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「ねぇ、覚えてる?」
その言葉に肩がぴくりと跳ねたのが見えた。それだけの反応をしてみせるのだから、何も覚えていないという方が不自然にもほどがある。それなのにいつも、さあ何のことかなと、そればかりを繰り返す。
私が何を覚えているのかを訊ねる言葉を口にする前に返ってくるその返事は、違和感ばかりを増長させる。
高台にある彼のアトリエで、いつもこんなやり取りをしては有耶無耶のままに終わる。それを良いとは思わなかったけれど、それほどまでに問題を感じていないのも事実であった。
だって私と彼なんて、所詮はこの程度の関係なのだ。
空のカップに、すっかりと冷たくなった珈琲を注いだ。今朝淹れたはずのそれは手付かずのまま残されていた。毎回飲むかどうかを訊ねてから淹れたはずなのに、ここ最近はこんなものだ。
飲み頃を過ぎたそれを、温め直しもせずに口にする。ああ美味しくない。
ただ処理をするためだけにそれを喉に流し入れる。ああ美味しくない。
ーーねぇ、覚えてる?ーー
この問いに、意味はない。文字通り、最初から意味などない。意味などないこの問いに意味を与えてしまったのは、私の所為か貴方の所為か。
気まぐれにしたこの質問は、私たちの関係からも少しずつ意味を抜き取っていった。
西陽が射し込んでくる最悪な間取り、彼の創作のためだけに造られたアトリエは、私とっては牢獄だ。
窮屈なんてとっくに過ぎて、苦痛を感じている。
それに拍車をかけたのは……
ーーねぇ、覚えてる?ーー
「さあ、何のことかな」
今日もまた彼の返事は変わらない。そりゃあそうなのだ。そうとしか本当はいいようがないのだ。
最初から何もないのだから。
なのに、それなのに、何もないところでも何かを隠し続けるような挙動を積み上げれば、同時に不信感も膨らんでいく。
太陽は沈みきって、開け放たれた窓からは遠い街の明かりだけがチラチラした。星がきれいに見えるほどにはここは暗くない。
「ねぇ……」
「……」
反応はない。意図の有無に関わらずそれは決定打になる。
「ねぇ……覚えてる?」
「……」
「私、出ていくから」
「そうか……」
何だ聞こえていたのかと、溜め息もでなかった。
暗いうちにアトリエを出た。彼の自宅兼アトリエのここに一緒に住んでから良いことなんてあっただろうか。
「ねぇ、覚えてる?」
あったとしても今の私には思い出す気力もない。自分自身への問い掛けは虚しいまま、開きはじめた月はその大半を暗いままに私を見下ろしている。
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