披露宴クルーズの夜

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 宴は終わり、船は再び港に着いた。  アルコールで気分を高めた人々の楽し気な声を背に、タラップを降りる健一の足取りは重い。それは殺人事件に居合わせてしまったからではない。もちろん、殺人事件なんて起きなかった。 「帰るか」 「ええ」  答えた麻子の声にも疲れが滲んでいる。 「さすが、金持ちは違うな」  月並みの感想を口にすると、麻子もうんうんとうなづいた。  披露宴はつつがなく続いた。が、後半は疲れてしまって、健一と麻子は船のデッキに出て、暗い海と岸辺のコンビナートの常夜灯を眺めていたのだった。宅間と会って話せたのは一瞬だった。 「わざわざ僕なんかのために来てくれてありがとう」  健康そうな顔を輝かせて言った宅間に、健一は出来るだけ誠実な顔を作って答えた。 「本当におめでとう。こちらこそ招待してくれてありがとう」 「今度、みんなで飲みに行こう。鬼族院先生」 「その呼び方はやめろよ。だけど、ああ、飲み会はいつでも大歓迎だ」  港からターミナル駅へは、バスがチャーターされていた。そのバスに乗り込み、車窓から夜の町を見ながら、健一は自分の人生をなぞりなおす。  宅間が呼んだ「鬼族院」という名は、彼のペンネームだった。健一は作家志望者として青春時代を過ごした。しかし全く芽が出ず、大学卒業後はサラリーマンとして就職し、結婚した。それでも作家になることを諦めきれずに働きながら公募に出した長編小説が、とある新人賞を受賞した。受賞してしまった。三十歳のときだった。そして周りの人間の反対を押し切って、会社勤めを辞めた。それからの健一は、アルバイトを掛け持ちしながら、小説を書く生活を続けている。麻子は何も言わずにパートの時間を増やし、そのうちに転職し、一家の大黒柱となった。  作家なんて目指さなければよかった。  健一は思った。そのことは今までも何度も思ってきた。しかし、今夜ほどその後悔が身に染みる夜はない。 「それで、そのあとどうなるの?」  物思いに沈む健一を引き上げたのは、麻子のそんな一言だった。 「そのあと?」 「殺人事件。結局、犯人はどうやって新婦を刺したの?」  場違いな空間から逃れるようにデッキに出た健一は、妻の麻子を相手に今しがた行われている披露宴を舞台にした作り話――しかも、新婦が殺されるという作り話――を即興で作って聞かせたのだった。不謹慎極まりない遊びだったが、麻子はそれを不謹慎などと切り捨てずに付き合ってくれた。そういうところが昔から好きだった、と健一は思う。  思えば、麻子は自らの貧しい生活に不満は言っても、それを健一の作家業のせいだとは一度も言わなかった。まともな給料を払わぬ勤め先や、健一の小説を認めぬ出版社に文句は言っても、健一が小説を書き続けることへの不満は漏らしたことがなかった。  そんな麻子の期待に応えるべく、健一は物語の解決篇を語りだす。 「射出装置さ」 「射出装置?」 「会場のシャンデリアの影にナイフの射出装置が設置されていたんだ。通電が切れると、ナイフが射出されるようになっていて、停電したタイミングで発射されたナイフが新婦の心臓を貫いたのさ。犯人は、豪華客船の会場スタッフの非正規職員。金持ちどもの娯楽に付き合わされていたブラック労働の犠牲者の怒りによって、新婦は殺されたのさ」 「何それ馬鹿らしい」  健一の解決篇に、麻子は呆れた顔をして見せた。 「さすがに読者が怒ると思う」 「これをミステリと思うからいけないのさ。ミステリのフリした社会派ヒューマンドラマ。どうかな?」 「さあ?」  麻子はすげなく言う。健一はやっぱりこんなのではダメか、と思う。こんな馬鹿みたいな話ばかり考えているから、自分の書いた小説は理解されないのだ。健一は再び韜晦の沼へと沈みかけた。 「でも、たまにはいいんじゃない?」  沼に肩まで沈んだとき、麻子ののんきな声が届いた。 「きっちりとした純文学ではなくて、ミステリーとかSFとか、エンタメ要素を含んだ小説を書いてみても」 「うん、そうだな……」  それは健一にとっては意外な提案だった。デビュー作が私小説風の純文学とばれるジャンルの小説だったこともあり、それからはずっと同じような系統の小説ばかり書いてきたのだった。  麻子はさらに以外なことを言った。 「高校時代に君が書いた、ミステリー仕立ての文化祭の劇の脚本、面白かったよ」  ああ、確かにそんなこともあった。高校二年生のときに行うことになったクラス劇。映画研究部だからという無茶苦茶な理屈でその劇の脚本家に無理やり選ばれ、戯曲もどきを書いた。それが創作人生の始まりで、その劇をきっかけとして、役者として出演した麻子と話すようになったのだった。あれも確かに殺人事件を描いていた。  錆びついていた健一の頭の奥がわずかに動き出す。  先ほど麻子に語った物語を思い浮かべる。確かにナイフの射出装置はミステリとして書いたら反則だろう。ではどのようなトリックなら成立するだろうか。いやそれだけではない。小説として起こすなら、プロットも登場人物ももっと掘り下げなければ。  メモ帳が欲しいと思った。それとパソコンと。文字が書きたい。物語を作りたい。  長らく忘れかけていた衝動だった。いつの間にか、生活のため、認められるに文字を書くようになっていた。だけど作家になりたかったのは、物語を作るのが楽しかったからだ。 「いきなりミステリ仕立てのプロット送ったら、編集の林田さん、驚くだろうな」 「驚かせてやればいいの」  麻子が笑った。 「そうだな」  書かれた物語が認められるかどうかは分からない。それでも自分に出来ることは書くことだけである。新しい小説は自分に何をもたらすのだろうか。健一は、少しだけ未来が愉快に思えた。
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