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拓信と繁美は、示し合わせたイタリアンの店にいる。
彼らのテーブルには、もう料理が置かれていた。ペスカトーレとナポリ風のピザ、それに色の組み合わせが鮮やかな前菜の皿が二つ。それだけでテーブルのスペースはいっぱいになっていた。
二人は取り皿を持って、テーブルに置かれた料理をシェアしながら食べていた。この店では、コロナ対策としてシェアして食べることは控えるようにアナウンスしてはいるものの、取り皿を所望する客に対して、それを拒むことはなかった。
「ひさびさ来たけど、やっぱりおいしいわね。ここのパスタ」
「もちもちしてるよな。ちょっと太めなのが俺好み」
「なんかやらしい」
二人の間にパーテーションはない。テーブルがせま過ぎて、置くスペースがないのである。
この店にカウンター席はなく、小さなテーブルのボックス席しかない。パーテーションを置きたくてもおけない、こういう店もあるのだ。
拓信は、パスタを食べながら、あたりを見渡した。
席は全て埋まっている。客はみなマスクを外して、おしゃべりと食事を楽しんでいた。あたかもこの店の中だけは、コロナ禍など関係ないかのように。騒音のような多くの人のしゃべる声を、拓信は久しぶりに聞いているような気がした。
客が入店する前の検温とアルコール消毒の対策は、店の外にいるウエイトレスの誘導でおこなってはいたが、換気といえば出入口の扉を開けっ放しにしている程度で、拓信は入店した時から不安を覚えていた。
――まあ、いいか。だいじょうぶだろう。久しぶりの外めしを楽しまなくては。
拓信はそう思って、視線をテーブルに戻した。
その時、拓信が座っている席の近くで、人が激しく咳き込む音がした。
ざわついていた店内が、一気に静かになった
咳き込む音は続いている。拓信は、音のしている方を見た。
老人がテーブルに突っ伏していて、その背中を、心配そうに老婦人がさすっている様子が目に入った。おそらく二人は夫婦なのだろう。
ウエイトレスはやって来たものの、どうしたらいいか分からないのか、その場に立ちすくんでしまった。
「コロナなんじゃない」「たぶんコロナ」「あれはコロナだ」どこからともなく、そんな囁き声が次々に拓信の耳に届いた。
店内にあるいくつもの視線が老夫婦に集中して、まるでへばりついているように、彼は感じた。
老婦人は、目を閉じて黙って声を聞いていたが、いきなり立ち上がった。
「夫はコロナじゃありません。ぜんそく持ちなだけです。熱だって、熱だって無かったんだから……」
周りのテーブルの客が少し引きぎみになったように、拓信は感じた。老婦人から飛んでくるつばを避けたのかもしれない。
「こんな時に発作が。コホ。ついてな。コホ。もう帰るよ」
咳がおさまりかけた老人が、座ったままつぶやくように言った。
老婦人は、その声にうなずいて老人を抱きかかえた。
二人は、よたよたと歩き、会計を済ませて店を出て行った。
「ぜんそく、なのかな……」
繁美は、ぽつんとそう言って、自らの取り皿にピザを乗せた。
「本人が言ってるんだから、そうなんだろ」
みんな気にしていないようで実は気にしているのだろう、と拓信は考える。彼は、仮面劇の登場人物が、いっせいに仮面を取ったシーンを見てしまったような違和感に包まれていた。隠していたものが急に露わになったときのあの違和感。苦痛で顔がゆがみ、今にも叫びそうな人たち。……みんな、心の底に溜まっている黒い粘液のようなものに、ごく薄い布をかぶせて、その粘液を見ないようにして日々を過ごしているのだ。
「あなた、早く食べて。昼休みが終わっちゃうわ」
「そうだった。ペースを上げよう」
――さっきの老人のことはしっかり覚えておいた方がいいな。もしコロナに感染したら、過去二週間の行動を詳細に保健所や会社に報告しなければならない。老人を疑うわけではないが、危ないと思った出来事を記憶に留めることは、拓信の習慣になっていたのである。
重い空気につつまれた店内の雰囲気は、かなりのあいだ続いたが、少しずつもとのランチタイムを楽しむ明るいものに変わっていった。かりそめにコロナ禍を忘れる、かけがえのないひと時に。
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