな」
「そうだよね。だから私たちは、こうやって前に進んでいるんだもんね」
僕の隣で、眠そうな顔をしながら歩く遥は、先ほど両親と絶縁をしたばかりだった。
『すべて捨てたい』
そう言った彼女の声は泣きじゃくったせいで枯れていた。だから僕は電話越しに彼女に言った。
『なら、僕と一緒に飛び立とうか』
吹き続ける真夜中の青嵐が、僕らの錆を削ぎ落としていく。純粋な心を取り戻しつつある僕は、辛い過去を捨てるためにあえて吐露する。
「八歳のころ、突然父親が死んだんだ。恐ろしいけど、父は多額の借金を背負っていて、生きていることが恥だったみたいだ。それで、東京の一等区のマンションから見事に飛び降りた。まるで白鳥のように優雅に舞いながら、後に真っ赤に染まることを覚悟してね」
「都賀くんは、その様子を見ていたんでしょう?」
僕はうなずく。
「父が『今日は父さんが派手なショーをするから見ていてくれ!』って僕を誘ったんだ。全く、狂気的な思考にもほどがあるよ。それで、僕はその様子をビデオに収めて、帰って母に見せたんだ。そうしたら、満面の笑みを浮かべていたよ。どうしてかわかる?」
遥は僕を見つめ、ぼんやりと光る街灯の下で、寂しそうな表情を浮かべる。
「言いたくないけど、死んでよかったって思ったから、でしょう?」
「その通り。母はずっと夫のことを恨んでいたんだ。死んでくれてありがとう。そんな不謹慎な言葉さえ口にできる母を見て、僕は一層母が好きになったよ」
僕はポケットに忍ばせておいたマルボーロに火をつけ、歩きながらタバコにキスをする。
「でも、都賀くんはそんなお母さんを捨てた」
「捨てたわけではないよ。母は勝手に消えてしまったんだ。愛おしい人を見つけたって言ってね。歳の離れた姉と十三になったばかりの僕を置いて、これもまた突然姿をくらました」
だんだんと、潮の独特な香りがしてくる。汗でベタベタとしてくる身体に、わずかな解放感を与えてくれる。
「都賀くんのお母さん、きっと過去に疲れていたんだよ。だから未来に希望を抱いて、消えたんだと思う」
「そうだろうね、きっと」
僕は終わりの近い街灯を指差す。
「光って素敵な言葉だって認識がある。僕の母も、そんな希望の光を灯すはずだったのに、誤って爆発させちゃったんだ。でも、それがまた美しい輝きを放っていたんだ」
僕の母は、僕の目の前から消えた三ヶ月後に火事で死んだ。たまたまニュース番組で映像を見ることができたが、煌めく炎は幻想的で、きっと金閣寺が燃えたときも、こんな燦爛とした光景だったのだろうと想像した。
「お姉さんは?」
虚な目で訊いてくる遥に、僕は戯けた笑顔で答える。
「姉は流石に生きているよ。まあ、まともな生き方はしていないけどさ」
「そう、なんだ」
「やっと近づいてきたよ」
僕らは終わりを迎えた道の先にある階段を降りて、真っ暗闇な海岸へとたどり着く。
「終点だね」
「そうだね。僕らの終わりには素晴らしい場所だと思うよ」
僕らはしばらく波立つ世界の脇を踏みしめながら散歩する。生と死の境界線を交差しながら、各々の過去にサヨナラを告げようとする。
「実は僕自身、自分のことはそこまで覚えていないんだ。特に楽しかった人生ではなかったし、だからといって辛かったわけじゃない。ただ、死と向き合うことが多かった気はするよ。そのせいで、忌まわしい過去になってしまっている。きっと楽しいこともあったはずだけど、それらもすべて不幸の波に拐われてしまった」
遥は無言のまま、砂利を蹴り飛ばす。
「私は、生きたままの両親が憎くて憎くてたまらないの。私を虐めて、苦しめるあの二人を絶対に許さない、許さない」
遥はしゃがみ込み、嗚咽を漏らして可能な限り泣き続ける。僕はただ、絶望の淵で死を待つ彼女を眺めながら、二本目のタバコに火をつける。その部分だけ、ぼっと明るくなる。
「都賀くん、もう終わりにしよう。全部、この波にさらってもらおうよ」
遥は立ち上がり、海へ飛び込もうとする。
「少し落ち着いて、遥。死ぬのにそんな乱れた顔じゃあ、あの世に逝っても幸せにはなれないよ」
「でも」
「これ飲んで」
僕は錠剤の薬を差し出す。
「なにこれ?」
遥は目を擦ってそれをじっと見て首を傾げる。
「こいつは精神安定剤だよ。僕は荒んだ過去を捨てて未来に行きたいんだ。だから、遥もこれを飲んで少し落ち着いてよ。過去を置いて、一緒に逝こうよ」
遥は少し怪訝そうな顔をするが、「わかった。都賀くんが言うなら、私は従うよ」と、僕の指示に従ってくれた。
「水は持っているから、それで飲んで」
「ありがとう」
遥は錠剤を口に入れ、水で流し込む。ゴクンと飲み込む音が響く。
「それにしても、今日は随分と穏やかな波ね」
遥が永遠に続く真っ黒な海原を見て言った。
「風は少し強いけど、波は死ぬには相応しい。過去を捨てるには持ってこいだね」
「うん」
すると、遥はだんだんフラフラしてきたようで、足に力が入らなくなってその場に座り込む。
「なんか、私、眠くなっちゃった」
「大丈夫?」
「うん、多分」
僕も遥と同じ目線になって、遥の頭を僕の方に寄せる。
「きっと歩き疲れたんだろう。少しお休み」
「いやだ、これから私は死ぬのに。この世からサヨナラしたいのに……」
遥の意識はここで途切れた。僕はその場で三本目のタバコに火をつけ、もう片方の手でスマートフォンを操作する。すぐに返信があり、僕は遥を背負って先ほど登った階段をゆっくりと登る。
「遥、お前随分と重くなったな」
僕は独り言を呟いて、暗闇の中で苦笑する。
階段を上り切った目の前には車が止まっている。運転席の窓が空いて、「後ろ、倒してあるから」と言われたので、僕は後ろの席に遥を寝かせて、助手席に乗る。
「遥ちゃん、どこまで連れて行けばいい?」
運転席に乗っている眼鏡をかけた女性が僕に問う。
「遥は今日、きっぱり過去を捨てた。今あるのは未来だけだ。だから、なるべく遠くに行ってほしい。そこで、僕と新しい生活をする。新しい『家族』を作りたいんだ」
「そこに、私も混ぜてくれる?」
僕の隣に座る、歳の離れた姉が少し寄り添う。
「もちろん。僕は唯一の家族を捨てたりはしないよ」
「ありがとう、潤」
車は先ほどまで歩いてきた道を無視して、別方向へと進んでいく。ほとんどすべての過去を捨てて、ほとんどすべての去りし日々を殺していく。だけど、その中にある一つの宝石だけは、まだ見えぬ未来まで持っていきたい。はるか遠くまで、僕は彼女と生きていたい。終わりなき旅は、まだ始まったばかりだ。
「ねえ、潤。曙光が見えるよ」
「本当だ。眩しいね」
今日も夜明けが来る。僕はその光を見つめながら、少しだけこの先の人生に希望を抱いてみる。
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