【たった一つの ~side:B~ 】

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【たった一つの ~side:B~ 】

あなたに出会って、ずっと止まっていた時間が動き出した。 タカフミ君が亡くなって、4年半がたった。 その4年半、私の中の時間はずっと止まったままだった。 短大を出てから大手企業のハケンOLとして働いて、人間関係もノルマも立場もキツくて。 でも初めての社会人経験だったから、そんなものだろうと思っていた。 毎日気持ちがすり減って、自分が何のために働いてるのか、仕事してるのか。 やりたいことも何にもない自分のことが嫌で嫌でしょうがなくなった時に、一杯の豚汁が私を救ってくれた。 タカフミ君の作った、一杯だった。 その日は上司からたくさんの仕事を任されていて全然終わらなくて、 実際として、終わらない量を押しつけて気に入らないハケンを辞めさせようとしていた上司の思惑を知ってただけに根を上げるのが嫌で、ずっとデスクに張り付いて仕事を意地でとりかかっていた。 何とか終わらせて会社を出たら夜の10時半を過ぎていた。 もうお腹がすき過ぎて何が食べたいのか分からない。 ここのところ毎日これなので、一人暮らしの簡単な自炊としてレトルトのおかゆばっかりだ。自炊なんて言えたもんじゃない。 実家は遠い地方だし、こっちの短大に行かせてもらったからこそこっちで頑張りたかった。 お母さんが送ってくれる野菜を調理できる時間もなくて、ジャガイモの芽がとうとう出てしまっていたのを思い出した。 今日はもう何か食べて行っちゃおうと思ったけど、会社から駅まで軒を連ねる定食系チェーン店はカレーやラーメンや牛丼屋など胃にずっしりきそうなものばかりだ。 今日もおかゆかなぁ……そう思っていたら、白い麻でできた暖簾のかかったお店が目に入った。 暖簾の隅っこに「とき屋」と書いてある。 テナントビルの間にたたずむ、木造のお店。 お蕎麦屋さんだろうか。お蕎麦なら入るかもしれない。 私は引き寄せられるように暖簾をくぐって、格子戸を開けた。 中に入るとお蕎麦屋さんじゃなくて昔ながらの定食屋で、しかし壁にたくさんかかったメニューを見ると居酒屋みたいだった。 入って良かったんだろうかとちょっと困惑したそのときに、 「いらっしゃいませー!」 「いらっしゃい!」 「いらっしゃいませ~」 と、3つ元気のよい声がした。 厨房にはメガネをかけた短髪の柔和な顔のお兄さんと、いかにもここの大将といった感じのおじさんと、やさしそうな女将さん。 「……あの、ここ、ご飯食べれますか?」 おずおずと聞くと、おばさんがにこやかに言った。 「えぇ、もちろん。なんでも出せるわよ。カウンターでもいいかしら?」 私は何だかそれにホッとして、促されるままにカウンターへと座る。 出されたおしぼりがあったかくて、指先が生き返るようだ。 周りを見ると、平日だし時間も時間だからかお座敷には1組のサラリーマンしかいなかった。 何を食べようか壁にあるメニューを見渡したけど、何が食べたいかわからない。決められない。 ……私、何が食べたいんだっけ……。 考えてみたら、最近の食事について何を食べていたかもあんまり思い出せない。 それだけ食べ物を選ばない、気にかけられないくらい自分の生活をおざなりにしている気がする。 レバニラ、野菜炒め、だしまき卵、ほっけの開き、小松菜の胡麻和え。 たくさんあるのに、自分にとって今何が必要なのかが分からない。 決めることができない……第一お蕎麦屋さんかなと思って入ったこのお店だったけど、お蕎麦が食べたいわけでもなかった。 どうせこの時間に胃に入れるのなら、お蕎麦くらいなら差しさわりがないだろうとそんな程度で、その味を求めてるわけもなかった。 ……こんな簡単なものさえ、自分が何を望んでいるか分からないなんて。 私、せっかく生きてるのに一体何やってるんだろう……。 メニューを決めかねて、ぼんやりしていたとき、顔が柔和なお兄さんの板前さんが一杯のお椀を出してくれた。 アツアツの豚汁だった。なんて美味しそうなんだろう。 良い匂いに、口の中で思わず唾液が出て、おなかがきゅうきゅう鳴った。 「お姉さん、寒かったでしょう?どうぞ」 寒かったでしょう? その言葉を聞いたら、何故か急に涙が出てきてしまった。 寒かったでしょう。お店の人は外が寒かったからそう言ってくれただけなのに、私にとってはそれだけの意味じゃなくて心に届いたから。 お店の人たちが突然泣きだした私に慌ててしまっているのが分かる。 ……寒かったです。何が食べたいかも分かんないくらい、寒かったです。 ずっと我慢していた弱さに気づいてしまった私は、涙が溢れて止まらなかった。 「何が食べたいか決められない時は、とりあえず何でも入ってる栄養満点の豚汁がいいですよ。サービスです」 その声に顔をあげたら、お兄さんが優しく笑っていた。 私は何て答えたらいいか分からなくて、とりあえず出されたお椀を受け取った。 「いただきます」 すごく久しぶりに言ったかもしれない。 良い匂いのする豚汁を一口飲むと、すごく美味しかった。 お出汁がきいてて、根菜と豚肉のうま味がほどよくとけてて、お葱のいい香りがする。もうそれからは具だくさんの豚汁をパクパク食べた。 「他には何にする?」 大将に声を掛けられてハッとした。他の物をオーダーせずにサービスで出された豚汁をあんまりにも夢中になって食べてた自分が恥ずかしい。 けれど泣いていくらかすっきりしたのか、食欲もちゃんとわいてきた気がする。 私は「だしまき卵と……おにぎりください」とお願いした。大将とお兄さんはとびきりの笑顔で「わかりました!」と答えてくれた。 もちろん、その後に出てきただしまき卵と鮭とメンタイのおにぎりはびっくりするほど美味しくて、お代わりした豚汁はどこまでもあったかくて、何だか生き返ったような気がした。 そうしてペロッと全て平らげた後に、お兄さんに言ったのだ。 「すっごく、あったまりました。ごちそうさまでした!」って。 私はすっかり笑顔になっていた。 それが私と、後に旦那さんになるタカフミ君と「とき屋」の出会いだった。 タカフミ君は私よりも3つ年上で、ここの息子さんだった。 調理師の学校に行った後、よその料理屋さんでお世話になってから実家の「とき屋」を手伝うようになったとのこと。 「とき屋」は元々大将のお父さんがお蕎麦屋さんとしてずっと続けてきたそうで、亡くなるまでは昼はお蕎麦屋、夜は定食屋兼居酒屋をやっていたらしい。 そうして今はお蕎麦屋さんをやめてお昼は11時から午後2時までの3時間だけ定食ランチをして、夕方から主に居酒屋として営業しているらしい。 それから私はここのとき屋でお昼を食べるようになったのだ。 タカフミ君は優しくて、よくお客さんを見てて、すごくていねいな人だった。 最初の一杯の豚汁の魔法にかかってしまった私は、タカフミくんのことが好きになってしまっていた。 逆に私のほうが胃袋を掴まれてしまって、タカフミ君からしたらすんごく困ったかもしれないけれど。 そして、勇気を出しておでかけに誘って、2回目のデートで私のほうからタカフミくんに言っていた。 「私の、旦那さんになってください!」って。 まだ正式に付き合ってもいないのに。 タカフミ君はやっぱり「……困ったな」って言っていた。 あぁ、いきなり来た女の子がお店に通いつめてグイグイ推してきてこんなこと言うなんて、それはそうだよね。 驚くよね、迷惑だよね。 そう思ってたら、タカフミ君は弱ったように微笑んだ。 「……これじゃあウチの親父とお袋の馴れ初めと、まったくおんなじ道だ」って。 タカフミ君と一緒になることを決めて、ハケンを辞めた。 もちろん、家計を考えればハケンを辞めないほうが絶対にいい。 私はOLやってお金を稼いで、タカフミ君は料理人としてやって家計を合わせたほうが絶対に経済的に良いってことは分かってたし、上司以外の会社の人もみんな言っていた。 けれど、これは上司に負けたとかじゃなくって、自分の人生をタカフミ君一家と一緒に「とき屋」で過ごしたかったから。 自分の時間を、そこで過ごしたほうがはるかに幸せだって感じたから。 もしかしたら、タカフミ君と一緒にいられる時間がわずかな事を、神様がそっと教えてくれてたのかもしれない。 絶対に保守的な私がそんな選択するなんて自分でも思ってなかったから、もしかしたら神様がそっと私の心を操作したのかもしれないなぁって。 タカフミ君の遺影を持ってバスに乗った時、そんな事を思った気がする。 タカフミ君と籍を入れてから、まだ一年も経っていなかった。 まさか、自分がこんなにも早く未亡人になるなんて思わなかった。 バイクでの配達の帰りに、十字路を曲がったらすぐにダンプが止まっていたらしい。 タカフミ君はそのダンプに気がついて避けて行こうとした。 まさかそのタイミングで後方確認を怠ったダンプがバックしてくるなんて、誰も夢にも思わなかった。 バイクはダンプの後輪にぶつかり、そのまま乗り上げたって聞いて……とき屋から50メートル離れた場所での事故だった。 タカフミ君が亡くなった場所が近所なだけに店を続けるのはどうだろうかという話になったけれど、色々話し合った結果、このまま続けていくことに大将であるお義父さんと、女将さんであるお義母さんが決めた。 タカフミ君だったら絶対に続けて欲しいって言うはずだって、私が育てたからこそ分かるってお義母さんが泣きながら言った。 タカフミ君は私の全てだった。 優しい笑顔、あったかい心。 とんでもなく美味しいものを作る大きな手、清潔に短く切った髪。 厨房は意外と寒いから斜め後ろから彼を見た時に耳がちょっとだけ赤くて、その様子がすごく好きだった。 もう、タカフミ君以外に好きな人、できないよ。 作らないよ。 現れないよ。 だって、あんなにも私のちっぽけな心を見つけて、「寒かったでしょう」って言ってあったかくしてくれる人なんて、現れないよ。 でも、それでいい。 タカフミ君だけでいいよ。幸せだから。 そう思ってたの。本当に。 だけど、 「外、今日はとくに寒かったでしょう?」 何気なく自分がタカフミ君と同じ言葉をかけた人に、自分が恋をするなんて思わなかった。 心にタカフミ君がいるのに、ダメだって、私は幸せなんだからって、自分に言い聞かせてたのに。 お客さんとして来たマツムラさんという男性。年齢は多分私よりちょっと上。 最初は何にも感じていなかったのに、お店に来てくれるようになって他愛ない話をして、どこかでホッとしてしまう自分がいた。 お店には他にもたくさんのお客さんがきてくれるし、似たような会話もたくさんしたことだってあるのに、どうしてか気になってしまう。 心の中でタカフミ君に話しかけていたことも、気がつけば彼が来ることの多い木曜日か金曜日の夜が気になることのほうが増えていた。 それに気づくたびに自分に落ち込んで……。 タカフミ君と暮らしていた部屋で、タカフミ君が笑う写真を見るのが辛くなっていた。 だって、大好きな気持ちは変わらないのに。 ある日の日曜日、部屋で過ごすのが少し苦しくなって、珍しく街へ出た。 洋服を見て、本屋さんへ行って何となしに本を見る。 料理本をめくったりしては……あの人この料理よく頼んでくれるな。 こういう味が好きなんだな。なんて思っていたところ、視線を感じた。 その方向を見たら、彼だった。 その日は突然起こった偶然に、自分の心を隠すのに必死だった。 だって私、数ヶ月で未亡人っていう何かのネタみたいかもしれないけれど、れっきとしたタカフミ君の奥さんだから。 ……さっきまで料理本を見ながら無意識に考えてしまってた人が目の前にいるのに、こういう時だけ都合よく心の中にしか存在していないタカフミ君を言い訳にしている。 ……なんて自分勝手で綺麗事ばかりで、なんて恥ずかしいんだろう。 タカフミ君の事、忘れたくないのに。 そういうつもりじゃないのに。 マツムラさんとの会話が楽しければ楽しいほど、私の心はいつだって泣きそうだった。 そうして自分の心を誤魔化していた時に、マツムラさんはお店に女の子を連れてきた。 会社の後輩と言ってたけど女の子は明らかに彼の事が好きな感じだった。 そうだよね。そのほうが、正解だもん。 私、ただのお店の人だし、ましてやお義父さんとお義母さんと一緒に働いてるんだし。 何よりここのお店に私がいたいんだもの。 その気持ちは本物なのだから後悔なんかもない。 だから、こんな私に好かれるより、可愛らしい彼女と一緒にいるほうがずっと自然で、よっぽど彼は幸せになれるだろう。 その日は混んでいたこともあって、なるべく他のお客さんに意識を集中させた。 じゃないと給仕する手が震えそうだったから。 そんな私の気持ちも知らないで「アカリちゃん……彼女の事、どう思う……?」だなんてあんまりだった。 だって私、そんなの関係ないでしょ。 あなたの人生に関係のない、ただのお店の人なんだから。 第一、好きって思ったつもりもないし、言われたつもりでもないのにそんなの答えられない。 自分でもどう返したか覚えてなくて、その日はお客さんがハケるのが早かったから、寒かったのもあって早めに店じまいとなった。 テーブルに残ったお皿を片づけて拭いて、割り箸や爪楊枝や卓上醤油などを補充したり確認したりして、 椅子も上げて床を綺麗にしないとって考えて椅子に手をかけたときに……。 ……涙がこぼれた。 どうしてかわからないけれど、 心がとにかく苦しくて痛くて、自分が嫌でしょうがなかった。 心はどれも正直なのに、正直なはずなのに嘘をついているみたいな気持ちでしようがなくなってしまった。 そんな私の様子にずっと気付いていたのか、手が止まって体が動かなくなった私にお義母さんが声をかけた。 「……もしかして、マツムラさんのこと……?」と。 言われた瞬間、ギクッとして心臓が跳ね上がりそうだった。 どうして分かってしまったのか。 私はそれでも否定したくて何も言えないまま首を横に振った。 お義父さんもお義母さんも本当に優しくて良くしてくれて、本当の娘みたいに可愛がってくれて。 私もそんな優しいタカフミ君のお父さんとお母さんに寄り添いたかった。 一緒にいたいのは本当だからこそ、言えなかった。 そんな私にお義母さんが傍へきて、私の肩をさする。 お義父さんは黙ったままだ。 私は耐えきれなくて嗚咽してしまった。 ……ごめんなさい。 心で呟いた瞬間、私は自分の心をちゃんと知った。 「……私……マツムラさんを、好きになりました……」 ずっと止まっていた4年半が、ようやく動き出した。 気が付いたら惹かれていたこと。でも タカフミ君のことを忘れたわけじゃないこと。 忘れたくないこと。 お義父さんとお義母さんと「とき屋」の傍にいたいという気持ちは本物だということ。 ポツポツとだけれど一つ打ち明けた途端、今まで蓋をしていた自分の気持ちが、誰かの口で語られてるんじゃないかって感覚でどんどん言葉となって溢れて来た。 お義母さんとお義父さんは、そんな私を責めることもせず、涙を流しながら頷いて聞いてくれた。 そして、私がどうすべきかも言ってくれた。 それでも私の心は自分を責めていて……そんなとき、お義父さんが入口へ向かった。 閉店後にお客さんが来るなんてことは結構ある。 もしかしたらお腹をすかせたお客さんがきたのかもしれない。どうしよう。そう思ってたら…… その夜に起こったのは偶然なんかじゃなくて、本物の奇跡だった。
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