小さいトマト

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ねえ、覚えてる? 私たちが子どもの頃は、ミニトマトなんてなかったよね。 死ぬ前の日の君は、僕にそんなことを話しかけた。 リクライニングベッドの角度は上げてあったが、目の前の昼食を君は完全に無視した。 いずれにせよ、昼食のメニューにはミニトマトもトマトも見当たらず、トレイに載っていたのは、重湯と紙パックの栄養補給飲料だ。 「ミニトマトか。言われてみればなかったかもな」 「でしょ?あと、アボカドもなかった」 「アボカドは、だいぶ大人になるまで知らなかったよ」 「だよね、だよね」 次の日の朝、君は目をさまさなかった。 痩せ細って関節がごつごつと当たる君の手を、僕は握りしめた。 君は一度も握り返さないまま、昼過ぎに死んだ。余命一週間と言われてから、まだ二日しか経っていなかったのに。 あの日まではいつも必ず握り返してくれた君の手は、何日か後に焼かれて骨になって、僕の前に現れた。 よくわからない。 なぜ、こんなことが君と僕に降りかかったのか。 なぜ、君だけ早めにこの世から退場しなければならなかったのか。 十年経って、僕は再婚した。妻を紹介した時、母は僕に、カナさんに似た感じの人ねと言って涙ぐんだ。 君はうちの親があまり好きじゃなかったけど、母は今も毎月、君のお墓参りに行く。 ちなみに、妻は君に似ていない。母は思い違いをしているんだ。 君に似た感じの人なんて、僕は興味ない。僕は君が好きだった。 妻の手はふくふくと柔らかくて、今の僕はその手を撫でることに喜びを感じる。そういうことだ。 君は死んだ後、どこにいるんだろう?だって、夢にさえ姿を見せないじゃないか。それは成仏したってことなのか。 十三回忌が済んで、妻が妊娠した。僕は本当に嬉しかった。例の場所に置いた君の写真に報告したね。 僕、生きててよかった。久しぶりにそう思った。 今朝、息子の食器をキッチンに下げた時、弁当がもう完成して、カウンターの定位置に三つ並んでいた。自分で蓋をして、保冷バッグに入れることになっている。 息子の小さな弁当箱に、ミニトマトが一つ入っていた。  「あ、それ」 水筒を用意していた妻は、すぐ僕の視線に気づいた。 「おかずの隙間埋めるのに便利そうだから、久しぶりに買ったの、ごめんね」 「いや、そんなの別にいいよ」 「あなたが嫌いだからずっと買ってなかったけど、健太には食べさせたいしね」 「そうだよな、確かにそうだ」 「あなたのには、入れないから」 妻と息子が先に出かけた。 僕は食卓を片付けながら、死ぬ前の日の君の姿を思い出した。病院のパジャマから突き出た細い首と落ち窪んだ大きな目。だよね、だよね、と言った弱々しい声と嬉しそうな笑顔。 食卓を綺麗に拭きあげた後で、冷蔵庫の野菜室を開けて、隅のプラカップを取り出す。蓋に貼られたバーコード付きのシールに、半角カタカナでミニトマトと書いてある。 妻は、今朝初めて一つだけ使ったんだろう。丸くて赤いミニトマトはカップにまだたくさん入っていた。 僕はそれを食卓に運んで椅子に座った。今まとめて泣いておけば、毎朝息子の弁当を見て、君がどんな気持ちで一人で死んでいったかを考えなくて済むと思う。 ねえ、覚えてる? 私たちが子どもの頃は、ミニトマトなんてなかったよね。 その直前に、君と僕は何を話していたんだろう。それはどうしても思い出せない。実は、君が病気になってからのことはよく覚えていないんだ。 でもミニトマトの話が唐突で、戸惑ったのは覚えてる。 今になって思う。 僕が死にそうな顔をしてたから、元気づけようとして話題を振ってくれたんだろ。君と僕は同い年で、昔のテレビ番組や、流行った歌や、今はもうないお菓子やおもちゃの思い出話で、よく盛り上がったもんな。 死にそうなのは、君だったのに。 いつかまた会う時に、君は怒るかもしれない。あんなに情けない顔でめそめそしてたくせに、再婚してお父さんになるなんてね、びっくりだよ、うらやましいな、いい気なもんだね、と。 幽霊になって出てきてくれ。夢の中でもいい。僕が死んだ後でもいい。いつかまた会えた時に、全部のことを謝らせてくれ。 それとも、君と僕は、もう会えないのか? そんな残酷なことがあるのかどうか、僕にはよくわからない。 今さら感傷に溺れて泣くなんてみっともない。早く鼻かんでさっさと仕事に行きなよ。あんたはお父さんになったんでしょう。頑張るしかないよ。 ミニトマトに馴れるために一つ弁当に入れていこう、と思いながら、僕はまだ泣き止むことができず、君の声に耳をすましている。
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