明日の事

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 赤信号が点灯している。  私は横断歩道を前にして佇んでいる。  私の視界には、この街の西に位置する潮干山と、その中腹に屹立する大仏様の巨像があった。大仏像は我が街にいにしえからある由緒正しい歴史遺産……ではなく、十年ほど前に「ライライヨヨ」という新興宗教団体が建設した鉄筋コンクリート製のものだ。「ライライヨヨ」の本部はこの街にあり、住人の中には信者もかなり多いらしい。詳しくは知らないが。 「あのぉ……」  私の隣に立っていたお爺さんが私を見上げておずおずと声をかけてきた。腰が曲がりかけ、杖を突き、顔が縮緬のようにしわくちゃで、目や鼻や口がどこに付いているのか一見してよく分からない。 「はい、何でしょう?」  私はできるだけ丁寧に応じた。年長者は敬わなければならない。 「明日の事、覚えてらっしゃいますよね?」  お爺さんも丁寧に質問した。  明日の事? 何だそりゃ? 「ああ……どうも、すみません。歳を取るとどうも、不安になりがちで。貴方があの事をお忘れになるはずがありませんよね? これは大変失敬を……」  お爺さんは曲がった腰をさらに曲げて上品に謝罪する。  人違いじゃないですか、と言おうとしたところで、信号が青に変わった。お爺さんは「それではまた明日」と、これまた丁寧に会釈してよちよちと歩き出した。呼び止めるのも気が引けて、私はただ呆然とその場に止まってお爺さんが道路の向こう側へ渡る姿を見守っていた。  信号は再び赤に変わった。  私はそのまま体の向きを変えると、また当てもなくふらふらと歩き出す。  胸の奥のもやついた奇妙な気持ちを払い飛ばしたい一心だった。  明日? 明日が何だって? 明日は明日じゃないか。それ以上でもそれ以下でもない。  そんな風にぐちゃぐちゃと考えながら、いつの間にか私は公園に辿り着いていた。芝生の広場もある大きな公園で、休日は家族連れで賑わっている場所だ。  しかし、今日は平日のためか、人がほとんどいない。  いるのはただ一人、小学生三年生くらいの年頃の男の子だ。だだっ広い芝生の上、一人きりで縄跳びをして遊んでいる。  親も友達もこの場にいないのだろうか?  訝しげに思って見ていると、二重跳びに専念していた男の子は、こちらを見て「ワァ!」と素っ頓狂な叫び声を上げた。彼の足が縄に引っかかる。よろめいた。両手から取り落とした縄飛び用の紐が地面に投げ出され、死んだ蛇みたいな形になる。 「あッ、あのねぇ」  男の子は明らかな動揺を示すようにTシャツに両の掌をこすりつけながら、私に向かって口を開いた。 「別に忘れてたわけじゃないんだよ、明日の事……!」  言い訳をするように上目遣いに私を見て、体を落ち着かなさそうに左右に揺する。 「お父さんもお母さんも明日の準備しなさいって……でも昨日、やっと二重跳びが出来るようになったばかりなんだ。だから嬉しくて……縄跳びとかできるのは今日だけだから……でもほんとだよ、忘れてたわけじゃないんだから」 「明日の事って何?」  私は思い切って訊いてみた。  男の子は一瞬、きょとんとして、次に怒ったように目を見開いてべぇっと下を出した。 「なんでそんな事訊くの? 知ってる癖に!」  男の子はそう叫ぶと、私に背を向けて駆けだしていってしまった。
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