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健一は、自分たち夫婦のあまりの場違いさに、髭を綺麗に剃った顎先を何度も何度もこすっていた。今、健一と麻子の夫婦は、豪華客船のホールにいる。共通の学生時代の友人の結婚披露パーティーが日本を代表する豪華客船で開かれ、二人はそこに招かれていた。正直、その友人とは夫婦ともに二十年近く連絡をとっておらず、招待状がきた際はぼんやりとしか顔を思い浮かべることができなかった。
そんな旧い友人の披露宴に参加したのは、新郎である友人の宅間から、直々に参加を請う電話がきたからだ。その要請はしつこく、健一はついに折れた。健一は彼が電話番号を知っているとは思ってもいなかった。
宅間は、二十代半ばでIT関連の企業を立ち上げ、それを見事に軌道に乗せていた。健一も彼の会社については、メディアを通して名を知っていた。社会の成功者として、インタビューを受けているところも見たことがある。高校時代同じ教室で学んでいた友人が、雲の上の存在となっていることに、奇妙な気がしたものだった。彼によると、会社が十分に安定した四十を過ぎてからようやく結婚する気になったのだという。そしてこの度、年下の女性と結婚することにしたので、ついては学生時代の親友である健一君と麻子さん夫婦には、ぜひ披露宴に来てほしい。
麻子はこの招待を知ったときには、ひどく動揺した。
「恥ずかしい」
彼女は言った。
「私は行きたくない」
「でも、二人で行くと電話で答えてしまった。豪華客船にのれる機会なんて、もうこの先の人生で一度もないだろう、せっかくだし、行こうよ」
健一はなんとか麻子を説得したが、一方で、麻子の言う「恥ずかしい」という気持ちも十分に理解することができた。
華々しい宅間の成功と比べると、この生活のなんと味気ないことか。
狭いリビングを見渡す。物が雑然と溢れている。いつの間にか増えたコップ、まとめて捨てようと思い貯め続けている市内報、枯れかけている観葉植物。
宅間はうちのまずしさを知っているのだろうか、と健一は思った。もしかしたら、人生に失敗したかつての友人に、成功した姿を見せびらかしたいのではないか。
そこまで邪推し、健一は首を振った。
それほどまで彼に嫌われることをした覚えはない。何しろここ二十年、彼とはまったく接触していなかったのだから。彼は自分たち夫婦の結婚式にもかけつけ、祝ってくれた。きっとそのお返しとして、自分たち夫婦を招待したにすぎないのだろう。試しに、かつて仲の良かった友人たち数人に連絡をとったところ、友人たちも宅間から招待を受けているという。
麻子にかつての友人たちも来ると伝えると、彼女は興味をしめし、同窓会みたい、と言った。
しかし実際に式場となる船内に入ってみると、そこは同窓会どころの騒ぎではなかった。まず人が多い。何百人といるように思えた。なかにはマスコミ関係者と思われる人間もいる。そしてその招待客たちは、どうやら健一たち夫婦とは住む階層が違う人間であるようだった。さりげなく身につけられた高価なアクセサリー、パーティー慣れした優雅な身のこなし。二人はこの日のために衣装レンタルを奮発したが、豪華に着飾った人々のなかに入ると、自分たちの恰好がひどくみすぼらしく思えた。
健一が受付にて招待状と共に、夫婦二人分として五万円を包んだ祝儀袋を取り出すと、受付の黒いスーツを着た若者(きっと彼の会社の若手だろう)は、その祝儀袋を突き返してきた。
「学生時代のご友人からは受け取らないようにと言われております」
この言葉に健一の心は妙にささくれ立った。
「そんな馬鹿な話はないでしょう。宅間くんには僕たちの結婚式でお祝いをいただいている。今度は僕たちが祝う番です」
健一は若者に白い封筒を押し返した。今度は若者は何も言わずに受け取った。
供された料理や飲み物は、とても一人二万五千円では収まらないであろう豪勢さだった。シャンパンを飲み、ステーキを食べる。どれも美味で、昨日の夕食は豚野菜炒めに安焼酎だったなと思い、健一は隣で白身魚の何とかという料理を食べる麻美を見やった。健一は自分の人生を思い返す。ああ、自分の人生は失敗だったな。普段は意識しないようにしている自らの現状についての認識をかみしめる。
ホールの前方の壇上には、かつての友人が人生の成功者の顔をして座っていた。高校生の頃の線の細い青白い顔をした弱気な青年とは見違えるほどの、堂々とした様子だった。健康そうに肉のついた顔は軽く日焼けしており、筋肉のついた体には厚みがあった。
宅間と健一は、映画研究部というあまり日の当たらない部活で三年間を一緒に過ごした仲だった。映画研究部とは言っても、宅間と健一は、たいして映画に興味もなく、浮いた人間が集うその部活のなかでもさらに浮いた部員であった。二人は特に仲良くなるわけでもなかったが、なんとなく一緒にいることが多かった。三度ほど、はやりのアクション映画を二人で見に行ったこともあった。その頃の宅間は、心の内に成功への野心を秘めている青年には見えなかった。だから、彼が若くして起業したと知ったとき、健一はとても驚いたものだった。
今、宅間の隣にはひどく若く見える新婦がいる。実際の年は、そこまで離れていないはずだが、新婦は健一や麻子よりも十歳以上若いように見えた。年齢に見合わない派手なウェディングドレスを身に着けているが、まっかく衣装負けしていない。生活なんて知らない、といった顔をしているからだろうか。彼女も妻となったら、疲れた顔をするようになるのだろうか。どうもそうは思えないな、と健一は思う。
それに比べて。再び、心なかで一人愚痴る。俺の人生、なんで、どうしてこうなってしまったんだろう。
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