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「あの、覚えていますか?」
僕がそう問いかけると、彼は怪訝な顔をして言った。
「は? お前誰だよ?」
狭い事務所には彼一人だけで、他に誰もいない。
スーツを着こなしている三十代の彼は黒い髪の毛を後ろに流していて、いかにも強面の男性だった。
カツカツと歩き出して僕の目の前にやって来ると、「誰か知らねーけど、何勝手に入って来てんだよ」と凄い剣幕で捲し立てた。
「本当に覚えていませんか?」
「だから知らねーって言ってんだろうが!
誰だてめーは?」
「僕はあの時助けていただいた、たぬきです。
あの時の恩返しをしたいと思い、こうしてやって来ました」
「たぬき? は? 訳わかんねーこと言ってねーで、帰れ」
彼は僕を扉の前まで押し出してくる。
「ちょっと待ってください。恩返しができないと里には帰れません」
「うるせーよ! 帰れ!」
「待ってください、なんでもしますから」
僕がそう言うと彼は僕の顔をジッと見つめて、「今、なんでもっつった?」と真剣な表情で応えた。
「はい! あなたが望むことならどんなことでも」
「……どんなことでも? へー、どんなことでもね。そうか、そうかそうか。なるほど、わかった。よしわかった。とりあえず、入れよ」
なぜか彼は態度を一変させて僕を部屋の中へと案内し、ソファに座らせた。
「まあ、お茶でも飲んでさ」
「ありがとうございます」
出された麦茶は冷たくて、一気に飲んでしまう。
「えっと、君名前は?」
「はい。タロウと呼ばれています」
「タロウくんね、苗字は?」
「苗字? うーん、たぶんありません」
「苗字ないの? なんだよそれ。身分証は?」
「持っていません」
「免許証とか保険証とかさ、財布とか携帯は?」
「持っていません」
僕がそう答えると彼は目を細めてこちらを睨みつけた。
「お前さ、もしデタラメなこと言ってたらマジで容赦しねーからな。とりあえず時間がねーんだ。
さっきなんでもするって言ったよな?
じゃあ、仕事を頼まれてほしいんだわ」
彼は何かを焦っているのか、とてもイライラしているように見える。
「仕事ですか?」
「そうそう。まあ簡単な仕事だからお前でも出来るよ。ちょうど担当のやつが逃げやがって欠員が出て困ってたんだ。じゃあとりあえずこのスーツを着て」
彼に言われた通り僕は黒いスーツを着た。サイズは若干大きく見えたが、「まあいいんじゃねーか」と言われて少し嬉しかった。
「よし、じゃあ行くぞ」
彼は勢いよく立ち上がり、事務所を出て行く。僕はその後を追って駐車場に停めてあった彼の黒い車に乗り込んだ。
エンジンをかけて車が発進すると凄い勢いで道路を走っていく。
「お前さ、人見知りとかしないタイプか?」
流れる車窓を眺めていると、彼がそう問いかけてきた。
「人見知りですか?」
「なんか誰とでもすぐ仲良くなりそうだよな」
「そうですね、あんまりそういうことを気にしたことはないです」
「それならいいや。そういうやつの方がこの仕事に向いてんだよ」
褒められている気がして、僕は少し笑った。
信号で車が停まると、彼はポケットから携帯電話を僕に渡した。
「仕事が終わったらそれ使って電話してこい。そしたらすぐに迎えに行くから」
「あの、仕事っていうのは具体的に何を?」
「現場着いたら教えるよ」
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