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「なんでだよ……」
アパートで目を覚ましたら女になってた。意味が分からない。
ペタペタと身体を触る。むにむに。
「……」
最近はもう少しで夏ということもあって大分暑くなってきた。だから寝る時はトランクスとタンクトップのみだ。要するに脂肪の塊が脱がなくてもむにむになのだ。
「……アホくさ」
しかし自分のだと思うと空しいだけである。
バっと立ち上がる。
寝起きだから喉が渇いてる。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、ゴクゴクと飲む。おいしい。
オレンジの甘みとすっぱさが、まだ半分くらい寝ていた脳を刺激する。
ちょっとシャキっとしてきた。改めて状況を整理しよう。
俺の名前は、南雲薫。歳は19の大学2年。そしてほぼほぼ引きこもり。うん、いいね。
で、昨日寝る前までは男だったのに今は女。うん、おかしいね。
落ち着け。もうちょい具体的に思い出してみよう。
昨日は……昼前に起きて食パンにマヨネーズ掛けたやつをオレンジジュースで流し込んで、その後は……スマホで動画サイトをフラフラして……いつの間にか寝てたな。
「うわぁ」
我ながらこれは駄目人間の鏡。
でもなぁ、大学とかバイトとか人の中には行きたくないし……ん?
「あれ? なんで嫌なんだっけ?」
人が嫌いってのは確実なんだけど、その原因が曖昧だ。
「……劣等感だよな、多分」
俺ってば勉強も運動もコミュニケーションも苦手だからいつも劣等感がある。大学でも(約1名の例外を除くと)ガチで友だちもいないし、授業に付いていくことも難しくて……。
「なんかスッキリしない」
間違ってはいないと思うけど100点満点の解答でもない感じ。
ここであることに思い至る。
「……つーか、これって記憶喪失ってやつじゃねぇか!」身振りに呼応し、ぷるんと揺れる。
さらに俺のちんまい脳みそに電流が走る!
記憶喪失に性転換? そんなの答えは1つしかないじゃないか! なぜ気づかなかったんだ。
そう、TSの原因は──。
──ピンポーン。
あ、颯人が来たかも。
颯人は幼稚園児のころからの幼なじみ──俺の唯一の友だちだ。高校だけは別だったけど、それ以外はずっと一緒で今も同じ大学に籍を置いている。ちなみに俺は商学部で颯人は法学部だ。
そんな颯人がポカンと口を開けている。ややあって再起動。
「宇宙人に改造されたって……お前バカか?」
「いやいやいや名推理だろ」
TSの原因、それは宇宙人だったのだ!
奴らは何らかの目的で俺の身体を弄り、さらに宇宙人の存在を覚られぬように記憶を消した。その影響で宇宙人とは関係のない部分──引きこもりの理由にまで若干の混乱を来したんだ。
素晴らしい推理である。
しかし颯人は信じられないのか、疑いの目を向けている。まったくこやつは。
「だってそうでも考えないと説明できないじゃん。常識的に考えて、一晩で女に変えるなんてあり得ないっしょ」タンクトップを脱ぐ。「見ろよ、この胸。どっからどう見ても本物だぜ」
結構デカイ。宇宙人はおっぱい星人だったようだ。ふむ。案外地球人と仲良くやれるのでは?
「……」
颯人の視線が俺の顔とおっぱいを行ったり来たり。そして口を開く。
「嫌じゃないのか?」
どうやら俺があまりにもケロッとしてるのが気になるらしい。まぁ気持ちは分かる。
「嫌じゃないっつーか、今はまだ実感が湧かないんだよ」おっぱいの先っぽを弾く。「現実感がねぇよ、こんなの」出来の悪い3Dアニメを観てる気分だ。
すぐに現実として受け入れることができる奴なんて滅多にいないと思う。パニックにならないだけマシだろう。
「そう、か」颯人の困ったような、腑に落ちないような。
なんだ? 変な顔して……は! またしても冴え渡る頭脳!
ニヤリとしてやる。
「お前エロいこと考えてんだろ。分かる分かる。今の俺ってば可愛いもんな、うんうん」わざとらしく胸を寄せる。「こんな感じか? ほら、少しなら触ってもいいぞ」だいなまいとぼでーあたっく! ……なんか普通にプロセス技にありそうだな(?)。
しかし効果は今一つのようだ。颯人はクソデカ溜め息。失礼なやっちゃなー。
「それで薫はどうしたいんだ?」
颯人がコンビニで仕入れてきた補給物資をパクつく。今は午後2時過ぎ。ちょっと早めのおやつ(兼遅すぎる朝食)である。
「どうって、そりゃあ男に戻りたいけど」当たり前だろ?
颯人が腕を組む。「うーん、でもどうやって? 病院に行って性転換手術をしてもらうくらいしか思いつかないぞ」
「宇宙人を捕まえる」
颯人氏、本日2回目のクソデカ溜め息。「それこそ手段がないだろ」
「それなぁ」
困った。お菓子がなくなった。……おや? 袋の中に颯人の好きなトッポー(はちみつレモン味のお菓子)があるではないか。
腕を蛇のようにくねらせ、サッと掠め取ろうとし──サッと手首を掴まれた。
「やらん」
「腹減ってんだよ。くれよ」クレクレ魂発動!
「冷蔵庫に何もないのか」
「マヨネーズとオレンジジュースはある。あとストロンガーゼロ」
「……買い物行け」
「えーだりぃ。颯人が買ってくるからいいk──! いたたた!」手首を捻られた。「ごめんて」
客観的に見ると、薄着の女の手首を捻り上げる男の図である。犯罪臭が凄い。
それから俺たちは、元に戻る方法を探すためにネットサーフィンを嗜んだり、宇宙人が登場する映画を観たり、TSモノの(エロ)アニメをガン見したりした。
しかし……。
「駄目だ。まったく分からん」
「まぁ、遊んでるだけだからな」
しゃらっぷ!
「俺は至って真剣だっつーの」真剣にエロ(アニメ)を鑑賞していたのに酷い言い草だ。
「でも分からないんだろ?」
「おう」
「なんでそんなに偉そうなんだよ……」
「さぁ?」
「別にいいが、実際どうするよ。このままだと女の身体で生きていく羽目になるぞ」颯人が腕組み──いつもの癖だ。「やっぱり病院行くか?」
「うーん」
病院はなぁ。いろんな奴にジロジロ見られたり、観察されんのが嫌なんだよなぁ。だからあんまり気が進まない。
それに現代の医療技術で完全な男になることはできないらしい。難しいことは理解できないから、もしかしたら可能性があるのかもだけど、普通に考えて無理じゃないかな。
だって俺の股関にアレの面影は皆無だ。この状態から伸縮自在なアンチクショウがこんにちは(?)する様はちょっと想像できない。
「……もしかして詰んでる?」
「現実的に考えたら妥協が必要だとは思う」
颯人が言ってるのは現代技術の範囲内で我慢するか、この身体のまま生きていくかの2択しかないよってことだろう。
分かるけどよ、それしかないのはさ。
「はぁ」
これは俺の溜め息だ。
あーあ、やだなぁ。なんだよ、女って。ねーよ。頭ん中は男なのに急に女の身体にされるって、割とマジでエグい拷問じゃん。最悪だよ。
「おのれ、宇宙人め。見つけ次第八つ裂きにしてくれるわ」
「……辛いかもしれないが、こればっかりはな」
「分かってるよ」
とはいえ、納得はできない。だがこれが現実。あーあ。
「……」
……気晴らしに酒でも呑むか。よし。
「酒とツマミ買ってきてくんない?」
「薫は来ないのか?」
「俺は『俺の幼なじみ♂がこんなにエロい♀️わけがない』を観て栗イキしなきゃいけないから無理」
「なぁ。実は楽しんでないか?」
「あー、男に戻りたいなぁ。辛いなぁ」
「……はぁ」溜め息職人颯人。「買ってくる」
「サンキュー↑」
颯人の買ってきた酒(ストロンガーゼロとぼろよいとビール)とツマミ(チーズのお菓子とポテチ)で宅飲み開始だ。
「いやぁ、エロアニメも悪くないわぁ」
今まであんまり観たことなかったけど、なかなかどうしてよく出来ている。
「……マジでしたのか?」
「おう。当たり前だろ」酒を流し込む。「まぁでも、あの感覚で合ってるのかよく分かんねぇんだよな」
女のイク感覚なんて知らねぇし。
「そういう感じなのか」
「うん」……は! さては。「俺の痴態に興味があるんだろ」にやにや。
この男、真面目そうに見えてただの変態だったか。ないわー。「ガワは女だけど中身俺だぜ? 引くわー」
「あるぞ」
「え゛」
颯人が唇を舐める。「お前、俺に借りがありまくりだよな?」
「え゛」
「偶には返してもらわないとな」颯人が徐に立ち上がる。
背の高い颯人を見上げる。威圧感。
「お、おい」
「ゴムはないがまぁいいよな?」
鬼畜かな?
後ずさる。しかし狭いアパートだ、すぐに壁にぶつかってしまう。電灯が逆光となり、颯人の顔を見ようとするも目がチカチカと。
今まで颯人に対して感じたことのない感情が湧き上がる。
「ややややめろ。おま、おま、落ちつつついてよく考えろ」
颯人の手が眼前に迫り──。
「いたっ」
デコピンされた。
「冗談だ」颯人が鼻で笑う。「やるわけないだろ」
こ、こいつ……。
「ふ・ざ・け・ん・な」ゲシゲシと脛を蹴る。
しかし効いているのかいないのか颯人は平気な顔のままだ。
「すまんすまん」
俺の蹴りをあしらい、元の位置──クッションに座り直した颯人が、チーズスナックの袋を開ける。
「これ好きだったろ。買ってきてやったんだから許せよ」
ひし形のお菓子へ手をのばす。うまうま。9%のチューハイを呑む。
「ふー、仕方ないのぅ」
ちょっとびっくりしたけど、酒が旨いからオッケーっすわ。
こうして夜は更けていく。
幼い俺と颯人が幼稚園の砂場にいる。それを空中から見下ろす今の俺。
──なんだこれ?
幼い俺が砂で出来たスフィンクス(なかなか細かく作り込まれている)を崩しながら言う。
「大人になったらみんな結婚するのかなぁ」
──あ、これ夢だ。昔の記憶をベースにしてる感じ。
幼い颯人が答える。
「わかんない。大人は大体結婚してる気がするけど、さくら先生はしていないし……」
「でも、さくらも『早く結婚したい』っていつも言ってるよ」
──思い出してきた。30前で焦ってたわ、さくら先生。結局俺たちが卒園する時も独身だったけど、流石にもう結婚してるよな……してるかな? できてるといいなぁ……。
不意に颯人が「あ」と声を漏らす。
「そういえば母さんが『いい歳して独身でいるのもセケンテイが悪いからお父さんと一緒になったの』とか話してた」
──おい。秋子さん幼稚園児に何教えてんだよ。
「セケンテイって何」幼い俺には難しいらしい。
「知らない」颯人も同レベルだ。
「ふーん、でもやっぱり結婚しなきゃいけないっぽいね」
「そうかもね」
──こいつら幼稚園児だよな? ちぃとマセてやしないか?
微妙に嫌そうな顔の幼い俺。このころから結婚したくなかったのかもしれない。よく憶えていない。
「じゃあ颯人と結婚する」
──は?
「は?」
図らずもショタ颯人とシンクロ。
──昔の俺は何を言ってるんだ。
「なんで俺なんだよ」颯人が疑問を呈する。「しかもなんでそんなに変な顔してんだよ」
「だって結婚したくないもん。それでもしなきゃいけないなら颯人が一番マシかなって」
──いやいやいや! 色々おかしいって。どうして男同士で結婚っていう発想になるんだよ。つーか、こんなに酷い幼い日の約束(まだ同意はない)も中々ないだろ。
「変な奴」颯人の尤もな感想。「まぁいいけどさ」
──いいんかい! なんでやねん!
「うん、ありがと」幼い俺が微笑んだような不貞腐れたような。そして何かに気づく。「あ、苗字は俺に合わせろよ」
──自分のことながらなんて奴だと言わざるを得ない。起きたら少しは颯人に優しくしてやろうそうしよう。
「それはヤダ」
──そこは駄目なんかいぃ!
「あ゛?」
「お?」
──ひぇぇ……。
2人のケンカを眺めているとボヤけてき……。
心地よい微睡み。意識がはっきりしない。眠い。
ふと、頬に温い何か。
「気持ち……うに……がって」颯人の声だ。
なんだろ。よく聞こえない。
しかし顔を撫でられる、くすぐったい感触に段々と眠気が消えていく。
「ホントに可愛いな」今度はちゃんと聞こえた。「昔から俺がどれだけ我慢してるか分かってんのかね」
「……」
起きようと思ったけど、踏みとどまる。なんとなく怪しい雰囲気。寝たフリをする。
「ちっちゃいころは結婚するとか言ってのになぁ」
それに関しては申し訳ない。いやマジで。
唐突に頬の熱──颯人の掌が離れる。
足音が遠ざかり、ガチャリと玄関扉の開閉音。どうやら外に行ったようだ。
ムクリ、と身を起こす。
「昔から……?」
どういうことだ? 昔から嫌々俺と友だちやってた、とか?
「……違うよな、多分」
「可愛い」ってそのままの意味だよな。じゃあ「昔から可愛くて襲うのをずっと我慢してた」っつーことか。
「……マジ?」
つまり颯人はガチホモだった、と。昔から俺を恋愛対象として見てた、と。
びっくりだわ。人生で一番驚いたかも。
「いや待てよ」
今の俺は女だ。それでも俺に欲情(笑)するということは……。
閃光のごとき気づき! 真実はいつも一つ!
分かってしまった。そういうことだったのか……!
拳を握る。
「颯人は両刀使いだったのだ!」
「ちげぇよ」颯人が帰ってきた。
「あ、おかえり」
「なぜ衝撃発言がなかったかのような態度を取れるのか」
「大丈夫。俺はマジョリティに理解がある」
「マイノリティな」
「……」
こまけぇこたぁいいんだよ!
あの夜から颯人は変わった……なんてことはなく、今まで通りユルくて疲れない関係のまま。それはプカプカと海に浮かぶ、糸の切れた疑似餌のように自由で将来の見えない、そんな悪くない日々。
今日は颯人は来ない。というか1週間くらいは予定が詰まってるって言ってたから、暫くは1人だ。
珍しく早起き(朝10時起床)したというのに暇で仕方がない。
当然の流れでスマホを触る。
「……」
颯人のことは嫌いじゃない。好きか嫌いかなら間違いなく好きだろう。けどそれは恋愛対象としてではない。普通に友だちとして、だ。
仮に俺の名推理()が当たってたとしても、どうすることもできない。だって俺が好きなのは女だも……いや違うか。
俺は誰かに恋愛感情なんて持ったことはない。昔から人が嫌い──苦手だった。その前提があったせいか初恋だとかそんなもんは一切なかったし、多分これからもない。
だから誰ともそういう関係にはなれない。男でも女でも、俺の人嫌いの例外である颯人でも。
スマホの画面を眺める。ネットに面白いものは見当たらない。
「つまんね」
スクロールしていく。広告が鬱陶しい。
「ん」
透け感のある白いワンピースの広告画像が目に飛び込んできた。
聞いたことないブランドだ。
でも、颯人好きそうだな、これ。こーゆー女っぽいのが好みだもんなー。
「……」
おそらく今の俺なら着こなせる。
「……」
画像をタップ。
“この夏はシースルーワンピでモテコーデ”
「……」
今、着ている服(?)を見る。下、スウェット。上、Tシャツ(ブラなし)。
「……」
開けっ放しのクローゼットへ視線を向ける。
ごちゃごちゃとよく分からない服がテキトーに収納されている。トレンドをガン無視したラインナップだ。
……これは酷い。美人の一軍とは思えんな。
「ちょっと気を使ってみるか」
特に深い意味はない。強いて言えば、せっかく女になったんだから、みたいな? つっても9割ただの気まぐれだ。多分すぐ飽きる。
「大学生」「女」「ファッション」で検索。
メイクも後で見てみよう。いい暇潰しになりそうだ。
「大変よくお似合いですよ」
駅前の大衆向けブランドの服屋にて、若い女性店員がにこやかに言ってきた。
本当にそう思ってるのかは分からない。店員だもん。
「……そうですか」
「ええ。お客様は美人でスタイルもいいですから本当にお綺麗ですよ」
そんなに褒められるとまっったく信用できねー。
もう買うのやめようかな。でもネットで買うのはサイズがよく分からんしなぁ。
しゃーない、店員はキモいけど買っちゃうか。
「これ下さい」
「ありがとうございます」店員はさらに。「よろしければこちらもお試しになりませんか? きっと可愛いですよ」
商魂たくましいな!
オシャレ(笑)に目覚めて(偽)から1週間、今日は最後の仕上げに美容室に行ってきた。
さっき美容師のねーちゃんにニッコニコで見送られたところだ。つーか、終始ニヨニヨしててちょっとキモかったわ。
なんとなく横を向く。ショーウィンドウに映る自分と目が合った。
シースルーの花柄ワンピにストラップサンダル。髪は元々短かったのもあってベリーショートとショートの中間ぐらいだ。
うん、めちゃくちゃ夏っぽい。まだ6月だけど。
「さて、颯人はどんな反応するかね」
ちょっとしたドッキリだ。
珍しく外で待ち合わせだ。この時点で何かあると疑われて然るべきだろう。
駅前の本屋で待ってると颯人が入り口を潜るのが見えた。店内をぐるり、と見回してから雑誌コーナーに移動。つまりは俺の近くだ。
颯人は釣り雑誌を手に取り読み出した。
「……」チラ。
「……」ペラ。
「……」チラチラ。
「……」ペラペラ。
いや、気づけよ! 隣! 隣に目的の人物がいるから!
「……」
だ、駄目だ。全然気づく気配がない。
仕方ないのでこちらから話し掛ける。
「おい」
「?」颯人が俺へ顔を向ける。そして固まること数秒、漸く言葉を吐き出した。「嘘だろ……」
「ふふふ」
いい反応だ。欲を言えばもっと大袈裟なリアクションのほうがよかったが、及第点ということにしてやろう。
「どうしたんだよ。まさか本当に宇宙人に頭を弄られたのか……?」
「それは分からんけど」キメ顔(モデル的な意味で)を作る。「この感じ、どうっすか?」
「可愛いとは思う」
あっさりしてんな。もっとなんか面白いのないのか?
……あ、閃いた。
「早く行こう」素早く颯人の手を握り──熱っ──歩き出す。
「……」
颯人の外見に変化はない。が、肌から伝わる熱量はその内心を物語っている……のか? 普通に気温が高いせい?
ま、いっか。
颯人がいつもの声音で言う。「もう分かったって。いつまで手繋いでんだよ」
「ずっと?」
「なんでだよ」
「嫌なんか?」
俺が颯人の立場なら……うん? 嫌、なのか? 俺を好きになる奴の気持ちはよく分からんけど、俺の感情も分からんな。駄目だこりゃ。
でも──。
「嫌ってほどじゃないが……」
やっぱ照れてんだろ、これ。おもしろ。
颯人との事実上のホモデート(偽)の日から1週間が経った。
あの日からちょくちょくメイクしたりして颯人で遊んでる。すぐ慣れてスレた反応になるかと思ったけど、今のところ、そうはなっていない。
それはそれとして、最近は以前よりはよく外出できていると思う。記憶がなくなったのが良かったのか、人に対する嫌悪感が減ったのかもしれない。比較対象が霞がかっているから正確には分からんけど。
でも、これは好都合なんじゃないか、と俺は思う。この調子で外出を重ねていけば大学にも行けるようになるかも、とか思ったり思わなかったり。
流石に永遠に引きニートを続けるわけにはいかないからな。
ただ「男の身体に戻る」=「記憶が戻る」だった場合は少しだけ困る。記憶が戻ったらまた人嫌いが悪化する可能性があるからだ。
俺の場合、額面通りに人が嫌いってだけじゃなくて、なんというか不快感が湧くんだ。普通に吐きそうになるし、前は動悸のようなものもあった気がする。
けど、男の身体に戻れないままなのも、それはそれで精神衛生上よろしくない。
「どうなるんかなぁ」
そもそも戻り方が分からないし悩んでも無駄かね。
とりあえずリハビリがてら買い物行こ。
近くの駅まで徒歩で15分ほど。そこまで行けば色々あるから買い物には困らない。それなりにいい立地のアパートだと思う。
駅前の商店街はたくさんの人が歩いている。スーツの人、主婦っぽい人、学生、チャラいにぃちゃん、謎のねぇちゃん等々。
うーん、ただ人混みを歩くだけならなんとかって感じだ。
食糧を買い込もうとスーパーに入る。カゴを取りお菓子コーナーに行こうとした時、後ろから声を掛けられた。
「もしかして南雲君?」
若い女の声だ。どこかで聞いたことがある。振り返る。
黒髪ストレートの子……? あ、なんか高校の教室にいたような記憶が薄っすらとある。
「わぁ! やっぱり南雲君だ! かわいい~」何やら嬉しそうである。「でもどうしたの? あんなに女の子っぽい恰好は嫌がってたのに……?」
ん? 引っ掛かる言い方だな。女の子っぽい恰好は嫌がってた……? 男なら普通だろ? 違うのか? だとすると、まるで男の俺が女の恰好をするのが正しいみたいじゃないか。なんだそれ。
「? 男だったんだから当たり前だろ」
悲しいかな、今は男であると胸を張って言えないのだ。おっぱいは出ているが。
「……あー、うん。そっか。そうだよね。ごめん。無神経だった」同級生らしき子が謝るも、すぐに「あれ、でも今はなんでそういう服を着ても大丈夫なの?」と最初と同じハテナを浮かべる。
話が噛み合ってない。俺の記憶が欠けてるのが原因だよな。
……思い切って訊いてみるか。もしかしたら現状を打破するヒントが得られるかもしれないし。
「……実は最近記憶が抜け落ちてて」俺がそう言うや否や「え!? ほんとに!?」と驚愕を口にする。しかしすぐに納得顔に変わる。
一人で納得しないでほしい。「なぁ、どういうことか教えてくれないか」
「いいよ。いいけど、いいのかなぁ?」
どっちだよ。
「結構本気で困ってるんだ。いいから話してくれ」
「南雲君がそう言うなら……」そう前置きして黒髪のお嬢さんがそれを口にした。
「南雲君さ、高校の時は性的マイノリティだったんだよ」スーパーのチャチなBGMが消える。「心は男、身体は女の性同一性障害ってやつ」
頭を鈍器で殴られた──カチ割られたような衝撃。脳のどこかよく見えない場所に沈み込んでいたそれが、勢いよく浮上してくる。知りたい。だけど恐怖を覚える記憶。
しかし俺が目を背けようとしても、もう遅い。忘れていた色々な過去、感情──奇異の目、上辺だけの同情、虐め、自分の存在への違和感、自分が生きていることへの嫌悪──が一気に思い出の海に浮かび出す。
気持ち悪い。でも分かったよ。全部理解した。
俺はTSしたと思ってたけど、それはあくまで俺の主観のみの現実だった。実際は元から男が女の身体に変わったのと同じような状態だったんだ。
宇宙人でもなんでもない。とてもシンプルでバカみたいな答え。
「ねえ、大丈夫? 真っ青だよ。救急車呼ぶ?」
「大丈夫。いらない」こんなので病院に行く必要はない。「助かったよ。ありがと」
それだけ言って、俺は逃げ出した。周りの景色に色はない。
アパートの扉を閉め、ベッドに突っ伏す。
「……」
気分わりぃ。
メイクが枕につくが、一人きりの空間のおかげか多少は落ち着いてきた。そうすると気になるのは颯人のことだ。
あいつ、知ってて黙ってたんだよな。なんでだよ。味方だと、他とは違うと、友だちだと思ってたのに。
急速に颯人との距離が離れていく、そんな感覚。
全てを知ってて困ってる俺を笑ってたのかな。意味わかんね。
頭が熱くなる。でも心は冷たく凍っていく。
「ぁおうあ(アホくさ)」
もごもごと枕に文字を押し付ける。
もうどうでもいい。何もかもくだらない。
──ピンポーン。
「……」
無視していると玄関扉が開けられた。顔を上げる。颯人が立っていた。
「おいおい。どうしたんだ? すごい顔だぞ」
はぁ? ふざけんな。
イライラする。嘘つきめ。
「勝手に入ってくんなよ」
「……」
颯人が口を閉ざす。
「帰ってくれ」
「……思い出したのか」
相変わらず察しのいいことで。
「そうだよ!」普段はあまり出さないデカい声。「なんで黙ってたんだよ!?」
あー駄目だ。口に出したらどんどん怒りが溢れてきた。止まらない。
「……ごめ──」
「ごめんじゃねぇよ! 理由を言えよ!」
しかし──。
「ごめん」
舌打ちが溢れる。「じゃあもういい。帰れよ」
「……」
「早く行け!」
「……悪かった」最後にもう一度形式だけの謝罪を置いて颯人は出ていった。
無機質なドアの音がいつまでも耳にこびりつき──。
誰も来なくなってから何回か朝と夜が繰り返された。正確には分からないけど問題もない。
ぐぅ、とお腹が鳴る。ほとんど飲み物だけで過ごしているせいで胃の中は空っぽだ。冷蔵庫を覗くが何もない。ペットボトル飲料すらない。
「……」
いつまでも自暴自棄を気取って現実逃避をしていても惨めになるだけだ。
「買い物行くか」
テキトーに服を着て、いざ外に行こうとした時、脚の付け根に妙な感覚。じわじわとしている。
「これって……」
生理?
急いで確認すると当たりだった。うっわ。
でも大丈夫。このアパートにはナプキンと生理用ショーツなる物が存在する。発見した時は困惑したけど、今となっては何の不思議もない。
サクサクセットしてパッと履く。
身体が覚えているのだろうか。特に躓くということはなかった。すげー微妙な気分だ。
記憶と今の状態から判断するに俺の生理は重いわけではないようだ。痛みも怠さも大したことはない。
「買い物……」
今日はやめとくか? でもなぁ何もないしなぁ。お腹も減ったしなぁ。
スニーカーに足を入れる。甘いもん食べたい。
いつものスーパーに到着した。
真っ先にお菓子コーナーに向かう。お目当ての品はホワイトチョコレート。
棚に視線を走らせる。今の俺は狩人のごとき鋭敏な感覚を以て糖質を狙っているのだ。
しかし先に目についたのは新発売のトッポー(チョコミント味)だった。
「……好きそうだな」
アイスと言えば決まってチョコミントを買っていた。それにあいつは、辛い物とか酸っぱい物とかの刺激のある物が好きだ。
……だからといってどうということはないが。
12個入の白いチョコをカゴに放る。次。
他の甘い物や飲み物、冷凍食品など料理しなくても食べられる物を物色していく。ただ、なぜか自分の食べたい物よりあいつの好きな物を先に見つけてしまう。
レモン系の清涼飲料水だったり、マーボー豆腐の素だったり。
「……はぁ」
あーあーあーあーあー!
くっそ。本当は自分でも分かってるよ。ただ見ないように、認めないようにしていただけだ。
この前は混乱しててほとんど八つ当たりみたいなことしちまったけど、でも、頭がおかしいのかもしれねぇけど──。
颯人が好きなんだよ。
一瞬で顔が熱くなる。
乙女か! 柄じゃねぇ。絶対変な顔してる。あーやだやだ。
「……チクショウ」
速足でそれらをカゴに入れていく。
怒ってるかな。
店内にある時計に目をやる。時刻は午後1時過ぎ。今日は4限までだったか。
運良く並んでいないレジがあった。会計を済ます。
豆腐なんて買ったの初めてかもしれない。
あの日のワンピースが風にはためく。
もう夕方6時だってのに明るく、そしてじんわりと暑い。
久しぶりの大学は前に来た時から何も変わっていないように見えた。同じくらいの歳の連中がいっぱいだ。
正直、楽ではない。でも衝動に任せている今ならばなんとかスルーできそうだ。
民法の債権法の講義が行われる南2号館へ直進する。
終了時間に合わせて来たのだから当然だけど、丁度講義終わりの学生たちが出てくるところだった。というか学生って他人事みたいに言ってるけど、俺も一応ここに在籍してんだよな、今んとこ。
人の流れを観察していると背の高い奴を発見した。颯人だ。友人らしき奴らと一緒にいる。
深呼吸をしてからずんずんと大股で歩を進める。そして──。
「あ」視線がぶつかり、颯人が俺に気づく。
「よう」
本当は謝るべきなんだろうけど、情けないことに気恥ずかしくて。
「おう」
すげぇ淡泊な返事だな。
「……」
「……」
互いに続く言葉が見つからない。
俺たちの独特の空気感を察した颯人の友人連中(?)も黙り込んでいる。
な、何を言えばいいんだ。いざ意識してしまうと舌が動かない。でもこのままじゃ埒が明かない。意を決して気持ちを絞り出す。
「麻婆豆腐作ったんだ」
ちげぇぇ! そうじゃない。そうじゃないだろぉ……!
けど、勘のいい颯人は俺の意図するところに気づいてしまったのかもしれない。「今日行っていいか?」と。
「! うん!」
身体の芯がざわざわする。心の奥底からその気持ちが膨らみ、そして自然と、気負うこともなく伝えることできた。
「好きだよ」
一瞬驚いたような表情から、いつも見ていた柔らかい微笑みへ。それから、それから。
「──」
「!」
ふと気がつけば、夏の薫りが風に乗り──。
(了)
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