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明日の事
「ねぇ、覚えてる? 明日の事……」
煌めくラメ入りアイカラーで囲まれた大きな目をぱちくりとさせ、彼女は私に訊いた。生い茂った紫色の付け睫毛がばさばさ震える。
よく日に焼けて健康的な肌色の彼女は、着ている制服から見て、どうやらこの近隣の高校の生徒らしい。
「らしい」というのは、私が彼女と初対面だからだ。
私は行きつけのカフェで一杯の珈琲を目の前に置きながら、ただぼんやりとガラス窓の外の景色を眺めて暇すぎる時間を潰していただけなのだ。
そこへ彼女が通りかかった。それとほぼ同時に、彼女の顔の横を朱色の翅の蝶がはたはたと飛び過ぎ、私はなんとなく蝶を目で追った。彼女も蝶に気を取られたのか、ふと足を止め、振り向いた。
カフェの中の私と、ガラス窓の向こう側の彼女……。視線がかちりと合う。
その途端、彼女は、ただでさえ大きな目をさらに見開いて手を振り、慌てて店内に駆け込んできて、迷う事なく向かいの席に座った。そして、しばらくモジモジした後、先の質問を発したのだ。
どうやら私を誰かと勘違いしているらしい。
「あっ、ごめん」
どう反応したらいいか分からずに私が黙り込んでいると、彼女はシマッタ、とでも言うように手で口元を押さえて声を上げた。人違いに気がついたのだろうか。
「忘れるはずないよね! 大事なことだもんね!」
彼女はヘヘ、と気恥ずかしそうに笑うと、ぱっと席を立った。
「じゃあ、明日、ね……!」
私に一言も喋る余裕を与えないまま、彼女は何かを納得したらしく、片手をひらひらと振って小走りに店を出て行く。
私は呆然とその後ろ姿を見送る。
何なんだ、一体?
明日、何があるって?
あの子は私を誰と間違えたんだろう?
どうにも釈然としない。
私は、すっかり冷めてしまった珈琲の飲み残しを返却台に置き、店を出た。
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